File:2-7_おやすみ、私=Self-acceptance/
濡れたカッターを拾い、長い髪を振って立ち上がる。ご丁寧にも、黒い影と靄に覆われた熊のような獣は私を待ってくれていた。ただ吐息を漏らし様子をうかがっているが、威嚇姿勢である以上、いつ狩られてもおかしくない。
唸り声と私の心臓の音。風を切る音がふと聞こえた刹那、眼前に鋭い爪が迫っていた。だが、既に膝を抜いていた私はすとんと崩れるように全身を床に委ね、落下速度を殺さないまま受け身を取っては獣との距離を取る。
避けただけではない。転がった間に一度、奴の右後ろ脚のアキレス腱を切り付けていた。軽傷だろうが、その足から液体がこぼれ、白い世界をじわりと黒く濡らしている。
汗が噴き出る。死の間際は幾度か体感したつもりだったが、明確な意思をもって殺される感覚はそういやまだなかったか。
「はぁ……ハァ……」
この精神的にくる現象が発生したのは確かにあの総統括の仕業だ。だけどこれは攻撃ではない。正も負もない、あくまでただの問いだ。負にシフトさせ、増長させているのは私自身。こんなに苦しんでいるのも誰かのせいでなく、ほかでもない私がそうしているからだ。
このイルトリックは、私が作り上げたもの。こいつをどうこうしたところできりがない。
手にはカッターナイフ。それを獣に向けているから、あいつは襲うんじゃないか。
切るのはあいつじゃない。私だ。私を殺せば――!
「……違う」
袖から少しだけ見えた幾筋もの切り傷の痕。それが目に入ったとき、私の動きはゆっくりと止まる。ただ、呼吸をする。
「……」
こんなとき、私は自分を傷つけてばかりだった。そうでなくても、誰かを傷つけていた。未知を認めたくなくて、だけど解りたくなくて、休むことなく傷つけることに必死になって。それをされた相手はどう感じる。傷だらけの自分はどうありたかった。
「……もう、切り捨てない」
カッターを横に放り捨てる。
一歩ずつ前へと、目の前の怪物へと歩む。その都度、獣の唸り声は強まっていく。大男の一回りある巨躯と質量と、あの鋭い爪や牙。いとも簡単に私の細い体は千切れてしまうことだろう。だけど、それに対してもう、大きな恐怖はなかった。
空を揺るがす咆哮。これが最後の警告だと言わんばかりに。だけど、私は歩みを止めない。
果たして歯向かってきたそいつに向けて両腕を差し伸べ、抱きしめた。その行動に驚いたのか否か、獣は氷のように固まった。
『……ッ』
「こっ恥ずかしいからあんまり素直に言えないけどさ。もういいよ、あんたはよくやってきた」
そう語り掛ける。だんだんわかってきた。この子も息をしている。それに、温かい。
「全部とはいかなくても……ちょっとくらい許したっていいでしょ。いい加減、嫌ったり責めたりするの満足したでしょ」
瞬間、声にならないほどの激痛が左首元から走る。骨身がきしみ、頭蓋を貫くような信号は、骨ごと深々と噛みつかれたことを理解させた。だが不思議と、痛みに悶えることはなかった。なぜか、耐えられた。
「い゛ッ……あ゛ァ……クソ頑固かよ。ま、そういうとこもあんたのいいとこだけどさ。わかってたらとっくになんとかしてるっつーのって話よね」
「だけど」と続ける。黒毛に覆われたその獣の頭を優しくなでた。
「弱くたって、価値がなくたっていい。腐っても、泣いても、罪を犯してもいいよ。運や環境でそうなることもある。あんたは十分に苦しんで罰を受けた。周りが許さないと殴ってきたとしても、私が許してやるから。ついでに周りも殴り返してアカウント乗っ取ってSNSに痛々しい黒歴史長文ぶちまけてやる。一人残らず、全員ね」
首元と肩に食い込んだ牙が緩む。そして四の脚を折り、私の背に合わせて抱かれたまま座り込んだ。
「それに、あんたが自分を傷つけていたら悲しむ人間がいるんだってこと、わかってほしい。少なくとも、あんたもよく知ってるたったひとりの妹と、私が悲しむの」
怪物の黒い姿が溶ける。影が足元へと流れ落ち、瘴気が去ったそこにはもう一人の私がいるだけ。不細工に泣きじゃくって、私に抱き着いて離れようとしない。でも、鬱陶しいとは思わない。力を入れて、私も抱きしめ返す。
「今までよく頑張ったね。こっからは私が頑張るから。あんたはゆっくり休んでな」
『……うん』
素直に頷く声と共に、さらに強く抱きしめられる。だけどそれは、甘えているだけの人の抱擁だ。それがかつて泣きじゃくって帰ってきた妹を慰めるときに似ていて、思わず笑みがこぼれた。人って、こんなにも温かかったんだ。
「おやすみ、
*
気が付くと、社長室の床にへたり込んでいた。傍にはインコード、正面にはデスク越しで席に座るアルベルク総統括の姿が変わらずあった。
「ひとまずここまでとしようか」
「……」
戻ってきたのか。まるで夢のように朧気で、遠い意識から戻ってきたようで、だけどこの胸に感じている温もりと静かな痛みは確かに本物だ。
総統括へと目を向けると、それに応対するようににっこりと笑みを浮かべた。
「おめでとう鳴園さん。ようやく向き合えたようだね」
小さく拍手している様子をただ見届ける。
終わった、の……?
