またね、お姫様
彼杵あいな
1・最後の夏休み
やっと、終わった。
地獄のような日々が…、愚かな戦争が……―――。
普通だった毎日が壊れてしまったのは、約六年前の夏のことだった。
あの日、あたしは彼と一緒にいた。
あたしたちは、二人のお気に入りの野原に向かって、駆けていった。
眩しい太陽の光が辺りを照らす中、
前を走る彼の白いシャツと黒っぽい髪が、風になびいていた。
「待ってよ、レメック!待ってってば!」
あたしが言うと、彼――レメックは、こちらを振り返った。
その顔は笑っていて、あたしの前に手が差し出された。
「しょうがないな。ほら、握って」
「ハア?嫌だ!」
「えっ、なんで?」
「なんでじゃない!アンタと手を繋いだりなんかしないんだから!」
あたしが叫ぶと、レメックは「やれやれ~」とため息を吐いた。
そして、あたしの隣に並んだ。
「分かったよ。じゃあ、ゆっくり行こう」
「最初からそうしてくれればいいじゃない!」
あたしは、イライラしていた。
いつも、レメックは、あたしの手が届かないところにいるような気がしていたのだ。
足は速いし、宿題を終わらせるのも早いし、何でもあたしより早い。
それに、あたしと違って、レメックにはたくさんの友達がいた。
あたしとは正反対に、たくさんの人に愛されていた。
それが、羨ましいという気持ちから、よく苛立ちに変わった。
「アンタって、いつもそうだよね。
いつも自分ばっかり良くて、あたしのことなんか…」
つい言いかけると、レメックがあたしの目の前に立った。
「ちょっと待ってよ、アネタ。
今日はやたらと機嫌が悪いね。僕…何かした?」
レメックは、もう笑っていなかった。
なんだか、悲しそうな、不安そうな目。
それを見ると、なんとなく悪い気がしてきた。
「別に、何でもない!ほっといてよ!」
「でも、野原に行くんだろ?」
「…そうだけど」
言いながら、自分が嫌になってきた。
いつも一人でイライラして、唯一そばにいてくれる友達に当たってばかりで、
そんな自分が情けなかった。
けれど、レメックは、そんなダメなあたしのことを見捨てたことなんてなかった。
そう、小さい頃からずっと…。
「行くんだな?」
レメックは、笑いながら、あたしの顔をのぞき込むように見た。
あたしは、今さら後に引けず、顔を背けてうなずいた。
すると、レメックはゲラゲラと笑い出した。
「しょうがないな―!僕についておいでよ」
そう言って、レメックがあたしの手を握った。
次は、断ることも出来なかった。
恥ずかしさで、顔や身体が熱くなるのを感じた。
けれど、レメックはお構いなしに、あたしの手を握ったまま進んでいく。
その後ろ姿に向かって、あたしは心の中で言った。
…レメック、違うんだよ。
さっき、手を繋ぎたくなくて断ったわけじゃなかった。
ただ…恥ずかしかっただけなんだ。
いつも嫌な思いさせたり、傷つけてばかりで、ごめんね。
…こんなあたしといつも一緒にいてくれて、
見捨てないでそばにいてくれて、ありがとう。
あたしは、いつも意地を張ってばかりだったけど、
本当は、レメックのことが好きだった。
大好きだった。
だから、彼が他の誰かと楽しそうに話したりしているのを見ただけで、腹が立った。
彼が、あたしではない誰かと一緒にいるだけで、
彼が離れていってしまいそうな気がして、怖くなった。
あたしの世界には、いつも彼がいた。
けれど、分かっていた。
好きなのは、あたしだけだと。
「アネタ?大丈夫?」
レメックの声で、ぼんやりしていた頭の中が一気に冴えた。
彼の深い瞳と自分の目が合っただけで明るい気分になれるのに、
そんなこと言えるわけもなく、その代わりに、ついまた言ってしまった。
「アンタのせいよ!」
