第32話 空虚

 捜索開始から四十九日後、玲が保護された。玲も、五山に付き従う少女として捜索されていたのである。気配に聡い玲が発見されたのは、人々の目撃情報によるものだった。右手が不自由な少女という特徴を見た人が、密かに通報したのである。逃げる暇なく囲まれ捉えられた玲は最後まで抵抗したが、すでになす術はなかった。玲は今まで逃げることで事なきを得て来たのであって、囲まれた後ではどうしようもないのだ。五山の様に強行突破は出来ない。捉えられた玲の隣に五山の姿はなく、玲は一人捉えられ、どこに向かうとも告げられないまま連れて行かれた。

 玲がやって来たのは、田郷邸である。

 もともと、田郷家はこの辺りきっての旧家で、広い土地を所有していた。それらを悪鬼退治のために使おうと判断したのは、元治と子龍の父であった。善行を積めば悪鬼にならないと信じていた彼は、それにより善行を手に入れたのである。十年前に老衰で死んだ彼は、横暴であったが穏やかな死を迎えた。元治と子龍は、父の善行によって、人生を定められたのである。現在、田郷邸は悪鬼退治を行う人々の宿舎になっており、近所の人たちの彼らに対する評判はすこぶる良かった。死を恐れない彼らは称えられ、まるで英雄のような扱いを受けるのだ。常に人員の募集はされていて、今は数十人ほどがそこで暮らしている。

 玲はしげしげと大きな門を見上げた。これほど立派な建物に入ることが、今までの玲にはなかったからだ。門を抜けると、左手に玄関がある。入ってみると、中もずいぶんと広く、襖を開けた向こう側にも延々と畳が続いているように見えた。決して豪奢ではないが、だだっ広く、玲にとっては落ち着かない場所だ。広い庭と井戸が見え、彼らは毎日ここで鍛錬をしているのだろうと予想出来た。すれ違う屈強な人たちがちらちらと玲を見て来るので、玲は胸を張って堂々と歩いた。何も恥じることはないのである。

 連れて来られたのは、十畳ほどの広さのある部屋だ。閑散としていて、置かれているのは低い文机くらいのものだった。玲は中央に正座をさせられ、待つよう指示された。

 しばらく待っていると、襖が開く。そこに立っていたのは、元治だった。不満顔を隠さない玲に、元治は鼻で笑った。

「お前がいたということは、奴も近くにいるだろう。見つかるのも時間の問題だ」

「五山がそう簡単に見つかるわけないでしょ? 五山は、あんたなんかよりよっぽど足が速くて強いの!」

「こそこそと逃げ回って、あいつはどうしようもない。捕まえたら、今度こそ決着を付けてやる」

「決着って何の? 五山が勝つに決まってるでしょ」

「相変わらず減らない口だな。好きなだけ喚いておけ。おい、連れて行け」

 元治は、それ以上玲との会話を望まなかった。玲も、清々するといったように、ふんと鼻息を荒くする。

 すると、姿を現したのは子龍だった。隣には、見知らぬ若い女もいる。若い女は、ぐっと玲の左腕を掴んだ。

「ちょ、ちょっと! 何、どこに連れて行くの? ちょっと!」

「静かに。こちらに来なさい」

 冷たい声色の女に言われても、玲が素直に大人しくなることはない。抵抗を続けていると、後ろにいた子龍に「ごめんな」と声をかけられた。玲は途端に表情を変えた。強気な態度は消え、大人しくなる。

 あれ以来、玲と子龍が会うのは初めてだ。どういう態度でいればいいのか、何を言えばいいのか、玲は分からず口を噤む。玲は引っ張られ、部屋を出た。そして連れられ、長い廊下を歩いた。

 しばらく歩いて玲がやって来たのは、畳の匂いがする部屋である。さきほどの殺風景な部屋とは違い、生活感に溢れている。机に布団、窓際には花まで飾られている。広さは上々、安宿に泊まるよりもよほど良い。玲は意外という顔をした。てっきり、牢獄にでも連れて行かれるものだと思っていたのだ。

「そんなわけないだろ」

 玲を案内した子龍は笑った。

「しばらくここにいてもらうことになるから、なるべく快適に過ごしてもらえるようにと思って。兄に見つかるといけないから、あんまり表立ってはやれないんだ」

「そんなの十分だよ! ありがとう子龍」

「礼なんていらねえよ。大したことは出来てないんだから」

 そんなことはない、と、玲は力強く言った。こんな素敵な部屋で暮らしたことは、玲の人生史上ないのだ。しかし、子龍は玲の生活事情をあまり知らない。五山との暮らしがどのようなものかを事細かに話すつもりもないので、玲はそれ以上の言葉は噤んだ。

