2・戦争
―――それから、わずか数日後。
突然のことだった。
この国ポーランドに、
独裁者ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が攻め込んできたのだ。
それは、戦争――地獄の始まりだった。
ドイツ軍は、ポーランドの町々に爆弾を落として、破壊した。
あたしたちのお気に入りの場所―野原―も、焼かれてしまった。
あの鮮やかな緑は、跡形もなくなった。
黒焦げになった野原は、
まるで、これから世界中を待ち受けている悪夢への暗示のようだった…。
戦争が始まったあの日、本来ならば、新学期が始まるはずだった。
けれど、戦争が突如始まったことによって、それは叶わなかった。
あたしは、レメックと会うことが出来なかった…。
戦争が始まったといっても、人々は当初、前向きに考えていた。
この戦争は、きっと、長くは続かないだろう。
味方―イギリスやフランス―が、きっと、助けてくれるはずだ。
誰もが、そう信じていた…。
しかし、実際は、そうはいかなかった。
ポーランド軍はドイツ軍に完全敗北し、
あたしたちの最後の希望―イギリスもフランスも、
ドイツに宣戦布告しただけで、ポーランドを助けてはくれなかった。
そして、ポーランドの西側はドイツ軍に支配され、
東側は当初ドイツと手を組んでいたソ連軍の手に落ちることとなった。
そうして、ポーランドは、二つの大国に分割された。
あたしたちの住む町は、ドイツ軍の支配下となった。
ナチス・ドイツは、さまざまな計画を練っていた。
ポーランド文化の破壊と、ポーランド人の絶滅、そして、ユダヤ人の根絶……
それらが、奴らの狙いであり、目標だった。
あたしは、ポーランド人。
レメックは、ユダヤ人。
戦争が始まった当時、十歳だったあたしは、
レメックがユダヤ人だということを意識したことなんてなかった。
けれど、知ってはいた。
戦争が始まる前から、父によく、
『レメックは「ユダヤ人だから」付き合うな』と言われていたからだった。
『レメックたち家族は「ユダヤ人だから」家に上がるな』と言われたこともあった。
そのことで、あたしは何度も両親とぶつかった。
母も、あたしをかばってはくれなかった。
あたしは、いつでも両親にとって「悪い子」だった。
聞き分けが悪く、すぐに反発するから。
町で「問題児」と言われている恥さらしだから。
ユダヤ人のレメックたちと、仲良くしているから。
お祖母ちゃんが生きていた頃は、まだ、あたしにも味方がいた。
お祖母ちゃんは、父と母の考えを間違っていると思っていた。
母は父と結婚してから変わってしまった、と言っていた。
亡くなる前、お祖母ちゃんはあたしにこう言った。
『いいかい、アネタ。いつまでも、正義を持ち続けるんだよ。
お父さんとお母さんの言うことは、間違っていると思えば、聞かなくてもいい。
アネタはアネタらしく、正しいと思う道を選んで生きなさい。
レメックとは、ずっと仲良くするのよ。あの子は、とってもいい子だから。
お父さんとお母さんが反対しても、友達でいなさい』
お祖母ちゃんの言葉は、あたしの心に、しっかりと刻み込まれた。
だから、お祖母ちゃんの葬式で、父と母に反対されたのを押し切って、
お祖母ちゃんが買ってくれた麦わら帽子をずっとかぶっていた。
父と母がどんなに「悪い子」だと非難してきても、
レメックと遊ぶのをやめなかった。
そして、どんどん、レメックのことを大好きになっていった――。
戦争が始まって、しばらく経ち――
閉鎖されていた学校が、久しぶりに再開された。
あたしは、それまで学校なんか大嫌いだったけど、その日だけは張り切っていた。
久しぶりに、レメックに会える――その思いだけだったのだ。
しかし、どういうわけか、レメックは学校に来なかった。
レメック以外にも、何人かの生徒たちが学校に来なかった。
代わりにいたのは、ナチスの隊員たちだった。
奴らは、あたしたち子どもに向かって、以下のことを守れと言った。
今日から、ポーランド語は一切使わず、ドイツ語の学習だけをすること。
これからは、ドイツ人に服従すること。
それは、正しく、悪夢のような日々の始まりだった。
けれど、あたしは何より、レメックがなぜ学校に来なかったのかが気になった。
そこで、担任の先生に聞いてみた。
すると、驚きの答えが返ってきた。
その答えは、こうだった。
レメックは、「ユダヤ人だから」学校に来られなくなった。
何か重いものが頭に落ちてきたような衝撃だった。
理解が出来なかった。
しかし、それもナチスの政策の一つだった。
ナチスの考えでは、ドイツ人が世界で最も優れていて、
ユダヤ人は世界で最も劣っている民族だったのだ。
けれど、そんなわけはなかった。
あたしは、レメックや、彼の家族以外にも、
たくさんの優しいユダヤ人の人たちを知っていた。
彼らが、このドイツ人たち―ナチスの連中よりも劣っているわけがない。
そんなわけない……信じられなかった。
あたしは、レメックの家へ行くことにした。
レメックと、話がしたかった。
レメックに、会いたかった。
あたしは、学校からレメックの家まで、走っていった。
レメックは、今、どんな気持ちなんだろう。
心配で、たまらなかった。
学校が大嫌いなあたしの手を引いて、
よく一緒に学校までの道を歩いてくれたレメックが、
ユダヤ人だからというだけの理由で、突然、学校に行くことを禁じられるなんて。
何か悪いことをしたわけでもないのに、学校に通えなくなるなんて。
あたしは、
レメックが「将来、学校の先生になりたい」と言っていたことを思い出した。
レメックがその夢を抱くようになったきっかけは、
算数が大の苦手なあたしが、レメックに教えてもらったことで、
分からなかった問題が分かるようになったことだった。
ずっとつまずいていた問題をあたしが乗り越えた時、
レメックは自分のことのように喜んでくれた。
「すごいよ、アネタ!やったね!!」
もう、ああいう風に、レメックに勉強を教わることは出来ないんだろうか。
そんなの、嫌だ!!
