人間の体力

『本日より国民体力増強計画を始めます』


 その朝は突然の施策案内によって始まった。体力かあ……この時代にこれほど必要とされない能力もないだろうに……


 例えば不届き者が強盗をしようにも押し入った家に価値のあるものが皆無であることが当たり前にある世の中だ。昔は自宅に拳銃を配備しようなどという計画もあったらしいが今では拳銃を持っても撃つ相手がおらず、精々金属としての価値はあるが、武器としての価値は皆無に近い。つまり体力は自衛にも強奪にも役に立つことは無かった。


 ならば競技をと考えるかもしれない、しかしながら競技というものは人の競争心を煽るらしい。

 

 そしてアスリートなどという職業も早々に消えた。昔は大会などをやっていたらしいが、その時代は各国のプロパガンダに利用されまくった結果、あちらでやるならボイコット、今度はこちらでやるなら不参加と足並みが全く揃わなくなりいつしか消えてしまったイベントだ。


 体力の価値が低迷中の中、体力をつけるメリットとしてあげられたのは地上の環境が改善されたときにその自然の中で暮らしていけるためらしい。そんなあと何年、いや何十年どころか数百年はかかりそうなことに今熱心になる気はなかった。


『国民の皆様に於いてはディスプレイにフィットネスメニューを閲覧することが可能です、是非ご活用ください』


 どうやら自宅で完結することしかしないらしい。世界単位でのイベントが現実的とは思えなかったのか、競技とはいえ勝負をするのをよく思わなかったのかは分からない、とにかくディスプレイに健全なメニューが追加されたようだった。


「お兄ちゃん、運営陣もたまにはまともな思考をするみたいですね」


「そうか? 俺にはいつ必要になるか分からないものを営々と準備しろと言ってるようにしか聞こえなかったが」


 リリーは首を振った。


「ロクな映像を流さないことには定評のあるこのディスプレイがまともな放送をするんですよ? それだけでも価値があるでしょう?」


 いつもの放送は健全ではないらしい、まあ言われてもしょうがない内容ではある。


「それに体力があれば地上で暮らせるかもしれないんですよ?」


「後何年かかるか全く見通しがついていないプロジェクトの参加者を募るのは無謀だと思うがな」


 前時代にも地上にいくつかずっと続いているプロジェクトがあったが軒並み辛いものだったと教わった、コンピュータにブレイクスルーが起きる前に一つの大銀行が大量の人員を使ってシステムを作ったり、駅舎の改築がずっと終わらない状態だったことがあると聞いた。


「お兄ちゃんは夢がないですね、天然品の食事と美味しい空気、何より天から本物の日光が降り注ぐんですよ? いい加減この疑似太陽ライトと固形食料に浄化されただけでずっと循環している空気から逃げられるんですよ? ロマンじゃないですか!」


 不満は多いらしい。しかし現在の人間の大半はそれを問題だとは思っていない。俺も好ましくはないがそう言う考えを持つのはしょうがないと思う。


 しかしリリーは日常になっている十分であるが満足ではない食事に不満らしいな。死なない程度でいいとしている運営とはまた違うようだ。


 俺はふと今朝の食事を思い出す。味のない固形食料にねっとりとしているのに味らしい味の無い謎のドリンクだった。ほとんどの人はそれらの原材料を知らないし、知ろうともしていなかった。


 しかし、だ。対戦前の食事には明確に不味いといわれているものや、美味しくても健康を維持するのに足りないものも多かったと聞く。少なくとも現在の食事はその手のデメリットとは無縁だった。


「太陽かぁ……別にいいんじゃないか? ちゃんとライトだって太陽光と同じ光線を出しているし、夏や冬の概念も結構面倒なものだって聞いたことがあるぞ」


 二十四時間管理されたこの居住スペースに季節の概念は無いが、裏を返せば地球の公転に合わせて服や生活リズムを整える必要も無いしなあ……


 以前は好立地な土地と極地で随分と生活レベルが違ったので土地の取り合いにもなったらしいが、人類は季節を克服してその恩恵に未だにあずかっている。


「とにかく! 体力をつけますよ!」


「はいはい」


 ディスプレイをつけてリモコンを操作してフィットネスのチャンネルに合わせる。筋肉質な男女のインストラクターが表示される。その不自然に完璧な肉体はそれがCGであることを示していた。


「ちっ……インストラクターくらい用意しなさいっての……まあこんな体格している人なんて見つからないんでしょうがね……」


 そのトレーニングメニューは二人一組で行うものであり、単独で行うものは無い。おそらくパートナーを選ぶメリットというものを示すこともついでに目的にしたのだろう。


 スパーリングや腹筋をして十分ほどで俺は疲れ果てていた。


「お兄ちゃん体力無いですねえ……」


「この時代にそんなトレーニングに耐えられる人間はほとんど居ないぞ」


 悲しいかな時間の流れである。もはや体力をつけるためのトレーニングをするための体力が無かった。


『ではまた明日!』


 そう言ってトレーニングプログラムは終了した。一応複数回流すことも出来るが現代にそれが出来る人間はほとんど残っていないだろう。


「あのメニューを考えた奴は現実が見えてないのか?」


 そんな疑問を口にするとリリーは呆れたように言った。


「見つからなかったからわざわざCGでコーチを用意したんでしょう? 見つかるなら始めから実写でやってますよ」


 残酷な話だが、体力の必要とされない時代だ、いくら頑張ったところで大戦前のレベルまで全国民の平均を引き上げるにはかなりの時間が必要だろう。俺たちの世代ではおそらく無理、数世代を重ねて幾らかマシになる程度だと思った。


「体力ってそんなに必要かな? 無けりゃ無いでどうにかなりそうなものだが……」


 肉体労働者にとって変わる機械を作った昔の技術者には感謝できる。大戦を起こしたことは擁護できないが……


「体力があるといろいろと便利なんですよ、配給で待つだけで疲れるようなことも無いですし、走る体力があれば時間の短縮だって出来るでしょう?」


「それをしなくても問題無い世界だろうと言うことが問題なんだがな……」


 リリーは俺を見ていった。


「お兄ちゃんはしょうがないですけど私は体力をつけますからね!」


 そう言ってトレーニングを再度流し始めた。俺は明日からまた苦労するのかなと思っていた。


 ――翌日


「お、お兄ちゃん……やっぱり体力ってそんな要らないですね……」


 リリーがなんとか歩いて朝食のテーブルに着く。


「どうした?」


「運動しすぎると筋肉痛になるって都市伝説だと思ってたんです……」


 そう言ってテーブルに突っ伏してほとんど動くことを拒否したのだった。

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