嫌われ長方形の救世
吟野慶隆
嫌われ長方形の救世
意識が覚醒し、瞼が開いた。
名牟(なむ)援汰(えんた)は、小さな部屋の中にいた。彼の数メートル前方には、壁があり、そこには、横に長い窓が設けられていた。
窓の外には、何らかの軍事基地のような景色が広がっていた。その中央には、太い円柱が、縦に据えられていた。それの表面に書かれている文字列によると、どうやら、ミサイルのようだ。
窓の手前には、何らかのマシンが置かれていた。その上面には、コントロールパネルが設けられており、その手前側には、キーボードが備えつけられていた。それは、よく見かけるような、一般的なタイプの物で、エンターキーだのシフトキーだのが付いていた。
マシンの手前には、男性が一人、援汰に背を向けて立っていた。総白髪で、後ろ姿からでもわかるほどに老けており、裾の長い白衣を着ていた。
彼は、キーボードを、一心不乱に、かたかたかた、と叩いていた。それに合わせて、コントロールパネルの奥側に設けられているディスプレイに表示されている内容が、目まぐるしく変化していた。
(……おれは、どうして、こんな所に?)
援汰は、一瞬、そんな疑問を抱いた。しかし、それは、文字どおり、瞬きを一回する間だけだった。即座に、事の次第を思い出した。
援汰は、体を動かそうとした。しかし、それは叶わなかった。彼は、金属製の椅子に、ロープで縛りつけられていたのだ。椅子の背凭れも、すぐ後ろに立っている四角い柱に、ロープで縛りつけられていた。
ぎしっ、という音が鳴った。途端に、目の前にいる白衣の男性──洲黒(すくろ)詩賦人(しふと)が、両手の動作を、ぴたり、と止めた。その後、すぐさま、体を、くるり、と半回転させて、ぎょろり、とした目を向けてきた。
「気がついたのだね、名牟くん」
援汰の口は塞がれてはいなかった。彼は、「あんたが生きているってことは、おれたちの作戦は、失敗したってことだな」と言って、はあ、と溜め息を吐いた。
「そういうことだね。しかし、わたしたちも、無傷というわけにはいかなかったよ」洲黒は顔を顰めた。「もはや、生きているのは、わたしだけになってしまった。もっとも、そちらも、生きているのは、きみだけだがね」
援汰は、諜報組織「ファンクション」に属するエージェントだ。彼は、数か月前から、チームのメンバーとともに、犯罪組織「バックスペース」の野望を阻止するべく、さまざまな活動を行ってきていた。洲黒は、バックスペースのトップだ。
「そうか……みんな、死んじまったのか」援汰は、再度、はあ、と溜め息を吐いた。「……てっきり、おれも、『あ、これ、死んだな』と思ったんだがな。あんたのところの兵士たちと戦っている最中、頭に謎の衝撃を受けて、地面に倒れた時は……」
「どうやら、二階の通路に潜んでいた、わたしのところの兵士が、きみめがけて、金属製の工具を落としたようだ。きみは、それを頭に食らって、気絶した、というわけさ」
「……どうして、そんなことがわかるんだ?」
「現場の状況から推測したのさ。わたしは、銃声だの破壊音だの悲鳴だのといった音が、少しも聞こえないようになった後、隠れていた場所から出て、生存者を、ひととおり探したんだ。その時、きみが気絶しているのを見つけたのさ」
「で、おれを、ここに連れてきた、というわけか……」援汰は、ぎろり、と洲黒を睨みつけた。「いったい、何が目的なんだ?」
「別に、放っておいてもよかったんだが……ま、これも何かの縁だ、特別に見物させてやろう、と思ってね」洲黒は、顔を歪ませると、くく、と嗤った。「『コント・オルト・デリト』を発射するところを」
コント・オルト・デリトとは、バックスペースが開発したミサイルだ。発射された後は、一定の高さまで上昇してから、炸裂する。その威力はすさまじく、援汰たちのチームの調査では、地球の表面が、一平方マイクロメートルの例外もなく、薙ぎ払われ、削り取られ、焼き尽くされるだろう、という結論に達した。
そう。バックスペースの野望とは、地球を滅亡させることだった。そのためなら、自分たちが死ぬことも厭わない、という狂人集団だ。
「ふん……そりゃ、光栄だな」
「だろう? ……言っておくが、そのロープはとても頑丈に出来ている。人力じゃ外せないし、並の道具では切断できない。せいぜい、大人しくしていることだね」
洲黒は、そう言うと、くるり、と体を半回転させた。再度、コントロールパネルのキーボードを、かたかたかた、と叩き始める。
「クソが……!」
まず、援汰は、拘束を解こうと試みた。しかし、とうてい外せないに違いないことは、すぐにわかった。
次に、彼は、ぐるり、と室内を見回して、置き時計を発見した。それによると、現在時刻は、午後八時十分、とのことだった。
(おれが、ファンクションの司令部と通信して、応援を寄越すよう依頼したのが、午後七時三十分だった……その時、オペレーターは、「小隊を派遣する」「今から約一時間後に、そちらに到着する」と言っていた。
つまり、午後八時三十分までの間、なんとかして、洲黒に、コント・オルト・デリトを発射させなければいい……そうすれば、仲間たちが来て、やつを取り押さえてくれる……!)
