旭くんもきっと愛してた

3

 旭さんちにお邪魔をすると、必ず最初に飲み物を用意してくれる。それが今日に限って出されなかったのは、旭さんは初めからこうすることを決めていたからだろうか。

 カラカラに渇いた喉から唾液を無理に搾り出し、それでなんとか口腔内を潤す。しかし言葉が喉に突っかかって出てこないのは、それとはまた別の話であろう。


 姿勢を正しわたしと向き合っていた旭さんが唐突に「あー……」と気怠げな声を出したかと思えば、ソファの背に体を預けた。

 わたしはそんな旭さんを目で追い、何かを言おうと口を開く。だけど何を……何が言えるというのだろう。思わず下唇を噛んだわたしを横目で捉えた旭さんは、嘲るように顔を歪めた。


「前言ったことなかった?恵まれてるのにそれに気づいてない朔のことが嫌いだって」


 嫌い……そんな直接的な言葉を使っていたようには記憶していないが……わたしはこくりと頷いた。それをみとめた旭さんが「だからだよー」と緩い声を出す。だから?なんのことだろう。


「?どういうことですか?」

「だから僕はひまりちゃんを選んだんだ。朔が傷つくかなって、そうなれば最高に面白いなって」


 大きな両手のひらで顔を隠した旭さんが、笑い声と共にそう告げる。わたしの反応にはさして興味がないのか、彼は「だから僕はきみのこと、好きじゃない。そう思ったことは一度だってない」とハッキリと言い切った。

 旭さんはもう笑っていなかった。どんな表情をしているのか、それは依然として顔を覆う手によって隠し通された。きっと旭さんは、わたしにはもうなにも見せてはくれないのだろう。


「はい、わかりました。旭さん、ありがとう……。それでもわたしは旭さんのこと、好きでした」

「あははっ……」


 鞄の中から預かっていた合鍵を取り出し、それを机に置きながら最後にそう言えば、旭さんは乾いた笑みをこぼした。

 そして立ち上がったわたしの背中へ「朔の次に?」と弱々しい声を投げかけた。しかし自分の感情を制御することで精一杯なわたしは、それを聞き逃してしまう。


「え?何か言いましたか?」


 と振り向けば、旭さんは顔を覆っていた手の内の片方を外し、上下に揺らしてわたしを追い払う仕草を見せた。


「行きなよ、僕は平気だから」


 強い言葉を放つ旭さんの声は、微かに震えていた。




 ほんとめんどくさーい。まーじで惚れた腫れたはもう勘弁だわ。やっぱり体だけの関係が楽だな。

 

 ひまりちゃんが居なくなった部屋は2月らしく凍えるような寒さだ。おっかしーな、暖房ガンガンつけてんだけど。

 どっと疲れが押し寄せ、そのままソファに倒れ込んだ。やはり体だけの関係が楽だと思うのに、自分で言った「満たされない心を体で満たそうとしていないか」という言葉が頭の中を回る。

 ひまりちゃんと僕はそんなところがよく似ていた。ひまりちゃんもこちら側の人間のはずなのに、そんなことには微塵も気づかず、純愛ごっこを心から楽しんでるんだもんな。嫌になっちゃうよ。

 今まで性欲が旺盛すぎて、それに耐えられなくなった彼氏に振られ続けてきたと言っていたが、心満たされる相手と出会えれば代償行為も落ち着くだろう。その相手は僕じゃなかったわけだけど。もしかしたら朔かもしれない……その事実が少し、ほーんの少しだけ悔しい。


 瞼を閉じれば、いつぞやのひまりちゃんが僕に笑いかける。

 

"受け入れてもらうことは怖いことではないです"


 それがこの恋で僕の手元に残った唯一のものだ。いつまでも褪せず、僕の心の真ん中でキラキラと輝き続けるだろう。





 旭さんと別れたその足で、朔ちゃんと連絡を取ろうとしているわたしはどこまで愚かなんだ。そう思うのに、わたしはどうしても自分の気持ちを確かめたかった。


 旭さんに「心を占めているのは誰?」と聞かれ、悩む暇などなく浮かんだのは他の誰でもない、朔ちゃんだった。


 朔ちゃんのことはかっこいいと思うし、一緒にいても苦にならないし、楽しい。わたしたちは人としての相性が良いのだと思う。

 だけどそれは恋愛感情を含むものかと問われたら、わたしは即答できないのだ。それは旭さんに今までの恋愛を否定され、セックスは心が満たされない故の代償行為だと指摘されたことにより、慎重さが芽生えたからだった。

 だから会って確かめたい。朔ちゃんへの気持ちの正体を。どうして朔ちゃんばかりが頭に浮かんでしまうのかを。




 数回のコールの後、『はい!』と元気良く電話に出た朔ちゃんは、すぐさま恥ずかしさを取り繕うように『んだよ、どうした?』と低い声で仕切り直した。

 不躾に「会いたい」と言えば、電話の向こうで狼狽えているであろう朔ちゃんが『来れば?』と咳払いをして答えた。




 つい2日前にお邪魔したばかりの朔ちゃんちに着けば、わたしがインターホンを鳴らす前に朔ちゃんが門扉を開けて「おう」と緩く手をあげた。もしかしてずっと待っていたのかな?……そうなら嬉しい。

 

 改めて見る朔ちゃんの姿にどきりとしたのは、この人は恋愛対象だと頭が訴えているからだろうか。今までは好きな人ないし彼氏の弟という認識ーーもちろん友達だと思ってはいたので、プラス事項でという意味で、だーーだったので、完全にそのような対象で見ていなかった。し、もしかして見てはいけないと押さえつけていたのかもしれなかった。

 だけどどうだろう。その立場を失ってしまえば、わたしにとっての朔ちゃんはこんなにも男だった。


「何飲む?」


 と、通された部屋で問いかけてきた朔ちゃんの澄んだ声や動かない喉仏、そして意外と太い首筋に釘付けになってしまう。


「あ、お茶をお願いします」


 質問には辛うじて答えられたが、性的思考を持って凝視するだなんて、とんだ変態じゃないか。がっくしと項垂れたわたしの元へ、朔ちゃんは小走りで帰ってきた。そしてお茶を渡すなり、「突然どうしたんだよ」と怪訝な表情を見せた。しかしその裏に嬉しさがあることを隠せていない。そんな素直で捻くれている朔ちゃんに愛おしさが積もっていく。


「振られた……んだよね」

「……え、うっそ。やった!」


 わたしの報告に思わず喜びの声を上げてしまった朔ちゃんは、すぐさま「あ、残念だったな」と取り繕った。いや、誤魔化せてないからね、さすがに。

 わたしの微妙な表情に気づき「ごめん、つい……本音が」とその場を仕切り直すように謝罪をした朔ちゃんを見て、思わず笑みがこぼれる。わたしが笑ったことに安心をした朔ちゃんが「なんで振られたんだよ」と確信に触れた。

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