声にもならない呟き。安堵したのか、脱力感が全身を覆った。
「大丈夫か」としゃがんでは顔を合わせるインコード。心なしか、その声は優しく感じ取れた。
「うん、なんとか」と言いつつ、ぼーっとしていた頭を動かそうとする。記憶も段々戻ってきたと同時、一抹の不安も覚えたので確認をとる。
「まさかとは思うけど、ずっと見てた?」
「おう、ばっちり。おまえも可愛いとこあんのな」
「ばっ!? バカ! 忘れて! 今すぐ全部!」
うそでしょ、あの痛々しい自分同士のやり取りをどうやってみたんだよ。思わず声を上げてインコードにすがりついた私の顔は火のように熱かった。
「えー貴重な資料なのになー」
「いやもうほんっとマジで……! あぁもう、死にたい……」
「悶えてるとこ悪いけど、社長が話したそうだぞ」
脳機能が優れているなら、すぐに切り替えられる感情が欲しかったところだ。うぅ、と情けない声を漏らしつつ、背を伸ばして総統括の方へと体を向けた。
「今のでわかったように、きっかけがあればイルトリックは人の心からも生まれてくる。いや、集まってくるに近いかな、餌に群がる稚魚のようにね。それが悪い方向に働くこともあれば、扱い次第で強い味方にもなる。人の助けや環境にも大きく左右されるが、一番は本人がどう捉えるかで決まる。今回は、君と我々の望む
「そう、みたいですね」
「この先もきっと、葛藤も自責も、絶望も数えきれないほど起きる。そのときに鳴園さんは自身をどうするか、周囲の人をどうするのか。冷静な判断と人徳的な意思が求められる。今回はその術を修得できたことに称賛と敬意を示そう。ようこそUNDER-LINEへ」
そう言ったとき、隣のインコードは声を上げて喜んだ。
「ぃよっしゃー! やったなぁおい! やっぱすげぇよあんた!」
大袈裟かよと思った途端、急に抱きしめられ、そのまま持ち上げられた。
「えっ、ちょ」
軽々と抱っこさせられ、くるくると振舞わす様は子どものような気分だ。美青年にハグされた以上に、子ども扱いを受けていることに複雑な感情を覚える。
「インコード。それも捉え方次第じゃハラスメントになるよ」
「え? ……あ、悪い」
総統括の一言で私を下ろす。
「嬉しくてついはしゃいじまった。嫌な気にさせたならごめん」
もちろん、こいつの表面上の内面や体に出ている反応から下心がなかったのは解った。それよりも犬みたいに喜んじゃって。
「……はは。ばっかみたい」
だけど、この状況を切り抜けられたこと、そしてひとつの生きる支えを認識できた私は、ようやく気を抜いた笑いをこぼすことができたのは否定しようがない。
「では、もう下がっていい。正式な契約や辞令は後日になるが、これより君をアンダーライン治安維持部門特殊対策課第三隊に認定する。そこのバイタリティー溢れる青年に感謝することだね」
横を一瞥する。上司(インコード)の嬉しそうな顔がなんとも子供のように素直さを示していた。
「ありがとうございます! では、これで失礼し――」
電子音が鳴る。何事かと思った私だが、「どうぞ」と総統括が言ったので、誰かが入室すると把握した。
カシュン、とドアの開く音が聞こえる。同時、ゾワリ、と背筋が凍りつきそうなほど鳥肌が立った。振り返ろうにも振り返られない、委縮。
「失礼致します」
「フィニジャンク統括。すまないね、忙しいところ直接呼びつけてしまって」
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