File:4-1_狭間=Deep psychology on the borderline/

 濁り切った空。

 まず目に映り込んだのはそれだった。

 雲というよりは霧に近い。しかし周囲は晴れている。霧がかかっているのは上空だけのようだ。


 空気は青臭い。だけど、澄んでいる。馴染んでしまった排気ガスの臭いがどこにも感じられない。僅かに芳しい匂いが漂う。その芬芳ふんぽうに目を通わす。

 蓮の花。桜よりも鮮やかで、透き通った桃の色。その真ん中にある金色のずいから何とも言えない香りが溢れている。それを囲う大きな葉には玉のような水滴が転がっていた。


 背中が冷たい。脚が冷たい。頭が冷たい。この重力を感じさせる浮遊感。

 私は仰向けで水の上に浮かんでいる。ゆらゆらと漂っている。

 深さはどのくらいだろうか。私の背にはどれだけの深淵が口を開いて待っているのか。それとも、底が見える程浅いのか。


「どこ……?」

 水は淀んでおり、底が見えない。うまく動かない首を動かして左右を見ても、蓮の花や黒い薔薇の花弁、菜の花、泡吹……さまざまな花の頭や花弁が散っていることぐらいしかわからなかった。耳にちゃぷちゃぷと冷たい水が入っては出てを繰り返す。風もなければ、音も聞こえない。


 泳ぎが得意でない私は勇気を出し、起き上がろうとする。すると、水に沈むどころか、座っても腰辺りまでしかなかった。拍子抜けするも、すぐに辺りを見渡した。透明感があるも、それとは矛盾して淀み切った水の底は見えなかった。

 どこまでも続く浅い池。花以外で何がある訳でもなく、あるとしても苔の生えた灰色の丸岩が顔を出しているぐらい。


「……っ、私は……確か」

 腹部を咄嗟に見る。しかし多量出血していた痕はなく、痛みも一切なかった。怪我していた腕も掠り傷も、すべてなくなっていた。

 ぽっかりとした空間。現実味のない世界に、我ながら認めたくない仮説を挙げる。


「……死んだの……?」

 まさかとは思った。しかし、この水彩画で描かれたような無音世界は、世界中でどこにもない。この目に映る解読された情報がそれを証明している。


「……」

 進もう。

 そう思い、濡れた髪を後ろにまとめ、全身にかけて濡れた服を気持ち悪く感じながらも立ち上がろうとした時だった。


「……?」

 今まであったのだろうか。気づかなかっただけなのか。

 いつの間にか近くに小舟が漂っていた。木でできた、人ひとり分乗れるぐらいの大きさ。

 水の重さを足でかき分けながら、湿った小舟を覗き込む。古い布が一枚かかった何かが乗ってあった。

 なんだろう、これ。

 二メートルほどのものが布に覆われている。私はその布を捲ろうと手を伸ばした。


「やめたほうがいいよ」

 唐突な声に身体が驚く。私は恐る恐る振り返る。

 私と同じぐらいの髪の長さをした綺麗な女性。艶やかな黒い髪。整った顔立ち。私よりは背が少し高い。


 ただ、着ている服はこの時代で流行している服でもオフィス用の仕事着でもない。近いものはあるが、どこか時代を感じるものはあった。中世風の白いブラウスにブラウンの太いベルト、脚線美を強調させるジーンズ。そして台形型の黒いハット。


 繊維も、縫い方も、今の機械的大量生産時代とはどこか、いや、それ以前に服だけではなく、存在自体が今の人間にはないものを雰囲気として漂わせている。それは未知ではない、どこか懐かしいものを感じさせる。無意識という曖昧なものではなく、血として何かを感じる。私でさえ説明し難い感覚。しかし黒髪の女性はわかりきったように、くすりと微笑む。

 その声で我に返ったように、私は訊くべきことを尋ねた。


「あなたは……?」

「内緒。自分で考えてみるといいよ。頭いいんだしさ」

「……」

 会ったこともないのは明確。でも向こうは私のことを知っている口ぶりだった。

 以前に一度会ったのか? 


「分かんないかー。未解答なんてあなたらしくないわね」

 腕を組んではからかう。

 この女性からは懐かしい感じはする。思考は読めない。体内成分も解読できない。

「おー、早速"読んでる"ねー。カンニングは良くないよ?」

「っ!」


 読んでいることを読まれている。「昔の私みたい」と彼女は笑う。私と違って自然な笑い方だ。


「UNDER-LINEの人? それともイルトリック……?」

「んー、そっちの知っていることは私の知ったことじゃないね。そのどちらでもないわ。あなたにとっては身近なことに変わりないけど」

「……どういうことですか?」

「私に訊かずに、自分を信じなさい。ここは信じたもん勝ちなんだから。学校の教科書と違って正解も不正解もないんだし」

 そう言う問題じゃ……と思いながらも、懲りない私は一番聞きたいことを尋ねた。


「ここはどこなのか知っていますか? 私に何が起きたのですか?」

 しかし、彼女は明るそうな顔に似合わずひねくれているのか、それともからかっているのか、結果として答えてくれることはなかった。

「さぁね。死んだって思えばここは黄泉。まだ生きているって思えば夢の中。生まれ変わったって思えば、ここは別の世界。ま、答えはあなた自身ね。自然に無意識が答えてくれるだろうけど」

 結局何も解決していない。解答は自分次第。解答になっていない。


「何にしても、無解答くうらん作ったら……自分を失ったらダメダメよ」

 人差し指を立て、そう言ってはウインクをする。

自分あなたという心の在り方を失ったら……」


 女性は私の後ろにある小舟へと歩き、その布を大きく捲った。

 中は色とりどりの花で埋め尽くされていた。生け花のように魅せるような積み方。いや、舟から生えているのか。その根元が見えない。


「あなたがこの花の糧になっていたわ」

 女性は花をかき分ける。花が根を張っているその土壌ともいえる茶褐色の基盤は人の形をしていた。

「――っ!」

 思わず一歩引き下がる。パシャッ、と水の音がした。


「あ、あなたは誰なの……!?」

 恐怖を感じる。この女性は本当に誰なんだ。ここは一体どこなんだ。

 しかし女性はにこっと笑い、


「今は言えないわね。でもいつか分かると思うわ。あなた自身をもっと深く見ていけば、いつかね」

「何わけわかんないことを――」

「今ある目の前の未知を信じて進み続けること。その先にあなたが求める解答こたえがある。って感じでかっこつけたこと言ってみたり」

「それじゃあね」と言ってはその場を離れる。あまりにも澄ました挨拶に不意を突かれる。


「ちょ、ちょっと待ってください!」

 追いかけようとした。淀んだ水飛沫。走りづらく感じるも、その手を掴もうと手を伸ばしたときだった。

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