File:4-2_目を覚ます、眼を醒ます=Wake up, wake up./

     *


「お、目が覚めたか」

 現実味のある、はっきりとした音の波長。それがインコードのものだとすぐにわかった。ぱちりと目を開けた私の視界を占拠したのは澄んだ空――のホログラムで覆われている、乳白色の天井だった。枕元には体調や脳波などのモニタリング装置。

 個室の構成も病院の一室に似ている。しかし、ベッドに寝ているのは私だけのようだ。担当医師もいなければ看護師もいない。いるのは丸椅子に腰かけているインコードだけだった。


「病院……?」

正解ピンポーン。正確には組織内の医療施設だ」

 病棟もあるとはやはり規模は大きいと感心する。とりあえず、生きていてよかった。生きる意味がないと思っていた時期が懐かしい。いざ外的な死線を辿れば生きたいって思うようになる程度には、私のメンタルもだいぶ回復しているようだ。


 それにしても変な夢を見た。相変わらず脳が見せる夢の世界は支離滅裂。それも説明できるだけの解答が脳裏を過るが、あくまでメカニズム。それに、それが正解だとは限らない。


 息を吸い、鼻で静かにため息をつく。安心した感情で身体が一気にリラックスする。サイドテーブルにはお見舞いの品なのか、ひとくちずんだ餅が置かれていた。ただ今はあまり食欲がないと視線を別にそらした。


 その様子をじっと見ていたインコードは腰掛けている回転する丸椅子をキィキィ動かし、手に持っていた電子ペーパーを丸めて閉じる。


「……ガバァッて起き上がらないのか。『みんなは無事なの!?』みたいな感じで、んで『痛っ……!』って、思っている以上の怪我に自覚がない感じで――」

「そんなアニメみたいなこと実際にしないから」

 何を言うかと思えばと私は内心呆れる。少しは心配の一言があってもいいんじゃないか。

「でもお前ずっと家に籠ってアニメとか見尽くしてんだから、少しはミームとか物語特有の台詞とか影響されてるはずじゃ……」

「んなわけあるかっての」

 偏見にもほどがある。というかどうしてそんなことまで知っている。監視カメラでもつけられていたんじゃないかと不安になる。


「そっか、オタクにもいろんなのがいるんだな」

「別に私はオタクじゃ……いや、違うわけでもないんだけど」

 引きこもりニートの勲章を授かり、この国のサブカルチャーであるアニメやオンラインゲーム、漫画を嗜む内向的な人間。またBLの小説や漫画も好むあたり、業界用語でいうれっきとした腐女子だ。


「だろうな」

「そこ肯定しないで。ていうかあんただって似たようなもんじゃない。その読んでるやつだってラノベでしょ、ライトノベル」

 どうして正式名称を言い正したのかは自分にもわからないが、インコードが手に持っていた読書用のフレキシブル型電子ペーパーへと指差す。私にはわかるぞ、眼球に映りこんだ画面の文字の文面とセリフの内容から「推しいも」一巻の一八七ページだということを。というか看病ついでに読む本がなんでよりによってそれなんだよ。


「ああ、これは別の隊の職員やつに勧められたんだ。結構読みやすくて面白いんだよこれ」と肯定。しかも好印象。否定しないのが逆に清々しい。しかしそれが腹立つ。

「そ、それにシスコンだし!」

「あーそうだな、こういうジャンルの本に影響されてるところはあるな。こういう兄妹愛の形も悪くはないなって。ただこれまでのおまえの反応を見るにネットやサブカル業界でしか許されてないようだともわかったし、知り合いの会話にもついていけそうだからいい勉強になったよ」

「いやラノベをそんな気持ち悪く捉えて読んでるのあんただけだよ」

「ちなみにこれエロ小説だけど、おまえ読みたそうな目をしてるし特別に貸してやってもいいぞ。ただ汚すなよ」

「おまえの目は腐ってる!」

 節穴どころの騒ぎじゃない。こいつの目には一体どんな世界が映っているんだ。


「おまっ、腐ってるって……! 思い違いもいいとこだぞ」

「それこっちの台詞!」

「そら来たアニメ台詞『それはこっちの台詞だ』系ツッコミ! 1ポイントいただきました!」

「あーもうコイツくっそ腹立つ」

「組織社会に腹立たしい奴の一人いたっておかしくはないさ。俺が上司でドンマイだったな」

 あっはっは! と愉快に笑う。苛立ちは疲労になり、言い返すことも面倒になってきたとき、会話が途切れる。


「……申し訳ない」

 笑うことをやめたインコードは視線を落とし、ぽつりと謝った。急でありつつも、空元気だったのはわかっていた。本題に入るなり気まずくなり、再び少しの間ができる。


「結局、私に何が起きたの?」

「イルトリックの汚染による侵食だ」

「侵食……」

「フィニジャンク統括の狙い通り、あんたは十分にイルトリックに分類される拒絶反応緩和物質を既定値以上吸入した。もちろん他の汚染物質もな。イルトリック化する最悪のリスクは最初からわかりきっていたから、第三隊こちらで対処して事なきを得たよ」

