File:2-6_闇中問答エゴイズム=A Ray of Hope/
【注意】読むにあたり、精神的負担の大きい描写が含まれます。
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そう告げた総統括の姿も、机も壁も天井も、そしてインコードの姿も闇に覆われて、ひとりになる。いや、一人ではない。目の前の黒い異形がふたつ。それが中央へと這ってはひとつの大きな影となっていく。
ホログラムの類ではない。ホロ特有の光学的な軌跡が見えず、この空間の体積が不明だからだ。鮮明に解っていた情報の山が、今では数えられる程度しかわからない。足元の水の音と、目の前の影から産まれ出てきた獣の呼吸音だけが、鼓膜にこびりつく。
漆色に染まる鋭い爪と大きな牙。巨躯に詰まった、張り裂けんばかりの筋肉が黒い毛と瘴気に覆われている。ぬばたまの瞳はこちらから逸れる様子はない。まさに
背後から一点、光が差している。まずは――。
振り返り、怪物に背を向けて私は逃げ出した。
『なぜ殺した』
走っている最中、頭蓋の中に鮮明に流れ込んでくる声。誰の声なのかすら特定できない。走ることに集中する。跳ねる水しぶきを置いていくくらいもっと速く、肺も足も腹も痛めて、視界も明滅させて、何も考えられなくなるくらい息苦しくなって、振り払うんだ。
だけど、そんな試みもあっさり砕かれる。
『ご家族の気持ちは考えたことあったのですか。あなたの、そして被害者の』
「うるさい」
『あのときどういう心境でしたか』
『どうしてそのようなことをしたのですか』
『落ち着いて。本当のことを話せばいいだけですから』
「黙ってて……!」
『どうして主人を殺したのですか?』
『お父さんを返してよ! この人殺し!』
『もう顔も見たくありません。早く私の前から消えてください!』
「お願いだから黙って……っ」
『ねぇ、奏宴……ほんとうに殺したの?』
「殺してなんかない!」
大声を出した途端に足がもつれ、ばしゃんと水の音を立てて転ぶ。それを狙ったかのように、今度は低俗な声が次々と頭の中を侵してくる。
『転んだw』
『クソださ』
『むきになってて草』
『うざ』
『ぼっちだから人との接し方が幼稚園児レベルなの、今のではっきりわかんだね』
『普段から周りのこと見下してそう』
『自分が特別だと思ってそう。メンヘラならよくあるし』
『こういうときこそ親の顔が見てみたいっていいたい』
『人としてどうなの』
「黙れって言ってんでしょ!!!」
声を張った途端、静まり返った。同時に、私の体はいつの間にか立ち上がっていて、周囲の景色も真っ白で、
「え……?」
手にはカッターナイフが握られていた。刃が出ており、赤く濡れている。手を下ろした先には、スーツ姿の男が倒れている。背中が赤い。赤いのがじわりと溢れてきている。
『ころした』
声が再び聞こえてくる。だが、先ほどのそれよりもはるかに冷たく、無機的だ。反射的にカッターを手放す。
『ころした』
「待って、違う、今のは」
『ころした!』
『ころした!!!』
『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』『ころした』
頭の中に無数に聞こえてくる「殺した」の声。悲痛ともいえる訴えに溺れそうになった私は、耳をふさいでその場でしゃがみこんだ。
「たすけて、助けてよ! ねぇ誰か! インコードぉ!」
『誰も助けねぇよ』
「いや……っ、やめてぇ!」
しゃがむ力もなくなり、腰が崩れてへたり込んだ。どれだけ身をかがめても、耳を塞いでも、聴こえてくる。
「誰か助けてよ……お父さん。お母さん。助けておじさん、おばさん。
『助けるわけがない』
『あなたは家庭を壊したのよ』
「セツもツバサも、なんで離れたの……親友って言ってくれたじゃん。アカマツもなんでこういうときだけ顔を出さないんだよ。ねぇどうしたらいいの私、教えてよイチカ先生……」
涙と鼻水が止まらない。嗚咽のあまり涎が垂れ、信じられないくらい声が汚くなっている。それでも、声は止まない。
『自分で考えろ』『裏切られたのはこっちの方』『泣いて許されるとでも?』『女だからって見逃してもらえると思ってる?』『社会でちゃんと怒られたことないんだね』『なんでわかってくれないの』『自分が何やったかわかってる?』『今まで何をやってきたの?』『罪は償え』『償え』『償え』『償え』『償え』――。
「いやぁああああっ!!!」
叫ぶ。喉が切れようとも叫び続ける。それも空しく、もはや言葉を理解する力すら出なくなり、叫びつくした体も静かに横たわった。顔と頭皮を濡らす水面が冷たい。
水面の波紋が頭上から生じる。獣の足音。気配。だけどそれももうどうでもいい。ここで食われて死ぬなら本望だ。
「……これは、夢。ゆめ、ゆめ、ゆめ……」
