第36話 騒然

 常に活気に溢れている田郷の屋敷が、その日だけは騒然とした。指名手配されている武智五山が堂々と屋敷へ入って来るのだから、無理もないことである。

 広い部屋で、五山と元治は見合っている。元治は、厳しい視線で五山を見ていた。

 五山は包帯を取り、傷だらけの姿であったが、一年前と変わっているのはそれくらいのものである。飄々とした態度は相変わらずで、元治は苛々したように指をとんとんと叩いた。

 玲や子龍は、部屋の外からそっと中を覗いていた。誰も彼もが興味深々で、あんまり大勢の人が押し寄せて来るので、元治の一声で部屋は開け放たれることになった。これで、隠れることなく公然のものとして、誰もが五山の話を聞けることになった。

 出された茶に手を付けることなく、五山は言った。

「一年経ったところで僕は悪鬼になっていませんが、どうします?」

 煽るような言葉に、元治は眉間に皺を寄せた。大勢の人間がいるものの、部屋はしんと静かだ。

 元治は唸るように言った。

「まず、説明してもらおうか。お前は、「止まれ」と言っただけで悪鬼の動きを止めたらしいじゃないか」

「そうです」

「どんな術を使った? 悪鬼を従わせるなど、怪しい奴め」

 五山は、鼻で笑うようにした。

「実際のところ、僕が奴らに命令を下しているわけではありません。彼から命令を送ってもらっているんです」

「彼とは何だ?」

「分かり合うのは骨が折れました。この傷はそのせいです。僕もそれなりに強いと思っていたんですが、全く歯が立たないのでどうしようかと思いましたよ」

 五山は、己の肌に触れる。痛々しい傷の全ては、生々しいものではなく過去のものだ。元治は、答えにならない言葉に苛立った。

「答えろ。彼とは何だ?」

「言っても良いのでしたら言いますが、そっちが困るでしょう」

「困るものなど何もない!」

 はっきりしない物言いに、元治は怒鳴るように言った。五山は「ならば」と姿勢を正した。

「仁」

 玲は息を呑んだ。五山は、確かに仁と呼んだのだ。しかし黒塚仁は、一年ほど前、元治に殺された。もういない者の名を、どうして五山は呼んだのか。玲が考え、その可能性へ行き着いたところで、背後から「はい」と返事をして立ち上がった者がいた。

 彼らの注目の外、廊下に控えていたらしい様子の彼に、全員の視線が集まった。玲の視線は揺らめいた。信じがたい、有り得ない光景に、玲は手で口元を覆う。

 その目に映ったのは、穏やかな目の色を称え、鋭い牙と爪を隠すように立っていた、黒塚仁だった。仁は、相変わらず控えめな態度で会釈をする。

 田郷にいる以上、仁のことを知らない人はいない。悲鳴を上げる者、動揺する者、刀に手をかける者、反応は様々だ。玲は手を震わせて、しだいに表情を綻ばせた。その隣、子龍は不可解な顔をして、兄である元治を見つめている。

 仁の立ち姿は、まるで人間のようであった。爪や牙はあるものの、肌は人間と間違えるほど艶やかで、瞳にもしっかりした黒い意志が浮かんでいる。玲のよく知っている仁と、ほとんど遜色はない。

「黒塚仁を、田郷元治が殺したという話は嘘だったんですね。さすがに僕だって、死んだという話を聞いてしまった以上、仁は死んでしまったのだと思っていました。こうして出会うまでは」

 元治は、唇を噛み締め厳しい表情をした。

 あの日、捉えられた仁は田郷の屋敷に連れて来られた。仁は観念した様子で、じっと殺されるのを待つように目を閉じていた。だから、元治は油断したのだ。刀を握り、首を飛ばそうとした瞬間、仁は元治を蹴り殴った。そして、逃げ去ったのである。現場にいたのは、元治と他数人の仲間たちのみで、すぐに彼らは仁を追ったが、仁は暗闇に消えてしまった。元治は、仁を取り逃がしたのだ。子龍を含めたほとんどの仲間は事実を知ることなく、その失態はひた隠しにされた。確実に殺せる状況だったのに逃がしてしまったのは、元治の油断である。元治は、混乱を招くとして事実を公表しなかった。それ以降、元治は五山の捜索と共に、水面下で仁の捜索も続けていた。

「僕の命令を、仁が伝えてくれるんです。今の仁は、確かに悪鬼と呼ぶべき姿をしていますが、僕の味方です。以前の様に我を忘れることもなく、性格は人間的で穏やか、身体は頑丈でかなり強いです。悪鬼たちも、仁の存在を恐れているんですよ。言うならば、悪鬼の大将のような存在でしょうか」

「い、いえ! そこまでではありません。私はまだまだ悪鬼になりたてですし、反発されることも多いですから……」

 仁は謙遜するように手を振った。鋭い爪が揺れるたび、その場にいる全員が奇妙な気分になる。爪と牙以外はどこをどう取っても人間に見え、少し見ただけでは区別が付かない。おまけに性格は控えめだ。これが悪鬼なのか、誰もが疑問に思っている。

「悪鬼同士で意思の疎通は可能なようですし、そのうち仁が頂点に立てば、彼の命令には全員が従うようになります。つまり、僕がわざわざここに来てまで言おうと思ったのは、僕なら仁を通して悪鬼に人を襲うなと命令することが出来るかもしれないということです。やったことはありませんが、試してみる価値はありますよ。仁を逃がしてくれたお蔭で、一つ光が見えてきたわけです」

 元治は言葉を失っている。返す言葉がないのだ。仲間たちに視線をぶつけられた元治は、しばらくうつむき、やっと口を開く。

「しかし、そいつが我を見失わないという保障はない。今は人間的でも、いつかは」

「確かに保証は出来ないかもしれませんが、万全は尽くします。それでももしそうなった時は、どうぞ僕と仁を殺して下さい。今度は確実にね」

 元治はかっと顔を赤くしたが、身体を震わせるだけで「良いだろう」と頷いた。この場で怒鳴ってもただの八つ当たりにしかならないと、元治は分かっているのだ。真相が暴かれた以上、仲間たちの不審は避けられない。頭である元治の立場は揺れ始めていた。子龍は騒然とした中で、動揺を隠す余裕もなく狼狽えている。

 五山は仁を振り返った。

「許可ももらったことですし、悪鬼たちに今後一切人を襲うなと命じてもらえますか?」

 仁は素直に頷くと、部屋を出た。外に向かうと、息を吸って何事かを叫ぶ。それは人間の言葉ではなかった。超音波のような衝撃が一帯を走り抜け、地面や木々が揺れ、雲を吹き飛ばす。衝撃が駆け抜けた後、誰もが驚き動きを止めた。仁は、「失礼しました」と部屋へ戻ると、一礼した。

「私の手がかかっている悪鬼たちには命じました。でも、全員が必ず命令を守るとは思えませんし、命令が届かない場合もあると思います」

「十分すぎるくらいです。ありがとう」

 仁は、照れたように頭を下げた。その姿は、牙さえなければ普通の少年のようだった。

 効果があるのかどうかは、時間が経ってみなければ分からない。元治は、それまではここにいろと五山たちに言いおいて、部屋を出た。仲間たちは、不審がる者、困惑する者、心配そうにする者など様々である。子龍はぼんやりとして元治を見送った。

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