旭くんもきっと愛してた

2

 どっと疲れた……!!朔ちゃんちから帰るなり、わたしはベッドへ倒れ込んだ。なんとかかんとか理由をつけて引き伸ばす朔ちゃんを躱し、朔ちゃんのお母さんが仕事から帰ってくるまでに家を後にすることに成功したのだ。さすがにわたしの口から「彼女です」と挨拶することはできるはずもないので、死に物狂いだった。


 あー、着替えなきゃなのに……それならいっそこのままお風呂に入ろうか。そう考えるものの肝心の体が動く気配すら見せない。ウトウトし始めた瞼にチラつくのは、やはり朔ちゃんなのだ。わたしはこの意味を出来るだけ早く理解しなきゃいけない……のかもしれない。






 いつの間にか眠ってしまったわたしを起こしたのはスマホの振動だった。働かない頭でスマホの画面を確認すれば、発信者の名前に一気に覚醒する。


「あ、もしもし……!ごめんなさい、」

『ごめん、もしかして寝てた?』


 旭さんはわたしの言葉に被せながらズバリと言い当てた。


「あ、うん……。寝ちゃってました」


 となんだか申し訳無さげな声を出してしまう。それは恐らくやましさの表れで、わたしのやましさはぜーんぶ朔ちゃんに起因している。それならもう全部朔ちゃんのせいじゃん!


『起こしちゃったか、ごめんね』


 頭の中で朔ちゃんに責任転嫁をしていたわたしは、旭さんの言葉で現実に引き戻された。


「いえ、お風呂に入らなきゃいけなかったから……ありがとうございます」

『そっか。僕も入んなきゃなぁ』


 そしてしばしの沈黙の後、どことなく重く感じる空気を仕切り直すような明るい声で、旭さんは『日曜日、何時でもいいから僕んちおいでね』と用件を伝えた。恐らく3月下旬に予定している旅行の話を進めるのだろう。なんだかんだで旅行まであと1ヶ月だ。そろそろいろいろと決めなければいけない。


「うん……お昼食べてから行こうかな?」

『分かった!駅まで行くからまた時間教えて』


 旭さんがわたしを大切に思ってくれていることは、こういう些細なところから伝わってきていた。なにより付き合ってから不安になったことが一度もないのだ。それって何気に一番重要なポイントじゃない?そもそも絶対無理だと思ってた人と付き合えてるんだよ?それって最高に最高なことじゃん。

 それなのに、わたしの心は何に揺れて、何に乱されてるんだろう。

 

 電話を終えた後はもう何も考えたくなくて、そのまま目を閉じた。これはただの現実逃避だ。分かっている。だけどもう体全部が考えることを拒否しているのだ。




 

 旭さんちに着くといつものようにリビングに通され、「旅行先のガイドブック買ったんだよー」とウキウキと声を弾ませた旭さんの背中を見ながらソファに腰を下ろした。

 ガイドブックを片手にこちらに戻ってきた旭さんがわたしの横に座り、2人でそれを覗き込む。


「ねぇ、どこ見たい?」

「あ、このハンバーガー食べたいです!」

「おっ、ほんとだチキンバーガーか!うまそう!」

「ね、ここの海鮮丼もすごくないですか!?」

「ボリュームすごいね」


 旭さんは、どこを見て周りたい?と聞いたのだ。決して、なにを食べたい?と聞いたのではない。しかしわたしが指すのは食べ物ばかり。それに付き合ってくれていた旭さんも、いい加減痺れを切らしたのか、パタリとガイドブックを閉じた。


「そうだ。旅行の話の前に、聞いておきたいことがあるんだった」


 そうだ、とまるで今しがた思い出したかのような口振りであったが、冷たく細められた瞳がそれは間違いだと物語っている。きっと旅行の話より、今からされる話が今日の本題だったのだろう。

 ごくりと喉を鳴らし、姿勢を正したわたしを見て、旭さんの瞳が感情を手放したかのように鈍く光った。

 

「一昨日の金曜日、どこでなにしてた?」


 声に抑揚がない。淡々と事務的に事実だけを確認しているようで、背筋が冷える。金曜日……そんなの考えなくてもすぐに答えられた。だけれど思うように声が出せない。黙り込んだわたしを見て、旭さんが「朔のところにいたね?」と代わりに答えた。


