乙十葉の章(其の二)

 それから、一週間――

流馬は毎日、乙十葉の病室を訪れていた。

互いに惹かれ合う所もあったのだろうか・・・



乙十葉退院の日である。

入院費は乙十葉の叔父が全額を支払い、乙十葉を一瞥すると苦々しい表情を浮かべ立ち去った。

「何だ? アイツ?」

「あたしの叔父貴だよ」

「それにしちゃ、よそよそしいじゃねぇか」

「あたしね・・・」

乙十葉は訥々と話し出した。


「あたし・・・。両親、居ないんだ。中学ン時・・・、親父は愛人に溺れて、母さんは恋人作って家出・・・。たった1人の身内はあのバイク屋のいけすかない叔父貴だけ。それでさ、いつの間にかレディースに入ってたって訳・・・。レディースは楽しかったな。あたしは叔父貴にとっちゃあ目の上のタンコブなんだよ」


自嘲気味に話す乙十葉。

手足の包帯は取れているが、事故で落下の時に切った右額から右頬にかけて負った切創は生々しい傷跡を残していた。


「顔までこんなになっちまったし・・・。生きてても良い事なんてないかもね」


じっと乙十葉を見つめていた流馬がポケットから一枚のハンカチを取り出し、一辺を噛みちぎった。


(えっ!?  何してんの!?)

流馬の行動に驚く乙十葉・・・


「たった一カ所、少し破れただけのハンカチは使い物にならないのかい?」


「そんな事は無いと思うけど・・・」

流馬の言葉の意味が理解できない乙十葉。


「このハンカチは乙十葉だ。小さな傷なんて、俺は全く気にならねえぜ」


「流馬・・・。あんた・・・」


「乙十葉、これからどうするんだ?」


「さぁね、バイクも事故っちまってオシャカ。んでもって入院まで・・・。あの叔父貴だって、もうさすがにあたしの顔も見たくないだろうし・・・」


「だったら俺と一緒に暮らさねぇか? 贅沢は出来ねぇけど、乙十葉一人くらいなら俺が面倒見てやるぜ」

頭をポリポリと掻きながら、顔を赤らめる流馬。


「流馬・・・」

愛情に飢えていた乙十葉にとってこれほど嬉しい言葉は無かった。

思わず瞳から涙が止め処なく零れ落ちる。

そうして、2人はそのまま同棲生活を始めたのである。




オンボロアパートで始めた生活は決して裕福とは言えなかったが、乙十葉は幸福を感じていた。


流馬は建築現場や道路工事現場を掛け持ちし毎夜遅くまで働いた。

乙十葉もスーパーや倉庫で働き、互いに互いを支え合う生活が続いていたのである。


そんなある日の事――


慎ましい食事中、乙十葉が吐き気を催す。


「大丈夫か? 乙十葉? 何か傷んでいたのに当たったか?」

心配そうに顔を覗き込み、優しく背中を摩る流馬。


「流馬・・・。出来たみたい」

「えっ!? 何が?」

「多分、赤ちゃん・・・。生理が遅れてたから、もしかしてって思ってたんだけど・・・」

「悪阻ってやつか?」

「ごめん、黙ってて」

そう言いながらも乙十葉の顔には微笑が浮かんでいた。

「俺達の・・・。子供・・・」

「うん・・・」


「やったぁっ! やったぞーっ! 乙十葉、凄いぞっ!」

乙十葉を抱き上げて体全体で喜びを表す流馬。


「よしっ! 明日の朝一番に籍を入れに行くぞ! お前はもう瀧本乙十葉じゃねぇ、峰乙十葉だっ!」

「峰・・・、乙十葉・・・」


薄幸だった乙十葉が初めて知った家族の温もりであった。

幸福の絶頂にある流馬と乙十葉。

しかしこの幸せが長く続かない事を今の2人には知る由も無かったーー




産科を受診し医師から妊娠3ケ月と診断された乙十葉。

流馬の強い希望もあり体に負担の大きい倉庫作業は辞めて、スーパーでの短時間のパートと内職を始めた。

また、流馬も更に仕事を増やし産まれて来る子の為にと必死になって働いていた。



1976年(昭和51年) 流馬 23歳・乙十葉 18歳――


2人の幸せな日々は順調に流れているかに見えた。

妊娠6ケ月を過ぎ、乙十葉のお腹も少しずつ目立つようになってきた。



「流馬。お腹の子、男の子みたいだよ。先生に言われたんだ」

乙十葉は嬉しそうに話す。

「名前、考えておかないとね」

「いや・・・。実は・・・」

「どうしたの?」

「こんなのどうかなって思ってさ・・・」

流馬は一枚の紙を差し出す。


「夏生・・・。峰夏生かぁ・・・、良いんじゃない!」

愛おしそうにお腹を撫でる乙十葉。

その表情には母親の慈愛が宿っている。


「でも・・・?」

「ん!?」

「女の子だったらどうしたの?」

「・・・、一応だけど」

流馬が別の紙を差し出す。


「夏実・・・」

「男でも女でもどっちでもいいんだ。元気な子を産んでくれよ」

「うん」

互いに顔を見合わせて幸せを感じあう2人だった。




臨月を過ぎ、いよいよ乙十葉出産の日が訪れた。


待合室をウロウロと歩き回る流馬。


置かれているテレビの画面には、ピンクレディーのペッパー警部が映っている。

だが、その映像も歌も流馬の目にも耳にも入らない。


(頑張れっ! 乙十葉っ!)

居てもたってもいられず長椅子に座って両手を組んでみたり、立ち上がって歩き回る。

そんな時間がどれほど過ぎたであろうか・・・



オギャア~ オギャア~


元気な産声が分娩室から聞こえ、扉が開く。


助産師が緑布に包まれた赤ちゃんを抱いている。


「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」


「あっ、有難うございます!」


深々と頭を下げる流馬。

分娩台の乙十葉もその光景を見て破顔する。


「流馬も、お父さんだねっ!」

「よく頑張った、乙十葉っ!」

駆け寄り乙十葉の手を握る流馬。


助産師が赤ちゃんを乙十葉の胸へと渡し、2人が顔を覗き込む。


「初めまして・・・。夏生・・・」

2人同時に話しかけ、思わず互いの顔を見合わせる。


流馬と乙十葉、今まさに幸福の絶頂の時であった。   



生後一ヶ月の夏生を私立の保育園に預けながら、乙十葉と流馬は寝る間も惜しまずに働いた。

夏生もスクスクと成長し、生後3カ月になった頃だった。


流馬がいつもより早く帰宅する。

そして・・・


「乙十葉! 大儲け出来るぞっ! もう、無理して仕事しなくてもいいんだぜっ!」

喜び勇む流馬に、夕食の準備の手を止める乙十葉。


「流馬ったら、どうしたの? 夏生が起きちゃうよ」

夏生を寝かしつけたばかりの乙十葉が目を細める。


「『紅茶キノコ』だよっ!」

まるで宝物を見つけた少年のように目をキラキラと輝かせて語る流馬。

乙十葉は楽し気に流馬の話に耳を傾ける。

しかし、2人は予想すら出来なかったのである。

この『紅茶キノコ』が2人を破滅へと導く事になろうとはーー

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