朔ちゃんは悲しみを隠してる

5

 どれほど抱き締めていただろうか。きっとそんなに長い時間ではなかったはずだ。

 旭さんは「僕、子供みたいだね」と恥ずかしそうな声を出すと、力を入れてそのままわたしをソファに押し倒した。

 口づけが優しく降ってくる。こめかみや頬、顎先に。そして唇には触れぬまま、それは首筋に移動した。


「もうほぼ消えてるね。バレなかった?」


 付き合った日に自分がつけたキスマークの跡に指先を滑らせ、旭さんは楽しげに声を弾ませた。


「髪で隠れてましたよ」

「だよね」


 そうなると分かっていたからこそ跡を残したのだろう。やっぱり旭さんはどこまでも冷静である。

 そして今にも消えそうなその跡に重ねるように、もう一度唇を押し当てて強く吸い上げた。気持ちいい行為ではないのに、なぜだか色気を含んだ声が漏れる。旭さんはその声に触発されたようにさらに唇に力を込めた。


「もう冬休みだもんね」


 それは多少バレる可能性があるところにつけてもいいと言うことだろうか。家族にバレる方が気まずいんですけど……という言葉は合わされた唇によって奪われてしまった。




 

 今日の旭さんはいつもよりもずっと甘えたい気持ちが強いようだ。それは行為中の胸への執拗な愛撫に始まり、行為後もくっついて離れなかったり、一緒に入った浴槽でのバックハグ、極め付けに「髪乾かして」というお願いなどから見て取れた。

 こんなときに言葉にしないのは旭さんらしくないと思った。いつもの旭さんなら「甘えたい気分なんだ」とでもサラッと言ってのけそうだ。だけど今日の彼は分かりやすいような、それでいてとても些細な行動で気持ちを表している。もしかしたら本人にはそんな気はないのかもしれない。

 本当は素直に甘えられなくて、でも弱っている心が自然と行動に出ているのかもしれない。そう思うといじらしく、さらに抱き締めたくなった。




 ポカポカに温まった身体でふかふかのベッドに入る。布団の中でふと触れた旭さんの爪先は驚くほど冷たかった。それは思わず「ひゃっ」と声を上げてしまったほどだ。


「あ、ごめん。ひまりちゃんの足、めっちゃあったかいね」


 ごめんと言いながらも足を絡めてくるもんだから、わたしは「もー」と不満を露わにした。だけどその抗議の声にも甘さが含まれているせいか、旭さんは気にも留めず笑っているだけだ。

 触れ合ったところから徐々に熱が移って、冷たさがなくなったころ、旭さんが「ひまりちゃんって優しい顔つきだよね」とまじまじと見つめてきた。


「突然なんですか……恥ずかしいんですけど」


 咄嗟に逸らした視線は「こっち向いてよ」の声で無理矢理戻される。


「ほら、パーツに曲線が多いからかな?」

「……そうですか?」

「うん。僕は真顔だと冷たい印象をもたれるからね、うらやましいよ」


 たしかに旭さんのパーツはどちらかといえば直線的だ。唯一の丸いパーツは朔ちゃんとそっくりな厚めの下唇のみ。特にきりりとした涼しげな目元がその印象を強調しているのだろう。


「ありがとうございます。旭さんも優しそうですけど……」

「ほんと?まぁ極力にこにこしてるからかな?けど、『冷たい』としか言われないなぁ」

「それは見た目じゃなくて、女の子に対する扱いのせいでは?」


 あ、しまった。口に出してすぐに後悔する。これは下手をすると機嫌を損なわせてしまったかもしれない。

 だけど旭さんは怒るどころか面白そうに声を上げて笑った。わたしの言葉が余程的確で、しかしまさか指摘されるとは思ってもいなかったのだろう。

 旭さんの笑い声はそれからすぐに止み「そう、ほんとその通り!」と自嘲気味に顔を歪めた。

 

「ねぇ、そういえば性欲はどうなの?」


 すっかり忘れていたが、わたしと旭さんの関係はそこから始まっていたのだ。今思い出しても汚点だと言い切れる場面で出くわし、流れるように体を重ねた。

 純粋な恋心で隠しても、旭さんの心の奥底には"淫乱ビッチちゃん"なわたしが住み着いているのかもしれない。


「……相変わらずですよ。ずっとしてたいです」


 それは本心だった。だけど「誰でもいいわけじゃないですよ。旭さんだけです」これが一番重要なことだった。

 "淫乱ビッチちゃん"だなんて大それた名前をつけられているとーーそれは不本意な相手と状況により、だがーー誰とでもいいから、ただ性欲を満たしたいと思われそうだ。しかしそうじゃない。本来は好きな人としかしたくないのだ。