 起き上がろうとするも、上手く力が入らない。じんじんと体内中が痛む。特に背骨の内側と頭、肝臓辺りが痛い。

「で、手術は無事に成功したよ。これであんたも立派な改造人間だ」

「……めでたく組織そちらがわの思い通りになったってわけね。あんたも正直わかってたんでしょ、あの統括の指示に従った方が上手くいくって」


 少し考えれば誰でもわかる話だ。

 私の汚染リスクを高めるには精神性の侵食も含まれるだろう。そのために、総統括に信頼され、職員に慕われているインコードとその隊、つまりエキスパートの中でも特段優秀であるはずの彼らはあえて手早く任務を完遂させなかった。


 すぐに仕留められるはずの対象に反抗のチャンスを与え続け、最終的には私に仕留めさせたのも、偶然の流れではない。もし私の精神性を不安定にさせ、かつ死の淵に追いやることも目的の一つであるなら十分にそれは達成している。


 何が適合試験をパスさせる要素なのかは不明瞭だが、この組織が私のこの体質を都合のいい形で手にしようとしている意図が働いている。そう説明できる形にしないと、私が納得いかなかった。

 図星だったのか否か、インコードはあきらめたように視線を落とし、笑みを浮かべた。


「そう、だな。あんたに十分な説明をしなかったことは謝るよ」

 申し訳なかった、と深く頭を下げられる。特別、怒りがわくわけでもなく。今さら怒鳴ったところでもう過ぎたことなのだから。それに体も無事そうでよかったと安堵する。


「言い訳くらいは聞いてあげる」

「かわいげねーなほんと」と呆れ顔を拝む。「でも、ありがとな」

「人によってそれぞれだけどカナの場合、イルトリックによる心身の影響をあらかじめ与えないと、能力持ちどころか精神疾患を抱えてる一般市民が適合試験をパスする確率はかなり低いし、最悪突発的な死を迎えることになる。それを避けるにしても残酷な副作用が生じることもある」

「あのまま普通に手術したらどうなってたの? 失敗率高いのは知ってたんでしょ?」

「まぁな。それなりの対策は用意してたけど、いま無事に生きてるならそれでいい」

 答えになっていないあたり、なんだか濁されたような気がした。でも、あまり考えることも叶わず、集中も難しい。


「フィニジャンク統括も考えがあっての指示だろうけど、とにかくごめんな、ひどい目に遭わせてしまって。正直辞めたくなっただろ」

 自虐するようにインコードは苦笑する。複雑な何かが心臓の中の血液をかき混ぜるような気持ちの悪い気分が私を患う。

「っていっても、やめさせる気なんてないんでしょ。あんたも、このUNDER-LINEも」

 そう言うと、インコードはやさしく笑みを向けた。


「おまえが必要だからな」

 そこらの俳優とさして変わらない美青年の微笑。その整った口唇から心地よく発した低声の一言は、馬鹿な女ならば簡単に射抜かれることだろう。だが、こいつは違う。

 性格ひん曲がった私にとって、ひどく不快だ。


「その笑顔がむかつくのよ」

「あ、ひっでぇ。それいじめだからな。やーい職場いじめー」

「あーうっさい。とりあえず今は大丈夫なんでしょ?」

「ああ。あとは身体の回復を待つだけだ。あと四日くらいで完治するってよ」

 とはいえ、殺す気はないとわかっただけでも収穫か。

 よかった。そう私は呟いた。とにかく、今のうちにあの親戚や妹に連絡すれば余計な心配をかけずに――。


「あのときから七日と十九時間経っている」

「――ええっ!?」

 がばぁっ、と思わず身を起こした。本当にフィクションにありがちな反応をしてしまった。


 力が入らなかったはずの身体を動かせた不思議はともかくとして、私はそこまで症状がひどかったのか。いや、そんなことよりも、一週間近くも家族に連絡せず行方をくらましていたら捜索届を出されてもおかしくはない。