いきなり理不尽なことを言われて、さすがのレメックも怒るだろう。
そう思って、見ると――
彼は、あたしの言うことなんか無視で、目の前にあるものを指さして言った。
「アネタ、着いたよ。さあ、行こう!」
「ハア?アンタ、あたしの言ったこと聞いてた?」
「えっ、何が?もしかして、また怒ってる?」
呑気に笑う、レメック。
けれど、その笑顔を見ると、まあいいか、と思えてしまった。
むしろ、聞かれていなくて良かったと思う、あたしだった。
「さあ、アネタ、行こう!」
レメックが、あたしの手を引いていく。
その先には、あたしたちのお気に入りの場所―大きな野原があった。
夏の光に照らされた野原は、豊かな緑色で、
広がっている大空のように広々としていた。
あたしたちは、その緑の中へと飛び込んでいった。
その時、ちょうど風が吹き、
あたしのかぶっていた麦わら帽子が飛ばされてしまった。
「あっ!」
飛んでいく帽子を追いかけようとすると、目の前にレメックが飛び込んできた。
チラリとあたしの方を見ると、彼は言った。
「僕が取って来るよ!そこで待ってて!」
「えっ、でも、あっちには川が…!」
この野原の先には、大きな川があった。
落ちたら大変だ。
しかし、あたしの警告も聞かずに、レメックは風と共に走っていってしまった。
あたしは、彼を追いかけた。
「レメック―!!」
次の瞬間、バッシャーンという水の弾く音が聞こえた。
レメックが飛び込んだに違いなかった。
あたしは、ゾッとして、必死に川の方へと駆け寄っていった。
けれど、そこにレメックの姿はなく―あたしの心臓は、嫌な音を立てた。
まさかと思い、彼を呼んだ。
「レメック!レメック―!」
返事は、なかった。
まさか、溺れたんじゃ…―そう思った時だった。
川の中から、少年が現れた。
あたしは驚いて、「レメック!!」と大声で叫んだ。
びしょ濡れになったレメックは、川の中から出てくると、
ニコッと笑って、ある物をあたしに差し出した。
それは、あたしの麦わら帽子だった。
「レメック…」
彼が無事で、本当に安心した。
と、同時に、怒りが込み上げてきた。
あたしは、
レメックに差し出された麦わら帽子を乱暴につかんで野原の上に投げ捨てると、
大声で言った。
「何してるのっ!?頭おかしいんじゃない?
帽子を取りに行くために、川に飛び込むなんて!」
すると、レメックは、キョトンとした表情を浮かべて言った。
「当たり前だろ?この帽子、お祖母ちゃんに買ってもらった大切なものだろ。
なのに、こんな乱暴に投げ捨てたりして―」
レメックは、麦わら帽子を拾い上げると、あたしの頭の上にポンとのせた。
今度は、あたしの方がキョトンとする番だった。
「悪い子だなぁ」
濡れた髪を掻き上げながらそう言ったレメックを睨みながら、あたしは呟いた。
「悪いのは、どっちよ…」
川に飛び込む方が、よっぽど悪いに決まってる!
あたしは、たまらずレメックに向かって言い返した。
「アンタなんか、知らない!
あたしの心配も知らずに、あたしを悪い子だなんて!」
溺れたかもしれないと思って、本当に怖かったのに…。
「死んじゃったかと思った」
そう言った瞬間、涙が込み上げてきた。
レメックは、いつもあたしの思いを分かってくれない。
きっと、これからも分かってはくれない。
そう思うと、悲しかった。
大好きなのは、あたしだけなんだ…―――。
レメックは、どういう気持ちでか、じっとあたしを見た後、
こちらに背を向けて野原の上に座り込んだ。
あたしは、わめき立てることもなく、彼とは離れた場所に腰を下ろした。
そして、心の中で、どうして、と尋ねた。
レメック、どうして分かってくれないの?
あたしは、ただ心配だっただけなのに。
ただ、好きなだけなのに。
もう、あたしのこと、嫌いなの?