心の中で叫びながら、あたしはレメックの家に向かった。
レメックの家の前に着いた。
コンコン、とドアをノックしてみた。
すると、中から、レメックのお母さんが出てきた。
「あら、アネタ…」
いつも明るい笑顔で迎えてくれるはずのレメックのお母さんは、
なぜか、暗い表情を浮かべていた。
すると、そんなお母さんの後ろから、レメックが現れた。
「…アネタ!!」
レメックは、なんだか嬉しそうに、玄関まで走り出てきた。
あたしも、レメックを見て、思わず嬉しい気分になってしまった。
「レメック!あのね…」
たくさん話したいことがあった。
けれど、あたしの言葉は、レメックのお母さんに遮られてしまった。
「レメック、中に戻りなさい。お母さんが、アネタの話を聞くから」
お母さんにそう言われ、レメックは一瞬、驚いたような目をした。
「でも…」
「レメック、言うことを聞きなさい」
レメックのお母さんは、厳しい表情を浮かべていた。
そんなお母さんを見たのは、あたしも初めてだった。
レメックは、戸惑ったような表情を浮かべて、
一瞬だけあたしを見た後、お母さんの言う通りに中へと戻っていった。
「……アネタ、ごめんね」
レメックのお母さんが、あたしに言った。
「今まで、レメックや、わたしたちと仲良くしてくれて、本当にありがとう。
わたしたち、あなたのこと、大好きよ。
でもね……もう、わたしたちとは関わらない方が安全だわ。
わたしたちは、ユダヤ人だから…」
「………え?」
レメックのお母さんの目には、
悲しみと苦しみ、戸惑いと不安…さまざまな暗い色が滲んでいた。
いつも、あたしの分までおやつを作ってくれたり、
相談に乗ってくれたり、励ましてくれたレメックのお母さん。
目の前の人は、もう、その人ではないような気がした。
何かを恐れているように、瞳が震えていた。
その時だった。
背後から、あたしの母がやって来て、あたしをつかみ、無理に引っ張ろうとした。
「早く来なさい!早く!!」
母が、あたしを怒鳴った。
あたしは、大声で抵抗した。
「いやっ!!嫌だ―っ!!!」
バチン!
騒ぐあたしの頬を、母が叩いた。
叩かれた衝撃で、あたしの力は抜けた。
母は、そんなあたしを無理やり立たせて、つかんだまま歩かせた。
あたしは、一瞬、振り返って後ろを見た。
そこには、手で口を覆って、涙を流すレメックのお母さんの姿があった…――。
母と共に家に帰ると、次の瞬間、母があたしに言った。
「もう、あの家に行くんじゃないわよ。あの人たちは……ユダヤ人なんだから」
「ユダヤ人だから、何なのよ!!」
母に、大声で言い返した。
みんな、みんな、どうして同じことばかり言うの?
「ユダヤ人だから」……何が悪いの?
「レメックが、今日から学校に来れなくなったの……ユダヤ人だから」
涙が込み上げてきた。
本当に、ひどいことばかりだ。
母が、泣くあたしに向かって言った。
「だから、言ったでしょ…初めから、付き合わなければ良かったのよ。
ユダヤ人たちは、いつだって、わたしたちを苦しめる。大昔から、ずっと…。
もう、関わるんじゃないわよ。今は戦争中で、自分たちの命だって危険なんだから」
母は、さらに付け加えた。
「ナチスの奴らが、決めたのよ。
ユダヤ人をかばったり、匿ったりしたポーランド人は全員、処刑にするとね。
ユダヤ人には、絶対、関わってはいけないのよ」
あたしの涙は、すっかり枯れてしまった。
まだ十歳だったけれど、あたしは、絶望するということを初めて知った。
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