第28話 恐怖
「五山さん。もう、良いんです。私は……」
小さな声に、誰もが耳を傾ける。仁は、顔の前で両手を挙げた。元治の言う通りに捕まろうと言うのである。これ以上、五山や玲に迷惑をかけることは出来ない。これが仁の答えだった。
五山は刀を握ったまま、仁を見つめている。それ以上言葉を続けない仁に、元治は笑った。
「聞き分けが良いな。鬼の血でさえなければ」
「ちょっと! 鬼の血って言うけど、別に仁は悪鬼なんかにならないんだから!」
「保障はない」
「それを言えば、私だってそうでしょ!」
玲は元治へと詰め寄った。仁を連れて行かせたくないという一心である。捕まれば、仁は殺されてしまうだろう。玲は必死だった。
「彼を連れて行くのなら、僕を殺してからにして下さい」
「そうだよ! あんたなんかが五山を殺せるわけないんだから!」
二人に煽られ、元治は刀を握る手を強める。殺気立った雰囲気に、子龍は割って入った。
「みんな一旦落ち着いて! とにかく冷静になって話し合わないと」
「黙っていろ子龍!」
「ですが、こんなところでは迷惑がかかります! 一旦刀を収めましょう! ほら、五山も! 玲ちゃんも、とにかく今は落ち着いて」
元治と五山は一触即発であり、子龍の言葉が聞こえていても動く気配はない。睨み合いが続いている。ただ、玲だけは違った。子龍に言われては、大人しくするしかないと、口を噤んだのである。それにより、緊迫感のある場面は、二人だけのものとなった。玲は外野となって、静かに見守ることにしたのだ。
しかし、玲は突然表情を変えた。不可解そうに眉間に皺を寄せると、仁を振り返った。子龍がその視線を追えば、仁は表情を歪めた。苦し気に胸を押さえると、床に手を付き咳き込む。
「仁?」
玲が心配そうに背中へ手を回す。仁に喘息の気はない。持病もなく、身体はいたって健康だ。突然の事態に、五山は緊迫感を破って仁へ駆け寄った。
「おい! 武智五山!」
「大丈夫ですか? 横になりますか?」
元治のことはお構いなしに、五山は仁へ声をかけている。仁の顔色は悪く、冷や汗が出ていた。貧血だろうか、それとも何か別の、と考えた五山は、仁の状態をしっかり観察していく。五山の母は医者であり、五山は様々な病を抱えた人々を見てきている。五山は医者ではないが、昔の記憶を引っ張り出した。
呼吸は浅くて早く、心臓の音は早い。身体はしだいに冷たくなり、小刻みに震えている。瞳孔はゆっくりと開いて行った。
「仁? 仁、しっかり!」
仁の意識は消失してしまった。声をかけても反応がない。すると、玲が「五山!」と切迫した声を上げた。
「仁から離れて、五山!」
五山は玲の意図を図りかねた。五山らしくなく、何がどうなっているのか、頭が真っ白になったのである。
その瞬間、仁はゆっくりと目を開けていた。仁の目の色が見る間に変わるのを見て、五山は息を呑んだ。
「ご、ござん、さん」
次に顔を上げた時、仁の目は気がふれたように血走っていた。焦点が定まらず、息が荒い。口の中を切ったようで、唇の端から血が垂れた。
「ご、ご……」
苦し気な呼吸と共に名を呼ぼうとするも、言葉が出ない。頭を抱え、苦し気に唸り、仁はとうとう五山の名を呼べなくなった。穏やかな顔は、しだいに理性を失っていった。気付けば鋭い牙が伸びていて、鈍い色を輝かせている。喉の奥が唸り出し、獣のように四本足で立ち上がる。鋭い目つきは、仁のものではなかった。
「悪鬼だ!」
誰よりも早く叫んだのは、元治だった。この気配、この感覚は、元治の言う通り、間違いなく悪鬼そのものだ。五山や玲が何度も遭遇してきた、あの悪鬼である。
玲は悲痛な顔をしていた。信じたくない現実がそこにあった。
仁は、今この瞬間に悪鬼になってしまったのである。
元元治は迷いなく刀を振り上げると、仁へ一直線に下ろした。そこに立ちはだかったのは、五山だった。
「何っ?」
五山は、力の限り元治を壁際へ吹っ飛ばした。轟音と共に、元治は倒れ込む。五山は肩で息をしていた。刀を握る手は微かに震えている。事態が呑み込めず、動揺しているのである。
鬼の血との関連性は分からない。五悪を避け、穏やかに優しく暮らしていた仁が悪鬼になるなど、とうてい信じられることではない。もちろん、善行を積み五悪を避ければ悪鬼にならない、などとおめでたいことを信じていたわけではないが、それでも、まさか仁が悪鬼になるなど、二人は思いもしなかったのだ。悪鬼になる時はなると知っていたはずで、誰だっていつなるか分からないと考えていたはずなのに、いざなってみると、五山は現実を受け入れられないでいる。
「五山……」
しばらく隅で立ち尽くしていた子龍は、兄へ駆け寄ることなく五山を呼んだ。元治は頭を打ったようで、よろよろとしてすぐには立ち上がれない様子だった。