ねえ、レメック…。
「アネタ」
後ろから、レメックの声があたしを呼んだ。
振り返った瞬間、あたしの頭の上に何かがのせられた。
そこで、麦わら帽子を外して見てみると――
帽子のリボンの部分に、たくさんの花や植物で作られた冠が付けられていた。
「えっ」
小さな声を上げると、レメックが微笑んで、あたしの目の前に座った。
「それ、付けてよ。アネタ」
「え?」
言われた通りに冠の付いた帽子をかぶると、レメックはニッコリ笑った。
「似合ってるよ。なんだか…お姫様みたいだ」
「え?」
思わず聞き返すと、レメックは少し顔を赤くした。
「いや…とにかく、似合ってるよ!」
あたしは聞き逃してはいなかった。
レメックが、あたしのことを…お姫様と言った!!
「ほんとに?」
「えっ?」
「あたし、お姫様みたい?」
「…聞いてたんだ」
レメックはまた顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
けれど、今度ははっきりと言った。
「うん、お姫様みたいだよ…ほんとに」
レメックは照れているようで、しばらくの間、こちらを見てもくれなかった。
けれど、あたしは幸せだった。
あまりにも嬉しくて、今すぐ空を飛べそうなほどフワフワした気分だった。
「アネタ?」
ようやく、レメックが口を開いた。
「ごめん…心配かけて。
でも、どうしても、帽子を取りに行きたくて体が動いちゃったんだ。
だって、それは…アネタの大切なものだから」
申し訳なさそうに言う、レメック。
あんなに怒って悪かったな、とあたしは思った。
「レメック…
あたしがこの帽子をお祖母ちゃんに買ってもらったこと、覚えてたんだ」
少し驚きながら言うと、レメックはうなずいた。
「当たり前だろ?すごく喜んでたじゃないか」
確かに、大好きだったお祖母ちゃんに買ってもらったこの帽子は、
あたしのお気に入りだった。
お祖母ちゃんが死んでしまった夏、葬式に出た時にも、
ずっとこの帽子をかぶっていたほどだった。
レメックは、ちゃんと見てくれていたんだ……温かい気持ちになった。
「ありがとう…レメック」
あたしが笑うと、レメックも笑顔になった。
大好きな笑顔。
小さかった頃から、ずっと守ってきてくれた笑顔。
あたしとレメックは、ほんの幼い頃から、ずっと一緒だった。
家もすぐ近所で、あたしはレメックとその家族のことが本当に大好きだった。
レメックのお父さんとお母さんは、とても親切な温かい人たちだった。
あたしが急に家にやって来ても、嫌な顔一つせず、
「いらっしゃい」と笑顔で迎え入れてくれた。
彼らは、あたしの実の両親よりも、あたしのことを理解しようとしてくれた。
あたしのことを「良い子」だと言ってくれた大人は、
死んでしまったお祖母ちゃん以外、彼らだけだった。
レメックには、小さな妹もいた。
とても可愛い子で、
一人っ子のあたしにとっても、たった一人の妹のような存在だった。
レメックは本当に妹思いで、いつも妹のことを気にかけていた。
あたしは、レメックのそういうところも好きだった。
レメックの家族は、あたしの理想だった。
優しいお父さんに、明るいお母さん、そして可愛い妹…
レメックが持っていた全てを、あたしは一つも持っていなかったからだ。
まだ小学生になったばかりの頃、あたしはとある女の子に嫌がらせを受けた。
あたしは、それに抵抗しようとして、その女の子を押し倒してしまった。
すると、怒ったその女の子の両親が、
あたしのことを「娘を傷つけた問題児」と町中に言いふらした。
小さな町では、そういう話はあっという間に広まった。
そうして、あたしは町中で「問題児」と言われるようになった。
あたしは生まれつきとても感情的な性格なので、
それ以降も、たびたび学校でトラブルを起こした。
そういうわけで、「問題児」という汚名は、ずっとあたしについて回ってきた。
問題児のあたしに、友達はできなかった。
