第29話 感情
逃げ足の速い仁は、元治たちに捕まることはなかった。振り切り、誰にも見つからず、誰に襲い掛かることもなく、一日という時間を過ごしたのだ。一日駆け回った五山は、幸運にも元治たちより先に仁を見つけることが出来た。
かつで三人で絵を描いた、人目のない木の元で、仁は頭を抱えていた。月の綺麗な深夜のことである。二人に気付いた仁は、逃げることなく立ち上がり、二人へ会釈をした。今朝の雰囲気とは一転、いつもの仁である。しかしその目には不穏さが立ち込め、牙だけでなく手足にも鋭い爪が生えている。よく見れば、人間のそれとは異なっていることが、はっきり分かった。それでも、所作で仁の意識が戻っていることが分かった。悪鬼になった人間の意識が戻るなど、聞いたことのない話だ。
玲は、五山の背中から下りる。右手には痛々しい包帯の痕があった。仁はそれを見て、苦し気に目を閉じた。この傷は誰のせいか。仁が噛みついたせいなのである。仁には、意識を失っていた時間の記憶がはっきりあるようだった。
五山は静かに口を開く。
「教えてください。仁は、悪鬼になってしまったんですか」
「そう、みたいです。本当に、本当に、何と言ったらいいか分かりませんが、謝らせてください。本当に、すいませんでした」
「謝らないでいいんだよ」
玲が仁へ近付こうとすると、仁は怯えたように後ずさる。玲の傷は自分のせいだと分かっているからだ。これ以上誰も傷付けたくないという意思が、仁を怯えさせている。自分が何をするか分からないという恐怖は、悪鬼でありながら意識を取り戻した仁にしか理解出来ないものだった。他に、前例など聞いたこともない。誰とも共有出来ない思いは、仁が孤独に抱えなければならないものなのである。
「自分でも、分からないんです。何が起きたのか……私は」
自分を抱えるようにして、仁は後ずさっていく。怯えた表情は、五山たちが初めて仁に会った時と同じものだ。
「鬼の血が本物だったのか、こんな状況になっても分からないんです。ずっと、考えているんですけど」
「それは誰にも分かりませんよ。当然、あれからけっこうな時間も経っていますから、偶然だと言ってしまうことも出来ます。誰でも、悪鬼になる時はなるんです」
「殺しに、来てくれたんですよね」
仁はぽつりと言った。五山と玲はうつむく。会えばこうなることが分かっていたのに、まだ決心が付かないのだ。何か良い方法がないか、五山はずっと考えている。
「気付いたら手が血まみれでした。何が起きたか分からなくて、周りを見ても誰もいなくて、一人で歩いていたんです。そしたら、しだいにあやふやだった記憶がはっきりしてきました。私は悪鬼になったのだと分かった時は、ぞっとしました。自分が悪鬼に染まっていく恐怖がこれほどだとは、思ったこともありませんでした。こんなことになるなら、逃げずに家族と共に殺されていれば良かったと後悔して……私の我儘のせいで、こんなことに」
仁の声は、静かに闇夜に響いた。
「賞金は五山さんのものですから。その金で、玲ちゃんの手当をしてあげて下さい」
「……分かりました」
五山が返事をすると、仁は恐る恐る二人に近づく。焦点は合っていて、目の色も穏やかだ。仁は、悪鬼になっても、常に精神が悪鬼的になっているわけではない。悪鬼でありながら、穏やかな人間性を保っていられる時間もあるようだった。しかし、いつまた理性を失うかは、本人にも分からない。
五山は刀を抜いた。仁へ切っ先を突き付ける。その目は真剣で、一寸の隙もない。油断を見せれば殺されるという状況下で、五山は常に戦っているのだ。
「最後に話が出来て、良かったです。意識を取り戻せたのは、たぶん私が二人に挨拶をしたかったからなのかな、なんて思いました。本当に、ありがとうございました」
「お礼なんて、こっちが言わなきゃいけないのに」
「まさか。私は、本当に二人に助けられていたんです。本当に」
仁は、無意識か玲へと手を伸ばしていた。しかし、すぐに気付くと手を引っ込めてしまう。この手で玲に触れるなど、あってはならないと禁じたのだ。
静寂が訪れる。これで、三人の生活は終焉を迎えるのだ。
しかし五山は動きを止めた。それは、明らかな隙だった。本来ならば、殺されている間である。
「五山さん?」
仁が伺うように声をかける。自分は死んだものと思って目を閉じていても、一向に死なないのだ。不可思議に思って首を傾げた仁へ、五山は苛立ちの声を上げた。
