第19話 黒塚

 その翌日のことである。

 悪鬼の目撃証言があった森へ来た二人は、時間をかけてうろつき回っていたが、やがて玲に警告されて、五山は刀を握った。玲はすぐさまその場を逃げ離れた。玲の危機察知能力は凄まじく高く、五山よりも先に気付き、逃げ走るのだ。逃げ足も速く、安全な場所を見分ける能力も高いため、五山はその点で玲を信用している。ここから先は、五山の出番である。

 五山は神経を尖らせた。近くにいる。悪鬼特有の空気に、五山は警戒を強めた。

 瞬間、刀を強く握り視線を定める。

 数メートル先に、土気色をした鬼がいた。真っ赤な目が、五山を捉えた。空気がさあっと冷え渡る。背中がぞっとして逃走心を引き出されるような、冷え冷えとした風が二人の間を吹き抜けた。五山は変わらず地面を踏みしめているが、強固な精神力がなければ、逃げ出すのが普通である。しかし、逃げた瞬間、悪鬼は背中に襲い掛かって来る。

 五山は微動だにしなかった。必要なのは、冷静な判断力と、何が起きても対応出来る瞬発力だ。

 元は人間のはずだが、悪鬼の立ち姿に人間的な理性はない。髪を振り乱し、気が触れたように目玉を回し、はあはあと荒く息をする。獲物を見つけた動物のそれに、五山は口角を上げた。鋭い牙が煌めいた瞬間、悪鬼は四本の手足を使い襲い掛かって来る。五山は冷静に見極め、一瞬、刀を振るった。酷い声を上げて、悪鬼は倒れた。血の一滴すら浴びない早業である。

 息を止めていた五山は、久しぶりに息を吐く。悪鬼を目の前にした五山の集中力は、並々ならぬものであった。こと切れた悪鬼を見つめた後、しゃがみこんで手を合わせる。元人間だったその人への、せめてもの気持ちだった。悪鬼になってしまったその人にとって、死が安息のものとなるのか、五山には何も分からないのだ。

 五山は埃を払うような動作をすると、ゆっくりと歩き出す。

「っ!」

 一歩踏み出した時、五山は驚いて顔を上げた。

 人が一人、立っていたのである。

 悪鬼に全力を注いでいたとはいえ、五山はその人の気配に気付かなかったのだ。普通ならば有り得ないことだった。

 ぴたりと動きを止めると、刀を握り警戒する。五山に気配を悟らせなかったその人は、警戒を始めた五山を見ると、両手を顔の前に突き出してはらはらと振った。降参、敵意なしという意思の表れである。それから慌てたように頭を下げ、もう一度深く頭を下げる。

 五山は、一瞬たりとも視線を外さず、その人を見つめた。

「あ、の」

 乾いた声が、弱弱しく響く。

「あ、悪鬼退治で有名な、武智五山さん、ですね」

 声は震えている。ひょろりと立っているのは、十代半ばほどの少年だ。細い身体は吹けば飛んでしまいそうで、肌の色も薄い。声には裏表のない素直さが垣間見える。幸薄そうな顔をした彼は、緊張の面持ちである。

 消え入りそうな声は、こう続いた。

「私は、黒塚仁(くろづかじん)と申します」

 五山は眉を潜めた。聞いたことのない名前、会ったことのない少年、気配を悟らせなかった存在感の薄さ。どれもこれもが不可解で、少年仁の真意を探るように五山は尋ねる。

「僕に何か御用ですか?」

 相手に対して敬意を表するため、五山は誰に対しても敬語である。頑固で強気な態度は対立を生むからと母に教わったのが始まりだが、これはすでに癖でもあった。今さら敬語を使うなと言われても、五山はこれが己の話し方だと認識してしまっている。失礼がなく、親近感もないその言葉は、五山にとって使いやすいものでもあった。