「子龍さん。では私はこれで」

 玲を連れて来た女は、静かに姿を消した。玲は完全に消えたところを見計らい、「あれは誰?」と子龍へ問いかける。

「俺の仲間。言っとくと、玲ちゃんに敵意むき出しの奴なんて、ここにはほとんどいないからな。兄くらいだ」

「でも今の人、めちゃくちゃ冷たかったよ? あれで私、嫌われてないの?」

「兄がいる手前、あんまり仲良く出来ねえんだよ。まあ、そのうちぼろが出るだろ」

「ふうん?」

 玲は、子龍の言葉の意味をはっきりと理解はしていなかったが、問いかけた割にさほど興味はなかったらしい。すぐに話題を変えた。

「しばらくここにいるって言ったけど、私、いつまでいることになるの?」

「どうだろうな? 五山も出てこない以上、玲ちゃんを一人で放り出すわけにもいかねえだろうし」

「あいつだったら、用が無くなったら平気で放り出すでしょ」

「それは誤解だ。兄がいくら玲ちゃんを嫌ってても、それはさすがにない」

「えー? そうかな」

 玲は微笑んだ。以前のように会話が出来ていることに安堵した。

 ちらちらと頭の隅に浮かぶのは、仁の姿である。ふとした瞬間に浮かび上がりそうになる感情を腹の底に抑え込み、玲は「へへ」と笑った。

 何が正解なのか、何が悪いのか、玲には分からない。自分を責めても、他人を責めても、何も解決しないのだ。時は戻らず、神は存在せず、答えは見つからない。

「ねえ、子龍は大丈夫だったの? あいつに怒られた?」

 玲が何の話をしているのか、子龍はすぐに分かったようだった。

「俺は平気だ。ちょっとは怒られたけど、大した事ない」

「そっか」

 もともと、子龍は兄の元治に逆らえないという部分はあったが、子龍が常に元治を宥めているおかげで、二人の仲は悪いものではなかった。二人は信頼関係を築き、田郷の集団を引っ張っていた。しかし、その関係が変わったであろうと玲が推測したのは、あの事件が彼らにとって亀裂そのものだったからだ。

 あの日、仁を押さえつけた子龍は、五山と玲を逃がしたのである。元治は激高していて、もたもたしていればどうなるか分からない状況だった。玲は、五山へ逃げようと言ったのだ。仁は観念したように子龍に捉えられたまま、玲が仁を見たのはそれが最後だった。その後、どういう経過を経て仁が死に、子龍がここにいるのか、玲は全く知らないのである。

「なら良かった。あいつにひどいことされてないかなって、心配してたんだ。五山も言ってたよ」

「五山が俺の心配なんかするか?」

「そう思う?」

 玲が言えば、子龍は考えるように顎を撫でた。それから、「なあ」と静かに声を出す。

「玲ちゃん。今、五山がどこにいるか分かんないよな?」

 子龍に問われ、玲は首を振った。

「今となっては、見当も付かないよ。ずっと転々としてたし、私が捕まった以上、五山は遠くに行っちゃったかも」

「だよなあ」

 子龍は残念そうに息を吐いた。

「そのまま見つからずに暮らして欲しい気もするし、誰よりも先に見つけて安全な場所に連れて行きたい気もする。五山はいったいどういうつもりなんだろうな」

「ずっと逃げ暮らすのは、五山には無理だと思う。だって五山だもん。いつか、自分から名乗り出るかも」

「確かに、それは有り得る」

 玲は、五山と五年の時を過ごしてきた。五山のことなら、ある程度分かっているつもりだ。子龍も賛同した通り、その可能性は十分に有り得る。明日にでもそれが現実になったところで「やっぱりか」と頭を抱えるしかない。

「五山が見つかったらどうなるの?」

「殺されるかもしれないし、殺されないかもしれない」

「悪鬼の血を浴びても悪鬼にならなかったのなら、五山はただの人間だよ。殺す必要がない」

「俺は、五山を殺したところで利点があるとは思えない。むしろ、損害だろ。あんな強い人間、そうそういねーよ」

 悪鬼退治を行う人間に言われ、玲は得意気になる。五山の強さは、子龍の折り紙付きなのだ。

「あいつにそう言えない?」

「言っても聞く耳がなくてなあ。それに今は冷戦中だし」

「ややこしいね」

「本当にな」

 子龍は立ち上がった。忙しい身である子龍は、玲とお喋りに興じている暇など、本来はないのである。

「外に出たい時は、誰かに声をかけてからにしてくれ。何か用がある時も、近くにいる誰かを呼ぶように。良いか?」

「誰でもいいの?」

「兄以外なら。まあ、兄はこの辺りには来ないだろうから安心してくれ」

 玲は素直に頷いた。もし勝手なことをすれば、また元治が出しゃばって嫌味を言うのかもしれないと思い、子龍の言う通りにしようと思ったのだ。子龍の言葉ならば、素直に聞くことが出来る。

「飯時には、俺か別の奴が呼びに来る。寝る時には布団も用意するから」

「何だか至れり尽くせりだね」

 玲は思わず呟いた。まるで高級宿だ。時には野宿だって普通にする玲にとって、田郷の暮らしは慣れない。賛辞の言葉を投げたつもりが、子龍の顔色は晴れなかった。

「悪いな、玲ちゃん」

 子龍は一言言い残すと、部屋を出て行った。一人残された玲は、ぼんやりとして天井を見上げる。

 一人じゃ勿体ないくらいの広さだ。二人だって広いくらいだった。ぽつんと一人座り込み、玲はこれからのことを考えた。自分は何をさせられるのか、いったいいつまでここにいるのか。子龍がいる以上、滅多なことはされないだろうが、元治は徹底的に玲を嫌っている。いっそのこと、放り出してくれればいいのにと玲は思う。五山がいなくとも、玲は一人で暮らしていく術は得ている。一人とは自由だ。五山といると、玲は困らされたり苛々することも多かった。

 玲は視線を下げて行く。心が沈んで行く感覚は、気分の良いものでもない。

「五山」

 名前を呼んだところで、空虚なだけである。五山が今どこにいるのか、玲には皆目見当もつかない。

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