 今までの彼氏とは上手くいかなかったが、旭さんならわたしの旺盛な性欲に付き合ってくれそうな気がする。わたしが探していたのは、大好きかつセックスの頻度がばっちり会う彼氏なのだ。


 鼻息荒く弁明したわたしに「やっぱり僕たちは似てる」と旭さんはわたしの頬に触れた。びくりと肩を縮めたのは、その指先が冷たかったからだ。つい先ほどと同じ状況なのに旭さんはふざけない。ただ真剣な瞳でわたしを見つめるだけだ。


「?似てますか?」

「うん、とても」


 どこが似ているのだろう。確信を得た力強さで言い切られてもピンとこない。旭さんも誰でもいいわけじゃなかったのだろうか。手軽に消費されているとしか思えなかったが、旭さんの本心は別にあったのだろうか。

 そしてその気持ちは、わたし以外の数多くいたであろう女の人たちにも向けられていたのだろうか。


 旭さんはわたしのどこに自分との共通点を見つけたのかな。それは考えても全く見当がつかなかった。

 しかし旭さんの瞳は悲しみをたたえて、助けてほしいと縋っている。


「大丈夫ですよ、旭さん。受け入れてもらうことは怖いことではないです」


 それは口からするりと出た言葉だった。その言葉に旭さんはハッとしたような表情をし、そしてすぐに小さく頬を緩めた。


「それをそっくりそのままひまりちゃんに返すよ」


 思わぬ返答に今度はわたしが面食らう。そうか、わたしも旭さんと同じように縋るような瞳をしているのかもしれない、とその時初めて気がついた。




 わたしと旭さんの付き合いは思っていたよりもずっと順調に続いている。不満など少しもないし、危惧していた旭さんの女関係で悩まされるということも今のところなかった。


「あれ、いつから自由登校なんだっけ?」

「来週の火曜からです」


 わたしの話を聞きながら、旭さんはスマホのスケジュールにそれを打ち込んだ。そして徐に立ち上がりリビングを出て行ったかと思うと、すぐに帰って来て「はい」とわたしの目の前で鍵を揺らした。

 反射的に差し出した手のひらにその鍵を置かれ、「いつでもおいでね」となんとも嬉しいことを言ってくれたのだった。


「もしかして合鍵ですか?」

「そ。自由登校になったら余裕できるでしょ?」


 渡された鍵を握りしめながら聞けば、やはりその通りで、にやけてしまう頬を必死で押さえつける。そんなわたしを見て、旭さんが「なに変な顔してるの」と呆れたように笑う。しかしその笑みには多分に好意が含まれているのだ。

 こんな関係を順調と言わずして、何を順調と言うのだろう。




 合鍵が入ったバッグを大事に抱え、わたしは寒空の下自宅へと帰る道を歩いていた。とても幸せなのだ。しかしふとした時に朔ちゃんのことを思い出し、なんとも言えない気持ちになる。

 連絡を取らなくなってほぼ1ヶ月。時間にしてみればなんてことはないのだろうし、朔ちゃんは気にもしていないだろう。


 これはただのエゴだ。わたしが一方的に気にして、あの日の申し訳なさを軽くしようとしているだけだ。それでもチラついて頭から離れない。小さくなって震えながら泣いている朔ちゃん。

 今の朔ちゃんはあの時の朔ちゃんではない。自分の気持ちをはっきりと言えるだろうし、泣いて蹲るなんてことはせずに行動を起こすだろう。朔ちゃんはもうわたしの助けなどいらないし、心配される筋合いもないのだ。

 

 あの日から何度この結論に至ったか分からない。今日もまた、心配して連絡するのはありがた迷惑だよ、と区切りをつけようとした時だった。 

 大事に抱えていたバッグの中でブーブーとスマホが振動し始める。きっと朔ちゃんだ。画面を見てもいないのに、なぜか確信めいたものを感じた。はやる気持ちをそのままに急いでスマホを取り出す。

 そのとき指先に触れた合鍵はとても冷たく、旭さんの冷えた肌を思い出させた。

 

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