「いや、殺せるわけがないでしょう」
刀を、渾身の力で地面に突き刺す。明らかな苛立ちは、淡々としていることの多い五山には珍しいものだった。
「僕だって、最初は殺せるものだと思ってましたよ、簡単にね! だけど、こんなに長い間を一緒に過ごして、どうして殺せると思うんですか? 何なんですか? 言うだけ言って殺してもらおうなんて、虫が良すぎです。殺して欲しいなら、ちゃんと嫌われる人間性を持っていて下さいよ。そうじゃなきゃ、殺してもらえるわけがない!」
「え」
仁は、ぽかんとして口を開けている。五山がここまで強い苛立ちを込めて話す姿を、見たことがなかったからだ。
「悪鬼になったからって、今はちゃんと意識が戻っているじゃないですか! いつまた凶暴になるか分からなかったとしても、殺すなんて。仁は僕のことを何だと思っているんですか? 僕が仁をどう思っているか、考えたことないんですか? 共感性の高いような顔をして、何なんですか? 実は確信犯ですか? まさか! 仁のことはよく知ってるつもりです!」
ぺらぺらと声高に話す五山は、どうしようもない怒りを抱えていた。仁はぽかんとしていて、どうしようという視線を玲へ向けた。玲は静かに首を振り、「気の済むまで喋らせておこう」と視線で語る。
「そもそも初めからおかしな話だったんですよ! 生きたいのに殺して欲しいなんて、仁はどういう気持ちで言ったんですか? 僕が変わり者だって評判だったから近付いて来たんでしょうけど、あまりにも無謀すぎますよ。仁は、生きていたいと言う割に、生に執着していないような気がします。今だってあっさり僕に殺されようとするんだから、もっと必死に逃げ回った方が良いですよ。そりゃあ、他人を傷付けるかもしれないという恐怖はあるんでしょうけど……」
その後も五山は、息も吐かない勢いで話し続けた。二人が割って入る隙もない。しばらく話し続け、やっと途切れたところで仁は口を開いた。
「で、でも、私は、悪鬼になってしまったので」
「だから何です?」
「いつ、また何をしでかすか分からないですし」
「そりゃあそうですね。玲に噛みつくくらいです。凶暴なのは百も承知。それでも、出来ることと出来ないことがあるんです」
「で、でも」
困った顔になった仁は、これ以上言葉を持っていなかった。悪鬼になった以上殺して欲しいと思うのは本心だが、死にたくないと思うのも嘘ではない。五山たちと一緒にいたいと思うのは本心だ。困ってしまって、仁はうつむいた。玲は、少し空気が抜けたようになって、一息吐く。怪我をさせられたとはいえ、仁に死んで欲しくないと思うのは玲も同じなのだ。
「じゃ、じゃあ、五山さんはいったいどうしたら良いと思いますか」
五山は、強い意志を持って言い放った。
「今まで通り生活を続ける」
玲は目をぱちくりとさせた。仁は動揺を隠せない様子だ。
「でも私は」
「それは百も承知だと言ったばかりです。僕は強いですし、仁が暴れてもそれなりに対処出来るでしょう。ただ、やはり力が及ばない場面のことも考えて、不便でしょうが、仁にはものすごく頑丈な手錠でも付けていてもらうことになると思います。どこに発注するかはこれから考えましょう」
すると、玲は「ねえ」と五山の裾を引っ張った。
「人の意識を取り戻せる悪鬼なんて、前代未聞でしょ? もし仁がそういう存在になれるんだったら、人と悪鬼の関係も、何か変わるんじゃないかな?」
「可能性は、なくないでしょうね」
「でしょ! 今回は急なことだったから事故もあったけど、気を付けていれば、五山もいるし、何とかなるかも!」
「いえ、いえ! そんな危険なこと、しちゃ駄目ですよ! それにこうなった以上、五山さんたちだって危うい立場にいることになるんですよ」
「五山はもともと、大路を大手を振って歩けない人だよ?」
「大手は降って歩いていますが」
三人でいる時に、よく漂っていた穏やかさが辺りを包んだ。悪鬼になっても、仁は仁だ。今の仁は、完全に意識を取り戻している。前と何も変わらない。五山と玲はそう信じていたが、仁は頑なに拒んだ。すでに、玲を怪我させた後なのだ。仁が頷かないのも無理はない。
次の瞬間、穏やかな空間を、低い声が破壊した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます