第35話 再開

 五山が消えたという深い森は、どこまで歩いても鬱蒼としていた。普通の人間であれば、立ち入ろうとはしない場所だ。玲や悪鬼退治を行う人間にとっては、これくらいは日常茶飯事だった。玲は、期待に胸を膨らませて子龍と共に先導した。

 しかし、五山の気配は何一つ感じられなかった。玲でさえ、どちらへ五山が行ってしまったのか、判断つかないほどだ。五山はどうやら、さっさと先へ進み、玲でさえ察知できない遠い場所へ行ってしまっているのだった。さらに奥へ進もうとする玲へ、子龍は「ここまでにしよう」と判断を下した。気付けば影は長くなり、太陽は静かに消えようとしている。これ以上は、危険が伴うこととなる。

 玲はうつむき、うんとは頷かなかった。子龍の言葉であっても、大人しく聞くことは出来ないという態度だ。しかし、これ以上進んだところで、五山が見つかる保証もない。

 玲は、子龍たちに引っ張られるようにして、来た道を戻り始めた。とぼとぼとした背中は哀れである。それは、玲だけでなく子龍や他の仲間たちも同様だ。みんな、五山に会いたかったのである。

 しだいに空が暗くなってきた時、玲はふと顔を上げた。緊張感が漂う空気に、子龍たちはさっと表情を変える。玲の表情が、危険を察知したことを物語っていた。

「悪鬼がいる」

 玲は静かに言う。口調は、まだ危機が差し迫っていないことを示していた。走って逃げれば、悪鬼から逃げ切れる距離ということだ。悪鬼退治を行う彼らは、いつ悪鬼に遭遇しても良いように準備を整えているが、時間の制限はある。子龍たちが最も弱い時間帯は、夜だ。悪鬼は暗闇に目が慣れているようで、日中と同じく素早く動けるが、子龍たちは違う。暗闇は、最も避けるべき時間だ。見えないことは、死に直結する。彼らはいつも、暗くなる前までに撤収し、明るい時間にのみ退治を行うのだ。

 玲は子龍へ問いかけた。

「逃げる?」

 今であれば、悪鬼退治は難しいことではない。ただ、もう少し時間が経って暗くなってしまえば、身動きが出来ない。子龍の判断は素早く、「逃げよう」と即座に答えを出した。態勢を整え直し、万全の状態で退治をするのが吉と判断した。玲は頷き、安全な方向を指差した。子龍は玲を抱えると、走り出す。悪鬼との距離はしだいに開いて行った。夜の闇も深くなり、玲はほっとする。

 しかしそれも束の間のことだった。玲はすぐさま不穏さを感じ始めた。抱えられながら後ろを見つめる。すぐに、その不穏が明確なものとなった。悪鬼との距離が、どんどん縮まっているのだ。

「何で?」

 悪鬼がいくら速いとしても、玲が早くに察知し逃げれば、十分に逃げ切れる距離だったはずだ。証拠に、一度は気配が遠のいたのだ。なのに、すでに悪鬼は危険な距離まで近付いている。

「もっと走って!」

 玲は叫ぶように言った。考えられるのは、悪鬼が想定以上に足が速いということだ。例外が常にあることを、玲は知っていた。彼らは言われるまま風の様に走ったが、その距離は開くどころか縮まっていく。玲は、悪鬼が目視できる距離まで来たのを見て、その速さに瞠目した。今まで見て来たものとは比べ物にならないほど、その悪鬼は足が速かったのだ。

 玲はしがみつきながら、子龍の胸元から悪鬼退治専用道具を引っ張り出す。手裏剣、煙玉、まきびしなど、田郷では道具を用いて悪鬼を翻弄することがしばしばあるのだ。玲は時間稼ぎのために悪鬼へ向けて繰り出した。しかし、稼いだ時間はほんの少しで、すぐに悪鬼は追って来る。玲の頭に嫌な予感が浮かんだ。幼い頃に悪鬼に殺されかけた、あの恐怖がじわじわと込み上げて来たのだ。退治にくっ付いていれば、こんな日も来るだろうと玲は分かっていた。それでも、玲はそうせざるを得なかったのだ。悪鬼から助けてくれた五山に恩返しをすることが、玲の生きる意味なのである。絶体絶命の今、玲は項垂れた。五山のために死ぬならともかく、こんな状態で死ぬのはあまりにも情けない。

 すでに辺りは暗く、ここがどこなのかすら分からない。玲の気配察知能力のみで、彼らはただ逃げた。最悪の状況である。

 玲は考えた。こういう場合、いったいどうすれば全員が助かるのか。そして頭を抱えた。今までは、強い警戒心はもちろん、五山という存在が玲を生かしていたのだ。子龍たちだって十分強いが、五山は暗闇も何のその、縦横無尽に動き回る。

 死の気配を読み取り始めていた玲は、ふと顔を上げた。悪鬼とは逆方向、前方に知っている気配を感じたのだ。それは、凄まじい速さで近付いて来る。玲の胸に、底知れぬ感情が込み上げて来た。

