File:5-1_調整期間=Adjustment Period/
『カナ様、おはようございます』
起床アラームが三度ほど鳴り、ベッドが自動で起き上がって半強制的に私を起こした。いつもより眠気はそこまでないものの、私はボーっとしていた。
目の前には眼鏡をかけた執事姿の落ち着いた好青年。私の生活管理を任されているAIクラウド搭載のアンドロイドだ。一見すれば普通の人間と遜色ない。
『ほら、起きてください』
「……おはようございます」
私の声に答えたかのように、執事の足元から白い猫が――立体ホログラムモデルが目の前に乗っかってくる。それに嫌気がさしつつも、なんとなくその白い毛並みを撫でると手にすり寄って媚を売ってきた。血流内に存在する多量のナノボットが神経や脳を刺激することで、存在しない感覚を得、あたかもそこに白猫がいるような錯覚を与えてくる。余計な分子生物学的情報が頭蓋の中に介入してこないあたりまだいいが、この感覚は当初違和感を抱いたものだ。
それを微笑ましく見つめる
『二月一八日、六時三〇分。カナ様の
そんな声を無視し、猫をどけて立ち上がった私はぼさついた髪越しで頭をかいてあくびを一つ。
今の気分からとても良好とは言い難い。とはいえ相手は
『六〇分後、七時三〇分にインコード様がお迎えに参りますので、それまでにお着替え等、準備を済ませておいてください。朝食はベッドの側に設置された受信ボックスに転送しておきましたのでそれを召し上がっても構いません。今なら朝食カロリーを調整することができますが、摂取量二三〇キロカロリーが適正です』
「それでおねがい」
『かしこまりました。今日は大切な日で緊張されているかと思いますが、健康な身体と精神で素晴らしい生活を送ってくださいね』
パッと室内の照明が点くと同時に内装ホログラムも作動した。一瞬の
ホログラムの再現度・画素密度は完全に人間の認識能力を超えていて、本物と区別がつかない、らしい。意識しないでいれば確かに本物に見えないこともないが、凝視すれば偽りであることがすぐに分かる。私はそれが嫌だった。周りの人たちと同じになりたい――認識的に鈍感になりたいとどれだけ願ったか、と今までを思い返す。
「……大丈夫かな」
世暦2045年2月23日。
あれからというもの、三ヵ月の月日が経つのは早く感じられた。いや、思い返せばようやく三ヶ月経ったといってもいい。それだけの濃密さを味わったのだから。
アルベルク総統括の命令通り、上司のインコードはちゃんとサポーターとしての仕事を割り振り、またラディやエイミーと中心に仕事を共にした。この頭だ、組織内の情報は大方網羅したつもりだし、仕事も完璧とまではいかなくともそつなくこなせた。
それでも、分からないことは多い。確認されるもデータベース化していないイルトリックも山のようにいる。
そこまではいい。問題はイルトリックに対抗するための訓練だった。
最初はそれこそリハビリだった。だが次第にスポーツ選手ないし軍人の訓練へと発展し、しまいには人並外れたえげつない訓練や試験、模擬戦闘の数々をやらされた。嫌気がさしていた週に一度の知能・身体等検査が安らぎとさえ思えたほどだ。
ただ、戦闘型ではなくともスコアは高いと評価。イルトリックに対する対処法と戦闘技術の能力も伸びていき、嬉しくないと言えば嘘になる。試用期間2か月半あたりで実戦投入しても問題ないと研究員とインストラクターに言われたほどだ。
カルマを使わせてもらえないことを除いては。
インコード曰く、まだ制御できる状態じゃないとのこと。カルマを発動させる
今日はいつも通りの一日を過ごすわけではない。私にとっても特別な日だ。
「どうだ。少しは緊張するか?」
調理ボックスから出された簡易的な栄養補給食を摂取し二〇分後、生活管理アンドロイドが言っていた通り、インコードがマイルームに顔を出した。
ついていって今に至るまで約三分。乗用自動車二台分は余裕で入る程のスペースを確保しているエレベーター内に二人だけが乗っている。現在位置は海抜マイナス四三二.三メートルを超えている最中。僅差だが、重力が
「まぁね。ここに来てからどうも
「カナの実力は評価してるけど、そう簡単に読まれちゃUNDER-LINEの立つ瀬もねぇよ。それに未来は見えない方が楽しめる」
「不安に思わないなんておめでたいですこと」
「そんなの気にしたってきりねぇよ。緊張しなくても、簡単な検査みたいなものだから大丈夫だ。いつも通りの気持ちでやればいい」
今日はカルマの発動許可を得られる日であり、私の"専用武器"の支給もされる日でもある。
「最初のカルマ発動は凄まじいって話をよく耳にしてきたけど」
「大抵はな。まぁ脳みそパーンなっても死にはしない程度に医療班は優秀だから安心しろって」
「それで安心できる人いないでしょ。"専用武器"だって昨日の夜まで詳細知らされてないのどういう了見よ」
「あ、それはただのサプライズ」
「ぶっ飛ばすわよ」
「冗談だ。開発陣の苦労もわかってやれ」
その人の"カルマ"と生体情報に見合った対イルトリックの武器は多岐にわたる。インコードの現実拡張する黒い刀剣や、ボードネイズのジェットハンマー兼デコンポーズキャノンもそれに含まれるのだろうが何も剣や銃ばかりではなく、本や札のような武器とは思えないものまで該当する。
「それで調整期間の話は聞いてるな」とインコード。
「ラディさんからね。スケジュールや場所は把握したけど、『詳しくはインコード先輩が教えてくれる』とのこと」
「えー俺にパスしちゃう? まぁそれについては追々説明するとして、まずはカナの専用武器の受け取りだな。そのあとにカルマ発動の検査と訓練をしてもらうか」
「あと、その調整期間って二週間だけで十分なものなの?」
「思ったような結果が出なけりゃまた調整する。でもまぁ体質上カナならそのぐらいで大丈夫だろ。試用期間も三ヶ月程度でいい成績残したことだし、評判も悪くなかったぞ。なんでニートだったんだよお前」
「もういいでしょその話は。……みんな優しかっただけ」
「……ツンデレ?」
反射的とも言っていいほどの速度で、インコードの尻を右足で蹴った。
「痛ぇ~、それツン越えてただのバイオレンスだろ。てか上司蹴るか普通」
「あんたは別にいいの。理由ないけど」
「俺も優しい人の一人でよかったな。ま、今の威力なら今後の訓練も申し分ない。今日から実戦投入しても大丈夫だと思うぜ」
「過剰に期待されても困るんだけど」
いい加減なものだ。
自分専用の武器が手に入るというゲームのような展開に期待する一方で、あの命懸けの戦いに身を置かねばならないということを悟り、私は一度、家族のことを思い返した。せめて家や自室がどうなっているのか帰ることができたらと思いながら、エレベーターが下っていく静かな音を音楽代わりに聞いていた。
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