白波の花頃
《赤水成趣園》
女性が茶太郎を連れてきた、場所の名称だ。森林公園の隣り合わせに位置する《其所》は、山脈からの伏流水が湧き出でて作られた池が澄みきっており、添える植木、芝生、浮石などで古時代の浮世絵を表した回遊庭園である。
《其所》では、季節の節目で神楽、流鏑馬の催しも開かれている。毎年催されているのは知っていたが、観る機会に恵まれていなかった。
せめて、雰囲気でも。茶太郎は場景を想像した。神楽殿では能楽師の幻想的な舞いを、流鏑馬の馬場では駆ける馬上から鎧兜を身に纏う射手が矢をはなつ姿を、茶太郎は瞳を綴じて場景を想像した。
それにしても、人が少ない。平日とはいえ、観光地の《此所》はもっと賑やかであってもよかろう。
女性が『見学』と、言った意味と関係するのだろうか。否、今日は休暇日。よって“捕り物”での考えは止めとこう。
女性が言っていた『職場』は成趣園内にある歴史資料館だった。藩を廃止して県を置く情勢、そこに関わった歴史ある人物達の紹介と説明。そして、展示品を茶太郎は観賞するのであった。
「女子様、貴重な時間を割いて私を招いていただいたことに、心から感謝を申し上げます」
「そんな、堅苦しいご挨拶をされないでください。まだお時間がありますか。茶処でお茶はいかがですか」
茶太郎は「はっ」と、目を丸くした。
今度は茶の誘い。戸惑いは僅かにあったが、茶太郎は即、返答をするのを決める。
「是非、よろしくお願いします」
女性の頬が、淡く桜色に染まっていくのが見えたーー。
***
〔茶処 赤水〕
此所も成趣園内ある店だ。建屋、内装共々古時代の象りが奥ゆかしい。
ふたりは座卓席に座り、お品書きに記されている〈栗団子〉と〈葛餅〉をお冷やを運んできた店員に注文する。因みに〈栗団子〉は茶太郎が〈葛餅〉は女性だ。飲み物はどちらも温かい抹茶にと、注文をするのであった。
「まだ休憩時間です。だから、こうして自由な行動をしていられるのです」
茶太郎の、お冷やが注がれているコップを持つ手が「ぴたり」と、動きを止める。考えを読まれてしまったような女性の口の突きに、茶太郎は驚いたさまとなった。
「女性に彼是と尋ねるのは失礼だと控えていたのですが、無意識に言葉にしていた。或いは態度を示していた。大変、申し訳ありません」
「あなたは真面目な方ですね。そんなに気を使われないでください。わたしの《此所》での仕事は主に資料館の案内係ですが先程ご覧になられた通り閑散していることが多く、かといって待機するのが勿体なくて。特に天気が良い日は休憩時間と称して森林公園まで脚を運ぶをしております」
なんという、自由な『職場』だ。いや、女性は働きに於いて待遇に恵まれているのだと、解釈したほうが良い。
茶太郎、気になっているけどさ。矢鱈と女性を意識しているのは、どういうことなの。あ、踏まれてしまった。
「どうなさいましたか。それともお身体が優れないのでしょうか」
「いえいえ、ご心配をされないでください。それにしても、素晴らしい景色ですね。池の鯉が優雅に游ぎ、菊の花が誇らしげに咲いている」
「“白波菊”は今が花見頃です。ご覧になられてよかったですね」
「ほう、あの“白波六花”のひとつである菊ですか。私の上司が菊の栽培を趣味にしておりますが、専門的な知識に疎い私は上司の菊に於いての語りについていけないのが残念で堪らない」
「わたしもですよ。菊の花は手鞠のようなかたちをしているのと思っていたのですが、菊にはさまざまな種類に花弁があるというのを知ったときには、驚いてしまいました」
いいな、何だか話が弾んでいる。茶太郎、隅に置けない奴だったのだね。ちぇ、ちぇ、ちぇ。
「女子様、私はまだ自己紹介をしておりませんでした。私は
「わたしは
「当て字ですが、私が命名致しました。とある理由で保護した宇井雨衣は私の家族にと、迎えたに至りました」
茶太郎は、茶処の座卓に宇井雨衣を乗せる。そして、宇井雨衣は目をくるくると愛くるしくさせて、椿を見つめるのであった。
「ふふふ、あなたは良い子ね。茶太郎さんが深い愛情を注がれていると、よくわかります」
「椿様、感謝致します。甘味物、とても美味しかったです。さて、宇井雨衣。そろそろ帰宅しよう」
「もう、お帰りになられるのですか」
茶太郎が起立しようとしていると、椿が寂しげに言う。
「あ、いえ。私は本日休暇ですが、椿様はーー」
「待ってください。そうだ、わたしが仕事を早退致します」
「早まったことをされないでください。どうか、お勤めを大切にされてください」
「本当に、真面目なお方。あなたを困らせて、ごめんなさい」
椿はしゅんと、しおれる。
「……。私も名残惜しいのです。このまま、あなたと会えなくなるのは寂しい。私の連絡先を受け取ってもらえますか」
「はい、喜んで。わたしもあなたに連絡先をお渡ししたいのですが」
「勿論です。椿様、今度はゆっくりとお会い致しましょう」
ーーはい……。
ふたりは、互いの連絡先を交換したのであったーー。
***
『葉之助です。兄貴、お休みのところ申し訳ありません。火急な相談がありますので、折り返しのご連絡をお願いします』
休暇日に、自宅に電話をするな。
茶太郎の機嫌は悪かった。先程の穏やかなひとときが、あっという間に木っ端微塵になってしまった。固定電話の留守録がしつこく同じ用件の内容での件数(分単位で5件)が、茶太郎の機嫌を悪くした。
「私だ、葉之助。何があったのか説明しなさい」
部下の葉之助からでは、無視を出来ない。茶太郎は渋々と固定電話から葉之助の携帯電話へと通信をするのであった。
「……。わかった。1度“奉行所”に行って“現場”に向かう。時間を取ってしまうのを許してくれるかい。……。ありがとう、それでは失礼致す」
茶太郎は葉之助との通信を終わらせて、身支度を整える。
『茶太郎さん、ひょっとして“お仕事”に行っちゃうの』
「すまない、宇井雨衣。かなり危険な場所に行くから、家で留守番をしてほしい」
『ついていきたいけれど、我慢する。でも、お家でひとりぼっちは怖い……。』
宇井雨衣は茶太郎の掌の上で、ぶるぶると震えていた。気持ちはわかるが“現場”に連れていくとなれば、宇井雨衣の身の安全を護り抜く自信はない。
葉之助は、言っていた。
“現場”は先程訪れた《赤水成趣園》の近くだと。
こんなにも早く、連絡先の番号を押すとは。
複雑であったが、頼れるのはそこしかない。まだ、勤務時間だろうか。そして、用件を受け止めてくれるだろうか。
『まあ、早速のお電話とても嬉しいです……。ええ、大丈夫ですよ。宇井雨衣を預からせていただきます』
通話機越しではあるが、椿の優しい声がなんとも心地よい。まるで、近くにいる。黒い短髪、二重瞼の睫が長い暁色の瞳。秋の彩りを彷彿させる、復古調なワンピース。椿の姿が、茶太郎の目蓋の裏に表れる。
「椿様、よろしくお願いします。詳しい事情は、後程説明致します」
茶太郎は宇井雨衣を連れて、椿がいる成趣園へと向かったーー。
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