「う、ん……朔ちゃんちに行った。お見舞い……みたいな、感じ」


 なにをしに行ったのか、それを曖昧にしか言えないのは、事実、明確な答えがないからだ。本当に何をしに行ったのか。ただ話しただけ、それだけなのだ。


 旭さんは朔ちゃんから聞いたのかな。どうして知ってるんだろう。

 そう疑問に思ったわたしの心を読んだかのように、旭さんは「母さんから聞いたよ」と告げた。

 

「朔の診断結果を電話してきた母さんが『ひまりちゃんが朔の面倒を見に来てくれるから』って言ったんだ」


 わたしの罪をわたし自身に理解させるように、旭さんはゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。


「驚いたよ。いつの間にそんな話になってたんだ?って」


 旭さんはその時のことを思い出したのか、軽蔑を含んだ息を漏らす。そして小さく息を吸った後、「『ひまりちゃんてやっぱり朔の彼女だったのね』って言ってたよ、母さん」と優しく優しく笑った。

 これは怒っているというよりは、傷ついている顔だ。それは考えるより早く、心が悟った。しかしわたしの両腕も口も、旭さんを慰める権利など持ち合わせていないのだ。

 わたしが旭さんを傷つけてる。その傷を隠すように、笑いたくもないのに笑わせてる。慰める権利がないなど、考えることすら烏滸がましい。


「どうせ朔が呼んだんでしょ?」


 謝ることさえできないわたしに、旭さんはまた笑いかける。その言葉に頷いたのは、わたしの罪を少しでも軽くしたい心の表れだ。


「その誘いを断る選択肢はなかったの?」


 一等優しい声音であった。わたしのどうしようもない罪を包み込んで、綺麗に消し去ってくれるんじゃないかと錯覚してしまうような。

 しかしその言葉でわたしは気づいてしまった。自分の中に初めからその選択肢がなかったことに。そしてそれは最大の裏切りなのではないか。

 わたしの表情を見た途端、旭さんの瞳は明確に悲しみに揺らいだ。それは最大の裏切りに気づかれたことを意味しているのだろう。もうきっと取り返しがつかない。いや、違う。やり直せるきっかけはとうの昔に手放してしまっていたのだ。それに気づかないふりをして、結局旭さんを深く傷つけてしまった。

 旭さんの朔ちゃんに対する劣等感を認識していながら、彼女であるわたしがそのかさぶたを剥がしてしまったなんて……許されない。許されていいはずがない。わたしたちはここで終わりだ。

 もうわたしには、旭さんに弁明する気力は残っていなかった。し、そもそも許されたいのかさえ分からない。


 そして、そんなわたしは"終わりにしよう"と最後の言葉を浅はかにも期待していたのだ。それなのに旭さんは「ぜーんぶ許すよ」と、それはそれは綺麗な微笑みでわたしの心臓をぞわりと撫でた。


「……え?」


 わたしの戸惑いなどまるで存在していないかのように、旭さんは緩慢な動きで顔を近づける。待って、それは愛を交換し合う恋人なたちのキスの距離だ。


「やっ……」


 自分の口から咄嗟に出た言葉が拒絶そのままであることに、旭さんよりわたし自身が驚いている。そんなわたしを見て、旭さんは俯いたまま「ねぇ、」とわたしに語りかけ始めた。


「僕はひまりちゃんを満たせてる?」

「えっ……はい、とても……」


 それはまごうことなき本心であった。好きという気持ちを明確な言葉にされたことはなかったが、大切にしてくれていることは重々承知していた。旭さんの隣にいることが幸せだったし楽しかった。悩んでいた性欲についても解消された。不安も不満も何一つなくて、満たされていないとは口が裂けても言えない環境だった。


「それって性欲と愛欲を混同してるんじゃなくて?」「今までの彼氏のことも、本当に好きだった?」「満たされない心をセックスで満たそうとしてなかった?」


 矢継ぎ早に質問を羅列され、わたしの心が締め付けられていく。やだ、もうそれ以上言わないで……わたしは首を力任せに横に振り拒絶反応を示したが、旭さんはその気持ちを汲んではくれない。


「ねぇ、今ひまりちゃんの心を占めてるのは誰?」


 一拍置いて発せられたその言葉に、わたしは思わず顔を上げる。その瞬間旭さんと視線が交じり、彼はわたしを諭すように口角を緩く持ち上げた。

 わたし……わたしの心の中にいるのは……。

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