乙十葉の章(其の三)

 僅かばかりの貯金を全てつぎ込み、仕事も辞めた流馬は『紅茶キノコ』の販売に没頭した。

無論、乙十葉も流馬に付き従ったのである。


当初は健康食品ブームもあり『紅茶キノコ』は飛ぶように売れた。

『紅茶キノコ』ビジネスはこのまま驀進していくものと思えていたのだが・・・




半年も過ぎた頃だろうかーー


突然、『紅茶キノコ』ブームが去り全く売れなくなってしまったのである。

更に返品も相次いだ上に売掛金の回収前に販売先の倒産が多発し、流馬の下には多額の借金だけが残ってしまった。


「済まない・・・、乙十葉。まさか、こんな事になるなんて・・・」

頭を垂れて詫びる流馬。


「顔を上げてよ、流馬のせいじゃないよ」

流馬を責める事なく、逆に励ます乙十葉。


「また、一からやり直そうよ。2人で頑張ったら、何とかなるって!」

「乙十葉・・・」

乙十葉の言葉が何よりも嬉しく感じる流馬だった。




流馬は建設現場・パチンコ屋の店員・警備員などを掛け持ちしたが、借金はなかなか減らない。

乙十葉もスーパーのレジや倉庫作業の他、内職をして少しでも家計の足しにしようと流馬を支えた。

また、この頃から流馬には内緒で縫製工場での夜間作業も始めていた。

夏生を安心して預けられる保育施設が整っているという嘘まで付き、自らの睡眠時間を削って働き続けたのである


「乙十葉・・・。何だか、痩せたんじゃないのか?」

心配する流馬。

「大丈夫! 産後太りで体重増えちゃってさ、ダイエットしてんだ!」

健気に振る舞う乙十葉だった。



夏生が生後9か月になり離乳食も始まった頃から、乙十葉の体にも目に見えて変調が現れていた。

だが、夏生と流馬の為に乙十葉は無理をし続けた。

寝不足の日が続き、目の下の隈や顔色の悪さを化粧で誤魔化して乙十葉は働き続ける。


後に流馬は、もっと自分が乙十葉に目を向けるべきだったと激しく後悔する事になるのである。




昭和52年。夏生 1歳――


「ハッピーバースディ! 夏生!」

「夏生、誕生日おめでとっ!」


「まんま」「ぱあぱ」と少しずつ喃語を話し、可愛い盛りを迎える夏生。

この頃から乙十葉と流馬の顔を見て、よく笑うようになっていたのである。


「ほらっ! プレゼントだぞっ!」

電池を入れると犬のぬいぐるみが歩き出し、ワンワンと吠える。


「わうわ」と指を差し、覚束ない足取りで犬のぬいぐるみを追いかける夏生。


「よーし、ロウソクの火を一緒に消そうな。夏生」

「せーの! ふう!」

夏生の代りに乙十葉と流馬がケーキに立てられた1本のロウソクの火を吹き消す。


パチパチパチ

2人で拍手をし、夏生を含めて3人が笑顔になる。

幸福だったのだ・・・。この時までは・・・


翌朝、乙十葉は夏生を保育所に預ける。

いつもは大人しい夏生だったが・・・


「まんま。まんま」

この日だけは珍しく乙十葉の後を追おうとする。


「行ってくるからね! 夏生!」

笑顔で手を振る乙十葉。


保母に抱き上げられても、乙十葉に手を伸ばし続ける夏生。

まるで、行くなと言っているかのように・・・

幼い夏生は、何かを察していたのかも知れない。



(今朝はどうしたのかな? いつもは聞き分けが良いのに・・・。甘えん坊だな、夏生は・・・)

口元が緩む乙十葉。


だがその瞬間、乙十葉の視界が真っ暗になった。

(え・・?。あたし・・・?)

突然、意識を失い倒れる乙十葉。

周囲に悲鳴が響く。



周りに居た通行人が乙十葉の元に駆け寄るが微動だにしない。


心臓が時を刻むのを止めてしまっていた。

過労による急性心不全・・・

いつもの職場へと向かう途中の出来事だった。




乙十葉が倒れたと聞かされ、慌てて駆けつける流馬。

だがその目に映ったのは、笑顔のまま冷たい骸となった乙十葉の姿であった。


「乙十葉・・・。嘘だろ・・・。返事をしろっ! 頼むから、目を開けてくれぇっ! 乙十葉ぁ~っ!!」

乙十葉にしがみ付き大号泣する流馬。


その側には乙十葉の叔父が涙も見せず、冷めた視線で流馬を見つめていた。



乙十葉の葬儀は、叔父が全てを取り仕切った。

参列者も殆どいない、寂しい葬儀であった。



「峰流馬君だったね。その子は乙十葉の子か? まぁ、私には関係無いが・・・」

乙十葉の叔父が流馬に話し掛けた。

「これで瀧本家と縁を切ってくれ」

叔父が流馬に封筒を手渡す。


「乙十葉が居なくなってくれて正直、ホッとしているんだよ。君もそうじゃないのか?」

「あんたっ!」

「全く、親子そろって迷惑ばかり・・・。やっと私も解放されたよ・・・」

口角を上げてニヤリとする叔父。


ガツンッ!


叔父に向けて、流馬の拳が飛んだ。


「なっ、何を・・・!?」

頬を手で押さえ、狼狽える叔父。


「あんた、それでも乙十葉の叔父かっ! 確かに乙十葉は目の上のタンコブだったかも知れねぇ。でも、姪なんだろ! 涙の一つも流せねぇのかよっ!」

竜馬の両目から止め処なく涙が溢れ出ている。

握った拳の震えも止まらない。


「心配すんな、あんたみたいな奴はこっちから願い下げだっ!2度と会う事もねぇ、こいつは選別代わりに貰ってやるよっ!」

封筒を握りしめ、幼い夏生を抱き上げると流馬はその場を立ち去った。


叔父は呆然とした表情で、立ち去る流馬をいつまでも見続けていた。


まだ、母との永遠の別れを理解するにはあまりに幼い夏生。

その夏生を連れた流馬・・・

乙十葉の居ない、2人の行く末はこの先どうなるのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る