学校では、いつも、独りで絵を描くか、絵本を読んだりして過ごした。
けれど、そんなあたしに、唯一いつも声を掛けてきてくれる人物がいた。
それこそが、レメックだった―。
レメックは、いつも独りぼっちのあたしを気にかけて、
友達の輪の中に入れようとしてくれた。
実際に仲間に入ることは出来なくても、
あたしは、レメックの思いが、とても嬉しかった。
優しさに、感謝していた。
あたしと友達でいてくれるのは、レメックだけだった。
あたしを問題児扱いしないのは、レメックとその家族だけだった。
あたしが唯一安心して過ごせる時間は、レメックと一緒にいる時だけだった……。
「レメック…?」
「ん?」
まだ髪や服を濡らしたままのレメックが、あたしを見た。
「…これからも、仲良くしてくれる?」
あたしが尋ねると、レメックは「えっ?」と驚いたように口を開いた。
「どうしたのさ?急に改まっちゃって」
そう言って笑うレメックを睨みながら、あたしは「だって…」と言った。
「だって…ちょっと無理してるでしょ?あたしと一緒にいること」
初めて、ずっと心のどこかで悩んでいたことを口に出すことが出来た。
いつも、気になっていた。
レメックは、無理をして、あたしと仲良くしてくれているんじゃないか。
あたしみたいな問題児とは、本当は付き合いたくないんじゃないかと。
クラスの人気者で、常にたくさんの友達に囲まれているレメックと、
いつも独りぼっちのあたしとでは、全く釣り合わない。
好きなのは、あたしだけなんだ……―――。
「…バカ」
「えっ?」
顔を上げると、そこには、怒ったような表情を浮かべているレメックがいた。
その目が、あたしを見た。
「アネタのバカ!アホ!」
「ハアッ!?なんでそんなこと―…」
いきなり大声で言うレメックに、腹が立って言い返そうとしたけど、
途中で遮られた。
「僕は…みんなが間違ってると思う!
アネタは、問題児なんかじゃない。
みんなが言うような子じゃないよ…僕は、知ってる」
いつも穏やかなレメックがこんなに声を荒げるのは、珍しいことだった。
あたしは呆気にとられて、その言葉を聞いていた。
「楽しいよ…こうして、アネタと一緒にいる時間。
だから、そんなこと言うな。
僕は……アネタのこと、好きなんだ」
「えっ…?」
思わず、聞き返した。
今、何て―――?
目の前にいるレメックの顔は、これまで見たことのないほど、
真っ赤に染まっていた。
「…お姫様」
レメックが、あたしに向かって言った。
「僕を、王子様にしてくれないかな?」
「…え?」
ビックリ仰天状態のあたしを前に、レメックはさらに続けた。
「お姫様……僕の背がもっと伸びたら、王子様にしてくれる?」
あたしは、しばらく、
目の前で起きていることが現実なのか信じることが出来なかった。
けれど、レメックの真っ赤な顔を見ると、それが現実なのだと知ることが出来た。
これまで、ずっと悩んできていたことが事実ではなかったということを知った。
好きなのは、あたしだけじゃなかったんだ……?
疑いたい思いだったけど、レメックの表情を見れば、嘘ではないと分かった。
「君のお父さんとお母さんが怒るかと思って、なかなか言えなかったんだ…。
でも、今、言えて良かったよ」
そう言って、レメックはニコッと笑った。
それは、あたしの大好きな笑顔だった――。
あの日は、あたしの人生の中で最も幸せな時間だった。
何をしても楽しい気分で、夢見心地だった。
そのせいで、いろいろと聞きたかったことを聞かないままになってしまった。
今思えば、
もっと、たくさんのことを話して、いろいろなことを聞いておくべきだった。
まさか、あの日が、
レメックとの時間を過ごせる最後だったなんて、
十歳のあたしには知る由もなかった……――。
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