最期の最期で、現実逃避か。せめて最後の力を振り絞るように、この口が勝手に動いて、か細い生存本能を乞う。
夢。そういや私の夢ってなんだったっけ。なんでも解って、なんでも感じ取れる私に夢なんて馬鹿げたものもってるはずがないし、小さいころから冷めてたから大人に訊かれても無関心を――。
『それならあたしといっしょに暮らそ!』
……この声って。
「まい、か……?」
どこかから拾ってきた記憶。遠くも浅くもないそれは、長いこと蓋をして隠していた断片だ。今の私には耐えられないくらい、あまりにも眩しかったから。
子供部屋。その日は金曜日で、寝る前だった。いつもみたいに相談もちかけられて、即答して、なんでか将来の夢の話になって、それで。
『だってさ、お姉ちゃんといっしょなら何も困ることないじゃん。勉強も恋愛も、お金や将来、あと仕事だってお姉ちゃんにきけば一発ですぐに解決するってことでしょ』
『私はあんたの都合のいい道具になるつもりはないっての。AIで十分でしょ』
『道具じゃないよ家族だよ。何があっても……まぁショック受けることがあってもあたしはお姉ちゃんから離れるつもりないし、冗談抜きで世界一頼れるお姉ちゃんのウルトラハイスペックをあたしが活かさなきゃ誰が活かすのって話』
『ありがた迷惑。生かす殺すを決められる筋合いはないから』
『じゃあ身の回りのお世話とか推し活オタ活ぜんぶ支援するし、彼氏候補も探すから!』
『姉をヒモにしようとすんな。そんぐらい自分でやるって』
『ちゃんとやったとこ見たことないけど』
『べつに一人暮らししてるわけじゃないし』
『あたしの見立てじゃお姉ちゃんは超天才女子高生だけど生活力は皆無。反面あたしは家事炊事洗濯はどんとこいだし運動神経と体力も自信あるけど、頭は悪くて要領も悪い超ド級ポンコツ中学生。お互い支えないと死んじゃう! 証明完了はい論破ぁ!』
『いやQEDじゃないし論破の定義も違うから。はぁ……でも、ははっ、悪くないかもね』
『え、笑うとこあった今』
『ううん、大人になってもずっと一緒に暮らすって話、幼稚園の時から変わってないなって。まぁ中二の時は荒れてたけど、なんだかんだこんな私と一緒にいたがるの、あんたぐらいよ』
『だってお姉ちゃん大好きだし』
『……よく恥ずかしげもなくストレートに言えるね』
『ていうかお姉ちゃんは自分を低く見すぎだよ。むかつくぐらいあたしより全然すごいのにさ。それに周りがどう思っていてもいいじゃん。どう思われるかより自分が何をしたいかだよ奏宴君!』
『暑苦し。そういうのいいって。やりたいこととかないし。オタ活とかも生きがいってレベルじゃないし』
『お姉ちゃんが冷めすぎなんだよ。やりたいこととか夢とかないなら、あたしの夢を叶えるの手伝ってよ』
『それが一緒に暮らすってこと? 舞歌がそれでいいならべつにいいけどさ、もっと他にあるならそっち優先しなよ』
『あるけどそれはお姉ちゃんいないと叶えられない』
『やっぱ私のこと道具扱いしてんじゃねーか』
『いたたたた! やったな~っ、仕返ししてやる!』
『フッ愚かな、私をただの便利道具だと思うなよ』
『自分で認めてるじゃん!』
「……舞歌」
そうだった。私もちゃんと、あの頃までは愛されていた。ケンカもたくさんあったけど、認められていた。味方がいた。心からあの夢を望んでいた。舞歌も、私も。
どうせつまらない人生を送るくらいならせめて、あの子の笑顔を一番近くで見るのは私なんだと、しょうもないことを考えていたんだっけ。舞歌がいれば、自分も舞歌みたいに明るくて、みんなに愛されるようになれる感覚に浸れるから。自分が傍にいればあの子が間違った道に進むことはないと思ったから。
今はどう思っているのか考えたくもない。ただ、裏切られたような悲しみに満ちて、事実を拒絶していた思考を読み取った二年前が最後。今でもくる偽善じみた連絡もただの記号として見るようにした。でも、それは間違っていた。
「わたし、逃げてただけだったんだ」
つらいことも救いも、怖くて、異物感があってぜんぶ拒絶していた。知りたくなかったから。解りたくなかったから。でも思い出した。
この人生は、私だけのものじゃない。
「……私がやらなきゃ」
私自身のために、そしてあの子のために。
解ってる。私と正反対のあの子なら、私がいなくても他の誰かが進んで助けてくれる。
奢りだろう。おこがましいだろう。でも、やっぱりひとりの姉として守らないと心配だ。ようやく、その役目を思い出した。
「帰らなきゃ」
すべてをやり直すために。こんなところでくたばるわけにはいかない。過去の産物だろうとあの言葉は、想いはこの中で生きている。ちゃんとできる姉だってこと、ここで証明してやる。
「クソ社長に一泡吹かせてやるわ」
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