「頑張って、走って! もうちょっと!」

 玲は叫んだ。悪鬼はすぐ近くだ。子龍たちは玲の言葉に押されるよう、全力で走った。

 木々の隙間、遠くに包帯の男が見えた。顔も手も包帯に覆われて見えず、陰気な雰囲気を保ちながらこちらへ向かって走っている。

 誰もが彼に釘付けになった。玲だけでなく、子龍も仲間たちも、全員がその男へと注目した。

 瞬間、男は玲たちの上を一飛びし、地面に降り立つと悪鬼へ向かってこう言った。

「止まれ」

 まるで呪いの呪文である。

 凄まじい速さで走っていたはずの悪鬼は、従うようにぴたりと動きを止めた。玲たちのすぐ後ろ、もう少しで手が届きそうなぎりぎりのところだった。血管が浮き出て、ぴくぴくと奇妙に動いた後、頭がすっと地面に付けられる。それは、もう攻撃はしませんという宣言であるようだった。岩の様になって動きを止めた悪鬼に、玲は驚いた。悪鬼が人間の言葉を分かるなど、有り得ないからだ。男は刀を握ると、悪鬼の両脚を切り取った。ぽいと地面に放ってから、玲たちを振り返る。

 血のような赤い目だった。全身は黒、本来肌が見える部分には、全て白い包帯が巻かれていた。誰が見ても、気味が悪いと言う風体の男に、玲は言葉なく唇を噛んだ。必死で走った子龍たちは、心臓がはち切れんばかりに呼吸をして、地面に伏せている。玲は一度視線を下げてから、男へと向けて走り出した。どすんとぶつかり、ぎゅうとその体を抱きしめる。懐かしい匂いだった。

「久しぶりですね。元気でしたか?」

 聞きなれた声に、玲は目を細め、口元に笑みを零す。

「五山、いったいどこで何してたの?」

 誰もが探し続けていた武智五山が、彼らの前に立っていた。子龍はぜいぜいと言いながら五山を見つめ、他の仲間たちもぽかんとしている。

「当然、隠れて生活していたんです。最近は、こんな生活にも飽きて来たところだったんですよ」

 五山は、依然と何一つ変わらなかった。玲はにたにたと笑い、五山を離す。

「その包帯は? その目は? 怪我したの?」

「最初は顔を隠すだけ、と思ったんですけどね」

 五山は、ゆっくりと全身に巻いた包帯を外していく。目の赤さはしだいに引いて行き、元通りの黒に戻った。玲は奇妙さを覚えたが、まずは包帯をじっと見つめた。はらはらと肌が晒された時、目を引かれたのは、顔手足に無数に引かれた傷だった。どれもが致命傷ではないが、簡単に治る傷でもなかった。痛々しい肌に、「どうしたの!」と驚きの声を上げる。

「話せば長くなりますが、いろいろあったんです」

「誰にやられたの? 五山強いのに!」

「上には上がいるわけです。聞いたら、きっと驚きますよ」

 玲は言葉を続けようとしたが、やっと呼吸が通常に戻った子龍に遮られた。子龍も子龍で、五山のことを心配していたのだ。

「五山! 何だよ! 俺がどんなに探してたか知ってんのか!」

「はあ。知りませんけど、そのうち会った時には礼を言わないといけないと思っていたんですよ。どうもあの時はありがとうございました」

「礼って、五山なあ」

 子龍は脱力したように五山の肩を叩く。会えなかった時間がまるでなかったもののように、二人の距離感は相変わらずだ。

 仲間たちは、「武智五山だ」と各々呟き、距離感を図りかねたようにざわざわとしている。彼らにとって、五山は憧れなのだった。五山はそんなものお構いなく、「それで」と子龍へ話しかけた。

「僕を、田郷元治のところへ連れて行ってもらえませんか」

 玲は驚いた。逃げる生活に飽きたとしても、自らあの元治の元へ行こうなど言い出すとは、玲だって思いもしなかった。

「何で?」

「何度も説明をするのは僕だって面倒なんです。皆さん、僕に訊きたいことがたくさんあるでしょう」

 玲は頷いた。確かに、質問は数えきれないほどある。五山は、それを一度に済ましてしまおうという考えなのだ。

「まさか、あの人だって僕を見てすぐに斬りかかるなんてことはしないでしょうし」

「そりゃあ、まあ」

 子龍は苦笑いだ。旧友との再開に肩の荷が下りたといった様子である。五山は相変わらず怖いもの知らずであったが、あまりに無謀なことはそうそうしない。

「それに、話を聞けば、僕を殺そうなんて思わなくなるはずです」

 五山の言葉ははっきりとしていた。何か、考えがあるらしい。玲はにたにたと笑った。五山の声も、体温も、全てが一年ぶりなのだ。

 玲は、この世で最も強い人間は武智五山だと考えている。玲にとって、それが世の全てだ。

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