その後、援汰は、体を動かすのをやめた。顔を軽く俯かせると、気力を頭に集中させる。現在、洲黒が行っている、ミサイル発射準備の作業を、どのようにして妨害するか、について、考えを巡らせ始めた。
それからしばらくした後、機械の音声が聞こえてきたことにより、彼の思考は中断された。それは、「コント・オルト・デリトの発射準備が整いました。最終認証を完了させてください」という内容だった。
援汰は、ばっ、と勢いよく顔を上げると、ディスプレイに視線を遣った。そこには、「パスワードを入力してください」「※半角英数字20字以内」という文や、テキスト入力ボックス、「OK」「Cancel」といったボタンなどが表示されていた。
「く……!」
援汰は、置き時計に視線を遣った。午後八時二十分。まだ、応援の小隊は、来そうにない。
「くくく……これで、ようやく、わたしたちの野望は、達成される……!」
洲黒は、譫言のごとく、そう呟きながら、キーボードを、かたかたかた、と叩いた。ディスプレイに表示されているテキストボックスに、パスワードが──黒い円でマスクされた状態で──入力されていく。
(ああ──もう、駄目か、駄目なのか……?!)援汰は、ぐっ、と奥歯を強く噛み締めた。
数秒後、洲黒は、エンターキーを、たーんっ、と押した。
ぶーっ、というブザーが鳴った。同時に、ディスプレイに、「認証に失敗しました」「パスワードが違います」という文が表示された。
「な……?!」
洲黒は、あんぐり、と口を全開にした。援汰は、わずかに目を瞠った。
数秒後、彼は、顎を上げた。眉間に皺を寄せ、「まったく、面倒な……」と呟く。それから、今度は、各種のキーを、きわめて慎重に、かた、かた、かた、と一つずつ押していった。
しばらくしてから、洲黒は、エンターキーを、たん、と押した。
ブザーが鳴り、認証に失敗した旨の文が表示された。
「なんだって……?!」
再び、洲黒は、あんぐり、と口を全開にした。数秒後、顎を上げる。
彼は、「おかしいな……」と呟きながら、白衣のポケットに、右手を入れた。そこから、黒い手帳を取り出す。
それのページを、ぺらぺら、と捲り始めた。そして、しばらくした後、ぴた、と手を止めた。おそらくは、そこに、パスワードが記録されているのだろう。
「よし、今度こそ、間違えないぞ……」そう呟いた後、洲黒は、手帳とキーボードを交互に見ながら、各種のキーを、きわめて慎重に、かた、かた、かた、と一つずつ押していった。
しばらくしてから、彼は、エンターキーを、たん、と押した。
ブザーが鳴り、認証に失敗した旨の文が表示された。
「そんな馬鹿な……!」
その後、洲黒は、何回も、テキストボックスに値を入力しては、エンターキーを押し、認証を試みた。しかし、そのたびに失敗した。
しばらくしてから、彼は、「そうかっ!」と叫んだ。「わかったぞ……キャプスロックキーだ! いつの間に押してしまったのかはわからないが、それで、キャプスロックが有効化されていたせいで、入力した英数字が、半角でなく、全角になってしまっていたんだ……もう一度、キャプスロックキーを押せば……!」そのキーめがけて、左手人差し指を、ゆらり、と動かした。
次の瞬間、どおん、という音が部屋じゅうに鳴り響いた。直後、洲黒の後頭部に、風穴が開いた。彼は、呻き声を上げることもなく、その場に、どさり、と崩れ落ちて、そのまま動かなくなった。
気づかれないようにして入室してきていた、ファンクションの応援の小隊が、洲黒を拳銃で撃ったのだ。すでに、現在時刻は、午後八時三十分を過ぎていた。
それから、援汰は、小隊の、ある班に、拘束を解いてもらった。その後は、彼らとともに、司令部に戻ることとなった。他の班は、このまま、この施設に残って、各種の調査や後始末を行う、という話だった。
彼は、ライトバンの客席の端に腰かけて、窓から、ぼんやり、と外を眺めていた。隣には、名も知らない男性隊員が座っていて、両腿の上に載せたノートパソコンのキーボードを、かたかたかた、と叩いていた。
「ああ、クソ……」
隣にいる隊員が、そんなことを呟いた。そちらに、ゆるり、と視線を遣る。
彼は、続けて、「また、間違ってキャプスロックキーを押しちまった……」とぼやいた。「ホント、疎いよな、このキー……もう、なくしちまえばいいのによ。あったって、何の役にも立たないだろ……」
「いや、そんなことはなかったぞ」思わず、援汰は言った。「もし、キーボードに、キャプスロックキーが存在していなかったら、洲黒は、パスワードの入力に失敗していなかった。今頃、最終認証をクリアされ、コント・オルト・デリトを発射されて、地球は滅亡していたに違いないんだ。
いわば、キャプスロックキーは、地球を、滅亡の危機から救ってくれたんだ。人類は、キャプスロックキーの存在に、心から感謝すべきだ」
〈了〉
嫌われ長方形の救世 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t
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