五山はうつむいている。この場で、どのように行動することが正解なのか、分からないのだ。玲も困惑して、今にも泣きそうな表情で座り込んでいる。
誰も動けないでいると、子龍は静かに刀を抜いた。
「五山がそういうつもりなら、俺が彼を殺す。悪鬼になった以上、放っておくことは出来ない」
「……そうでしょうね。当然そうです」
五山は、生気が抜けた声で言った。仁を庇うよう、子龍の前に立つ。子龍は困ったように笑う。
「五山はこういう奴だもんな。いつか、それが仇になる時が来るんじゃないかと思ってた」
「そんなこと」
五山が言いかけた時、玲の叫び声が響いた。完全に意識を飛ばした仁が、突如として玲の右手へ噛みついたのだ。五山の動きは素早かった。仁を取り押さえると、動けないように羽交い絞めにする。口を血に染めながら、仁は呻き声を上げた。玲に駆け寄った子龍は、すぐに傷の様子を見た。苦痛に満ちた表情の玲は、脂汗をかいて横たわっている。噛みちぎられなかったことだけは幸いだったが、腕は血まみれで、生気がなく玲にくっ付いている。
「仁! 聞こえますか、仁!」
呼びかけたところで無駄だとしても、五山は声をかけ続けた。仁の肌は、悪鬼のような土気色にはなっておらず、まだ人と同じ肌色をしている。意識さえ戻れば、また元通りになれるのではないかと、五山は考えているのだ。
「大人しくしろ!」
悪鬼と組み合ったことのなかった五山は、そのとてつもない力を抑え込めないでいた。普段、五山は刀で切り捨てるのが常なので、刀なしに真正面からぶつかり合うことなんてまずない。仁は喚きながら、五山の下で足掻く。そして、大きな口を開けた。五山に噛みつこうとしたのである。五山は上等だと言わんばかりに、肘を仁の口へ突っ込んだ。噛みつかれた瞬間、その力を利用して床へ叩きつけようとしたのである。しかし、痛みは襲って来なかった。仁は噛みつかないまま、化け物のような力で五山の身体を振り払った。
「しまった!」
仁は、開いていた障子窓から飛び出した。仁は、あっという間に逃げ去ってしまった。
「待て!」
やっとの思いで立ち上がった元治は、仁を追いかけ宿を出た。五山も後を追おうとしたが、立ち止まって玲を振り返す。玲の手当てをしようとしていた子龍へ、「後はやります」と五山は声をかけた。子龍は頷いて元治を追った。残ったのは、血まみれの玲と五山だけだ。
気付けば、宿は騒然としていた。こうなっては、もう隠すことは出来ない。
「悪鬼だ!」
「人が悪鬼になった!」
「あれは黒塚仁だったよ!」
「田郷の人が追いかけて行ったぞ!」
「大丈夫かしら」
客たちはすっかり目を覚まし、恐ろしさに身を震わせている。
一部始終を見届けた宿の主人は、震えながら玲の手当を申し出た。五山は包帯等を受け取り、自ら手当をした。玲の顔は真っ青で、昔悪鬼に殺されかけた時と同じ表情をしている。痛いの痛いの飛んでいけ、などと言っている場合ではなかった。五山は黙って玲の右腕に包帯を巻くと、「どうですか?」と問いかけた。玲は少しだけうつむき、そして真っ直ぐに五山を見た。
「うん。もう痛くないよ」
玲は、気丈に言い張った。血が滲み、痛くないわけがないのに、目の端に涙を浮かべながら笑うのだ。
「今頃、五山の術が効いて来たのかもね」
「無理に話す必要はありません。その笑顔も、後に取っておきなさい」
五山の言葉に、玲は唇を噛み締めた。涙目のまま、すんと鼻をすすると、強い表情で顔を上げる。
「五山、仁を追いかけて」
「もちろんそのつもりです。玲は?」
「私も行く。五山、私を負ぶって」
五山は迷うように視線を動かしたが、素早く玲を背負う。宿を出ると、仁が消えた方面へ走り出した。
「捕まってないよね? 子龍もいるし、大丈夫だよね?」
「足の速い仁のことです。簡単には捕まりません」
五山は黙って走った。何度仁の走り方を見ても、結局五山は仁の足の速さを真似することは出来ていない。さらに、仁は悪鬼になったのだ。その速さは凄まじいものになっているだろう。走って追いつこうなど、途方もないことだ。それでも、五山は走った。走るしかなかったのだ。
仁に会ってどうするのか、二人には何の考えもなかった。ただ、元治たちに捕まえられるのだけは避けたかった。そして、仁が誰かに殺されることも、仁が誰かを殺すことも、絶対に避けねばならなかった。簡単には捕まらないと言ったところで、時間はない。仁が何をしでかすかも分からない。表情は晴れなかった。すでに、三人の生活は何にも代えがたい、大切なものとなっていたのだ。それが失われる恐怖が二人を襲った。
もし悪鬼になってしまったのなら、約束通り、五山は仁を殺さなければならない。それが、仁の願いなのだ。五山は走った。
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