 腐っても親戚だ。私のことをどう思っていようが自分の身内の娘を任されている身として何かしらの行動は起こしているはずだ。


「そ、そんなに……っ!?」

「それだけ深刻だったんだ。あと――」

「私の家族は! 一日外泊するしか連絡も入れてないし、そんな一週間も経っていたら――っ」


 自問自答。

 嗚呼。そういうことか。

 これは確かに、残酷だ。


「大丈夫だ」とインコードは安心させるような声で言い聞かせる。「あんたはもう、こちら側の人間だ」

「まさか、世間では死んだことになってんの?」

「それよりも酷だろうな。存在をなかったことにされてる」

「……は?」

 頭の中が真白に塗りつぶされる。理解しなければ、でもそれを拒む渦に脳が擦り潰されそうだ。何かの感情が消え、そして湧き出るような。


「嘘でしょ、それって」

「この世界の記憶媒体や情報履歴、そして全人類の記憶から"鳴園奏宴"という人間は存在していなかった。そうイルトリックが書き込んだよ。ただここにはバックアップ技術があるし、社長やメンバーの記憶と必要な手続きはうまく帳尻合わせたからそこまで影響ないけど、よほどの例外がない限りは――」

 乾いた音。それは私の手から聞こえた。手のひらのじんわりとした痛みで、目の前の男の頬を叩いたことが分かった。反射的だった。


「当然の反応だな」とあきらめの顔。

「本当に人間やめてるのね、あんたらの組織は!」

 悲痛にも似た叫び。すべてを否定されたような。裏切られたような。支えてきたものを容赦なくたたき壊されたこの感情をどう抑えよう。

 私の夢は。舞歌との夢は。生きる意味は。私を支えていた一縷の希望がこんな簡単に失われていいはずがない。


「ああ。人体も人間性もとうの昔から辞めてるよ。この"世界"に正常な奴は生きていけない。まともな奴はろくな死に方しないんだよ」

 その眼光で、おもわず口をつぐんでしまう。このあふれだす感情を見せるのが怖いと思えるほど、それが無駄だと思えるほどの底知れない目を、見た気がした。だが、それが気のせいだったかのように、すぐにいつもどおりの好青年のそれに戻っていた。


「この存在改変アップデートはカナにとっての予防接種ワクチンなんだ。あんたのカルマは逸材だけど、それだけだ。その遺伝子と細胞と精神性じゃ"適合試験"を受けても不適合とされる。だから限界の壁を粗治療イルトリックで取っ払った。悪いけどよ、これでも俺たちは覚悟した方だ。一歩間違えれば廃人ぜんぶむだになる可能性だってあったんだからな」


「ふざけんな」というコメントすら口に出すことができない。膝を曲げ、身を丸く抱え込む。横から息が漏れる音が聞こえた。


「気持ちがわかったといえるほどの立場じゃないけど、その痛みがわからないと言えるほど人間やめてるつもりはない。ただとにかく、カナの命が無事だっただけでも本当によかった」

 何も返せない。きっと今何かを言えば、どろついたどす黒い何かが溢れてしまいそうだから。


「……とりあえず横になってろ」

 そう言われるも、動く気すらない。いうことなんて聞きたくなかった。袖をつかむ。今になって服が病院服になっていたことに気がついた。私服と私物は。いや、もうどうでもいい。


「いまは回復に専念してくれ。ああ、うちの隊のやつらみんな、カナのこと心配してたぞ。仕事が終わったら飛んでくるだろうさ。……すまなかった」

 それすらも無視すると、足音が聞こえた。ふと顔を上げると、誰もいなくなっていた。嫌な奴が消えて清々したはずなのに、胸が痛くなり、何かを求めたくなる。


 寂しい。孤独。もう、後に戻れない。

 どこからかすすり泣く声が聞こえた。あぁ私、泣いているんだ。

 泣いているんだ。


「……」

 時間なんて気にしなかった。いつも秒針単位で頭に刻まれるのに、このときだけは流れてこなかった。

 悔いはある。選んだ後悔はある。自分を責めた。人を恨んだ。こんな不条理な世の中を忌み嫌った。でも、それをしたところで何になると気づいた。


 泣いたところでしょうがない。

 これは戦い。私の第二の人生を始めるために必要な犠牲だった。過去を悔やんだところで自分は変われない。夢も、忘れられてしまったのならもう成立しない。あとは私自身の問題。


 先を見るんだ。私の力は未来を見るためにある。

 濡れた布団を強くつかむ。湿った袖の気持ち悪さも気にしない。

 静かだと思っていた白い空間だが、さりげなくクラシック調の落ち着いたBGMが流れていることに気がつく。


 傍にあったデジタルな文字が立体的に浮いている電子時計を見る。十一月十八日の午前一時半。塩ビシートの床が照明の光を反射する。時計の隣に置いてあった小さい四角柱型のクリアボックスの中は滴るように水分が発生しており、上部が白く曇っている。外の天気予報をリアルに再現してくれるボックスのようだ。今は雨が降っているらしい。


 窓の無い壁は、立体投影でどれだけ外の綺麗な景色を映しても、私には偽りの色と認識され、その層の先にある壁はただの真っ白な施釉せゆうケイ酸カルシウムだと分析されるだけだった。

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