風月
“モノ”絡みの事案が発生した。よりによって、先程までいた
休暇で気が緩んでいた所為は、言い訳だ。
“影切り”が“モノ”を感知しきれなかったのは、大失態だ。
ーーかまいたちの通力を持つ“モノ”は、俺だって梃子摺る。気配が獣そのものだから“影切り”のあんたは、俺よりもっと梃子摺るぞ。
今思えば“蓋閉め”の忠告だった。
“蓋閉め”の、巫山戯混じりだと侮っていたーー。
***
お開きをしたのに僅かな時間で舞い戻る。素直に喜びたいが、そういう訳にはいかない。
「申し訳ない。火急の用件の為に経緯の説明を割愛することをお許しください」
素性を明かす時間はない。現場検証を執り行っている部下と一刻も早く合流したいと、茶太郎は焦っていた。
「行ってらっしゃいませ。遅くなるのでしたら、宇井雨衣をわたしの家で一晩預かりますよ」
「いえ、此所へと必ず迎えに来ます」
「《
「なんと、それは実に切ない。ああ、かといって椿様に迷惑はかけられない」
茶太郎にしては珍しく、おろおろと狼狽えるさまとなっていた。
「落ち着いてください茶太郎さん。わたしは明日が休暇日です。ですので、何も気にしなくて良いのですよ」
「……。お言葉に、甘えさせていただきます」
茶太郎は、椿に深々とお辞儀をするのであったーー。
***
“捕り物”の証明証、護身用の十手。そして“影切り”で絶対に必要な藍染めの麻袋。
退勤及び休暇日は自宅に
「葉之助、ご苦労」
「随分、急がれた様子ですね。彦一、兄貴に冷たい飲み物の差し入れを」
「大丈夫だよ、葉之助。ふむ、なんという惨状だ」
茶太郎は漸く“現場”で部下の葉之助と彦一に合流した。そして、規制線を潜ると現場検証を執り行っている“同心”の傍に行った。
地面に生々しい血溜まり、低樹木にまで血吹雪が飛沫している。散らばるのは、おそらく人が携帯していた持ち物。
「被害者は、どうなのかい」
「残念ながら搬送先の医療機関にて、死亡が確認されました。と、先程連絡が入りました」
“同心”は、遺留品となった物を回収する作業を執り行っていた。そこに、茶太郎は声を掛けたのであった。
「犯行に及んだのは切り裂き“モノ”なのだね。葉之助、私は此所の近くにある《成趣園》にいた。其所での人が少なかったのと今回の件を結びつけるのは、どう思う」
茶太郎の後ろに、葉之助がいた。そして、提言を求めた。
「近辺で暮らす住民は切り裂き“モノ”が出没すると、警戒をしていたのこと。ですが、
「なるほどね、民は自警をしていた。とても、危険な行動をね」
葉之助が「ふう」と、重い溜息を吐く。
「葉之助、気落ちしたらいけないよ。民は民なりの考えがあった。何か寄せ付けないようにと頑張ったのだと、私は思う」
「わかりました、兄貴。あなたのお気持ちを、優先に致します」
「私は“奉行所”に戻って事案の書類を作成する。葉之助、今夜は冷え込む。身体を温めるのを忘れないようにするのだよ」
現場検証を終了させた“同心”達が器材を搬送車に乗せる姿を、茶太郎は見守っていたーー。
***
なんとも長い夜だった。朝の身支度を整え終えた茶太郎は自宅の戸口に錠を掛けると、足早で“奉行所”へと向かった。
ーーまあ、明日のお昼にですか。はい、先日の場所でお会いするのを待ちます。
茶太郎は昨日“奉行所”の電話を使って、椿へと連絡をした。目的は椿に預けた宇井雨衣を迎える為に。
それだけではなかった。本日から事案に於いての本格的な捜査を執り行う。
躊躇いはあったが、素性を隠すは出来ない。ただ、驚かれてしまうことは予測する。
「あのう、茶太郎さん。あなたはーー」
案の定の反応だ。待ち合わせの場所に現れた茶太郎の姿を見る椿は呆然となっていた。
「先日はお世話になりました。もとい、お忙しい時間の最中で申し訳ありませんが昨日此所の近くで起きた事件について、情報提供のご協力をお願いします」
茶太郎は腰に十手と藍染めの麻袋を着けて“捕り物”の証明証を椿に掲げていた。
「……。恥ずかしいです。だって、あなたと会っていた時間から場所まで言わなければならないのでしょう」
「ご面倒でしょうが、教えてほしいです。この後一緒に昼食を。は、いかがですか」
茶太郎、何か照れくさそうにしているよ。それもその筈だ、椿の正直すぎる言い方に擽られたのだからね。どさくさ紛れに椿を誘ってるのが妬けるよ。
「どうしても……。ですか」
「はい、そうです。あなたが逃げたら、私はあなたが怪しいと目をつけてしまう。それだけは、絶対にしたくないのです。だから、一緒に昼食を」
「負けました。今から、お話しを致します」
椿は「ぷう」と、頬を膨らませたーー。
***
職権乱用とは、こういうことだろう。しかし、だ。茶太郎と椿は良い雰囲気の関係に成りつつなのだ。だから、邪魔をしたらいけないよ。
「お疲れさま」
「茶太郎さんの意地悪」
茶太郎と椿は食事処にいた。椿は茶太郎からの
「……。椿」
「はい」
「正式に、私の傍にいてほしい。と、お伝え致します」
「あなたのお仕事が終わってから返答を致します」
ーー御意。
注文した食事が運ばれたのを境に、ふたりの会話がぷつりと、途切れたーー。
***
本日の勤務は終了した。身に付けていた、任務で必要な所持品はすべて“奉行所”に置く。
茶太郎は結局、宇井雨衣を椿に預けたままだった。今日は絶対に迎えに行かなければならない。
「待ちくたびれたのでは。と、思ったよ」
「全然よ。宇井雨衣が居てくれたから、ちっとも退屈にならなかったわ」
椿が昼間、食事処で不機嫌だったのを茶太郎は覚えている。ひょっとしたら待ち合わせをすっぽかされてしまうのではないかと、茶太郎は心配していた。
「時間は大丈夫かい。帰宅時間が遅いと、家族に叱られてしまうよ」
「まるで未成年扱いね。と、いうよりわたしは箱入り娘ではないわ」
外はすっかり暗くなっていた。着手した事案がまだ解決していないこともあって、椿を一刻も早く帰宅させなければならないと茶太郎は気を効かせたつもりだったが、椿にしてみれば余計なお世話だと言うことらしい。
「わかったよ。だから、機嫌を直して」
「……。勘違いしたら駄目よ。わたし、ちゃんと決めているから」
「ありがとう。だけど、お互い明日がある。それは、わかってくれるよね」
「勿論よ。でも、これからあなたとの時間がとても楽しみ」
「そう言ってくれて、嬉しい。では、早速後日会う日取りを打ち合わせするよ」
「思いっきり遠出したいわ。海でしょう、山でしょう、それからーー」
「こらこら、そんなに欲張ったらいけないよ。地元の観光は、どうだい」
「あら、わたしがどこに勤めているのかを知ってて、そんなことを言うの。本当に意地悪ね」
「あなたが傍にいてくれる。それだけでも私は満たされる……。」
茶太郎は、椿の掌をそっと握る。
ーー最初にあなたを見つけたのはわたしなの。だから『イエス』よ……。
椿が、茶太郎の腕の中にいて囁いたーー。
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