第5話
「ただいま。」
玄関を開けて、見覚えのある彼女の靴があるのをみとめ、私は遠慮なく大声であいさつをした。
ここのところは、誰もいないとわかっている部屋に挨拶をするのも寂しくて小声で済ませていたけれど誰かいるならば遠慮なく。やっぱり大きな声であいさつをしたほうが気分はいい。
だがしかし彼女のほうには遠慮があるようで、返事が返ってこない。
少し寂しいな、と思いながらリビングにつながるドアを開くと、彼女はキッチンに立って何かをやっていた。
ドアが開く音に気づいたのか、こちらを向いて
「お帰り…。」
と小さな声で言ってくるのが叱られる前の子供みたいで、ついクスリと笑ってしまう。
別に構えなくても怒らないのに、と思う。イラついていたということは光樹に説教をするということにはつながらない。
それでも、三週間姿を見ていなかったので健康かどうかは気になっていたわけで。
改めて光樹を見ると普通に元気そうだった。
相変わらずのポーカーフェイス……は今はちょっと崩れているが。
艶のある黒いショートヘアに、高い背。茶色い瞳。目、鼻、口、すべてのパーツが均一に美しく、どこが目立ちすぎるということもなく調和している。
いつみても本当に美人だ。
そんな美しい彼女の、めったに見られないような縮こまった姿をからかってやりたいような気もしたが、今はその時ではない。平然とした風を装って、リュックサックをソファの上に置いた。
「久しぶり。」
取り敢えず何か言ったほうがいいんだろうなと思ってかけた言葉は、やはり無難なものになってしまった。
「…うん。」
相変わらずなんとも言えないテンションで頷く彼女を見ながら、手を洗い忘れたことを思い出した。
「手、洗ってくる。」
三週間ぶりの彼女に、抱きつきたいし色々物申したい気分だったけど、こういう時こそ冷静に。汚れたままの手で、落ち着かない気持ちのままではいけない。
手を洗って、コートを片付けて、全てを済ませた状態で対面するのだ。
洗面所に立ち、手を四角い固形石鹸で洗った。石鹸にこだわりのない私は、彼女が買ってきて置いておいてくれる石鹸をありがたく使っている。
水で濡らした手で石鹸を包む。石鹸が泡立ったので、石鹸を戻して泡で手を洗った。
彼女曰く、手はただ洗うだけじゃきれいにならないらしい。指の間やつめまできちんと、石鹸で洗うことに意味があるのだそうだ。
『手を洗う時に効果的なやり方があるらしいよ。』
といいながら手を洗っている姿を見るうちに、いつの間にか自分まで真似するようになってしまった。一緒に住むと、染まっていくものだなぁと思ったことを覚えている。
…彼女も私に染まったりしたところがあるのだろうか。今更ながら気になる。
手を洗い、コート掛けにコートをかけて、もう一度リビングに入った。彼女は相変わらず何かを作っている。
「何、作ってるの?」
きっと彼女からは普通にできないだろうから、自分のほうから普通に接していくことにした。そうすれば彼女も普通に話してくれるだろう。できなくても、意図を汲んで努力をしてくれるといいのだけど。
まぁ、そもそもこういう状況を作ったのは彼女だともいえる。
もしかしたら彼女は、私が普段通りに接してくることに少し戸惑っているかもしれない。
だが、初めにいつも通りにふるまったのは彼女のほうだった。
少しの遠慮は見えたものの、『いつも』と同じようにキッチンに立ち、私に『おかえり』とあいさつをしたことが彼女にとっての、または私にとってのいつも通りなのだから。
「カレーだよ。ちょうど具材があったから。」
「いいね。楽しみ。」
コンロの上の鍋をのぞき込むと、一口大に切られたジャガイモやニンジンが入っていた。カレーは彼女の得意料理だ。料理はそんなに得意ではない彼女でもよく作ってくれる。
問いたいことも
久しぶりだね、とかそういう会話も
すべてはこの時間を過ごしてから。
いつも通りを過ごしてから、話をしようと思う。
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