 五山の問いかけに、仁の身体は微かに震えた。控えめな態度でありながら、目だけは爛々と輝き、五山を捉えて離さない。五山はさらに訝しんだ。

 何かの罠か、あるいはただの迷い人か。しかし、迷い人がどうして五山を知っているのかという説明は付かない。武智五山の名は広く知れ渡っていても、外見まで知っている人間は多くないのだ。五山を見て、あれは武智五山だと分かる人間なんて、ほとんどいないはずだ。

 以前どこかで会った可能性を考えるも、残念ながら五山の記憶は緩い。必要のないことはすぐに忘れることにしているのだ。

 悪鬼の目撃証言があった森の奥にたった一人でいた仁は、おもむろに一歩前へ踏み出そうとした。しかし五山はそれを拒む。それ以上近付くなと手で合図すると、仁はしずしずと数歩後ろへ下がった。目的をはっきりさせない限り、五山が警戒を解くことはないのだ。

 五山は辺りを伺った。仁は丸腰、他に人の気配はない。悪鬼の目撃があった森だと知らないのか、そうでなくても仁はあまりにも無防備な格好であった。それが、五山の警戒心を強めた。人は見た目で判断出来ないことは、身を持って知っている。彼が実は手練れであるという可能性が捨てきれない今、距離感は重要だった。

 仁はしばらくもごもごと口を動かしてから、やっと声を出す。

「あ、の。私、実は、命を狙われているんです。私を殺せば、賞金が出ます」

「へー」

 緊張しているような、無理やり喉から絞り出した声である。表情には固さがあり、両の拳は固く握られていた。訴えかけるような目に、五山は気のない返事をしながら頭を動かした。賞金の話は、昨日子龍から聞いたばかりだった。

 鬼の血筋。残された一人。彼らは、一人を残して全員殺されたのだという。

 五山は考えながら、仁を見つめる。黒い髪と黒い瞳は頼りげなく揺れていて、捨てられた子猫のような儚さがあった。そのくせ、五山から一瞬たりとも目を離そうとしない。じっと目を合わせてくるので、五山の方が目を逸らしたくなる。声色は純粋な少年そのままで、手練れにも見えず、敵意の欠片もない。むしろ、視線は好意的だ。興味、関心、その他肯定的な雰囲気を持っている仁からは、嫌な部分を一切感じなかった。しかし、玲がいない以上、五山は本当に自分の判断が正しいのか、確証を得られないでいた。仁の唇が噛み締められた時、五山はふいに問いかけた。

「もしかして、どこかで会いました?」

 仁の表情が変わった。

「え、ど、どこかって」

「いや、ちょっと既視感があったような気がしたもので。気のせいなら良いんです。僕はあまり人の顔を覚えられないので」

「あ、そ、そうなんですか」

「それに、自分で言うのもおかしな話ですが、僕は武智五山っぽくないんですよ。初対面の人には疑われやすいんです。なかなか信用してもらえません」

「そう、ですか? え、っと、私は以前、武智五山さんを御見かけしたことがあって、あの、覚えてはいらっしゃらないとは思いますが、それで」

「ああ、そうでしたか。じゃあ僕の記憶もなかなかですね。その時のことを、どこかで覚えていたのかもしれませんね。なら疑問は解決しました。それで、何でしたっけ? 命を狙われているって?」

 五山ははきはきとした調子で話すと、本題に戻る。彼のことが気になって仕方がないのだ。自分の予想が当たりなのかどうか、五山は正解を待っている。

 仁は眉を下げながら「はい」と頷く。緊張しているようで、目を何度も瞬かせたり、両手の指を絡め合わせたりしてから、ゆっくりと口を開く。

「わ、私はどうやら……鬼の血を引いているらしくて、その」

 その、と言った後、仁は言葉に詰まるようにした。何と言ったら良いものか、分からなくなっている様子だ。

「つまり、あなたは残りの一人というわけですか」

 五山が言えば、仁は目を瞬かせて頷いた。

「そう、ですよね。当然、武智さんなら知っていて当然ですよね。……私は、鬼の家系、の最後の一人です」

「どうして僕のところへ?」

 五山は無駄に時間を使うことを嫌い、単刀直入に問いかけた。

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