第11話 依頼

 四人は店を出ると、ゆっくりと歩き出した。人気のない場所まで来ると、女性はやおら立ち止まる。

「私の夫の話なんです」

 声色は落ち着いているが、陰気な空気を纏っていた。隣にいる男性は、黙ってじっと立っているばかりだ。

 女性は、何から話したものか決めかねているようだった。逡巡したような間があった後、こう続ける。

「あの……人が悪鬼になる瞬間を、ご存じですか?」

 玲は口を閉ざす。何度も悪鬼を見て来た玲だが、人が悪鬼になる瞬間どのようになるのかについては、何も知らないと言っても良いくらいだ。

「見たことはないよ」

 正直に言えば、女性は「そうですか」と頷く。

 悪鬼に殺される人が後を絶たないということは、悪鬼になる人も後を絶たないというわけだ。人が悪鬼になっていく過程は確実に存在するわけだが、詳しい話を玲は聞いたことすらなかった。目撃する人がいないわけではないだろうし、その情報はどこかに保管されているのかもしれないが、どちらにせよ五山には回ってこない。変わり者の五山は常に単独行動で、情報に疎いのである。

 玲は、おおよそ話の内容が分かった。つまり、女性の兄が悪鬼になったのだ。そして、女性はその瞬間を目撃したのである。

「親族が悪鬼になったなんて、大きな声で言える話ではありません。そういう人はもちろんたくさんいるけれど、こっそり失踪届けを出すのが普通です。隣近所の人たちからすれば、あの人見なくなったなあ、という話になるわけですが、そこは暗黙の了解、深く追求はしません。失踪してしまったのか、悪鬼になってしまったのか、真実は覆い隠し、見て見ぬ振りをして、今日も平穏無事に過ごせますようにと祈るんです。だって、明日は我が身、私たちは弱いから、どうしようもないんです。悪鬼になってしまった以上、もう家族でも何でもなくなるわけですから、責任を感じる必要もない。世の中は、そういう風になっている。当然、そんなことは皆さんすっかりご存じでしょう」

 五山は、女性の話に聞き入っている。女性は目を伏せると、続けた。

「二月前のことです。夫は何の前触れもなく、突然血を吐き胸をかきむしるようにして、床に倒れました。私は驚いて夫の背に触れましたが、夫の身体は大変熱く、心臓がはち切れんばかりに動いていました。すると、突然目が血走ったようになり、牙が生え始めたんです。すぐに分かりました、ああ、夫は悪鬼になってしまったと。そういう話は、聞いたこともあったので。ですが、夫は確かに立派な善行を積むほどではありませんでしたが、穏やかで優しく、働き者で、五悪とはかけ離れた存在でした。私は、目撃した今でも、夫が悪鬼になったなんて信じられずにいます」

「襲われることはなかったの?」

 玲が問いかけると、女性は頷く。

「夫はその時、非常に苦しんでいました。人と悪鬼の間で揺れていると言うのか……とにかく、まだ人としての自我は残っていて、私に「逃げろ」と言いました。その言葉を聞いて、私は家を飛び出したんです。一晩明けてから家へ戻ると、そこはもぬけの殻になっていました」

「よく戻れましたね」

 五山が感心したように言えば、「当然です」と女性は言う。

「人に言えることでもないですし、とにかく確認しようと思ったんです。夫は悪鬼になって、どこかへ行ってしまったようですけど」

「もしまだ家にいたら、殺されているところですよ」

 五山の言葉に、女性は苦笑する。そこに恐怖はなかった。

「でしょうね。でも、それでも良いと思ったんです」

「姉さん」

 男性が咎めるように言うと、女性は力なく微笑んだ。

「悪鬼になってしまったから一切関係がなくなるなんて、私にはどうしても思えないんです」

 その瞳には、愛情が溢れていた。女性は、夫を心底愛していたのだ。まだ若い夫婦だったはずだ。子供が生まれて、それなりに幸せな家庭を築くはずだったのだ。未来を打ち砕かれた美しい未亡人は、しっかりとした意思を持って五山を見上げた。

「そうですか。つまり、悪鬼になったその人を殺して欲しいという話ですね」

 女性は重苦しい様子で頷いた。

「はい。夫に人は殺してほしくありません」

「もう殺した後だったらどうしますか?」

「なるべく早くお願いします」

 女性は間髪入れずに答えた。

 目の前の悪鬼が、人間を何人殺してきたかなんてことは、五山には分からない。女性にこう言われた以上、五山は今すぐにでも彼を探し、殺すだけだ。途方もない依頼であったが、五山はすぐに引き受けた。

「悪鬼の肌はただれていて、目も焦点が合わず、人間だった時とは全く異なる外見になっていると思います。正直なところ顔の見分けは付きません。身に着けていたもので、何か特徴的なものはありますか?」

 完全なる悪鬼と真正面から相対したことのない女性は、「そういうものなんですか」と声を上げた。彼女が見たのは、悪鬼になりかけの人間だけだ。悪鬼の情報をいくら手に入れようと、百聞は一見に如かずである。実際に見れば、あまりの醜悪さに誰もが目を逸らすだろう。

「あの日は紺色の着流しを着ていて、首には私と同じ、お香の入った小袋を下げていました。昔から、私の家ではこれを持っていると、悪鬼に出会わないからって……」

 女性は、胸から小袋を取り出した。桜の柄が描かれた、桜色をしたそれからは、僅かに香りが漂ってくる。

「良い匂い」

 玲が鼻を近づけると、女性は「彼もこれと全く同じものを持っています」と言う。

「引きちぎっていなければ良いんだけど」

 玲は五山を見上げた。しっかりと目に焼き付けると、「退治した暁には、これを持って帰って来ます」と約束する。

 五山は、一度した約束は必ず守る男である。

 女性は、五山を心から信用しているかは定かではなかったが、今は信用するしかないという表情で、「お願いします」と頭を下げた。男性も、つられるようにして頭を下げる。しかし、その表情は苦々しい。彼としては、これ以上姉に悪鬼に関わって欲しくないのだ。しかし、姉に逆らうことは出来ず、渋々といった様子である。

「ちなみに、依頼料というのは」

 女性が口火を切ると、五山は首を振った。

「いりません」

 五山は言葉を弾くように言う。女性は驚いたようだった。

「いらないんですか? 普通、退治料はそれなりにかかると聞いていたので、一応お金の準備はしているんですけど」

「僕には必要ありません」

 五山は迷惑だと言うように突っぱねる。いつものことなので、玲は呆れながらも口を出すことはしなかった。

「えっと……失礼ですが、武智さんは何か他に仕事を?」

「いえ」

「ああ、そうか。こういうのって、国から補助が出るんでしたっけ」

「出ません。僕が勝手にやっていることなので」

「そうなんですか……」

 強気の五山に、女性は言葉を失ったようだった。玲をちらと見た後、静かに頭を下げる。当然、無料で悪鬼退治をやってもらえるのであれば、それに越したことはない。

 五山たちは、二人と別れた。

「あーあ。今日の晩御飯は抜きかあ」

「そんなことはありません。金はありますよ。この前の分」

 五山が懐から出すのは、悪鬼退治の御礼と言って、この前懐にねじ込まれた分だ。五山は嫌がる素振りを見せたが、玲に言われたこともあって、受け取ることにしたのである。

 五山たちにも生活はある。感謝は受け取るべきだと、玲は常々思っている。そのため、甚だ不満であった。

「今回の場合は、正式に依頼を受けて退治するんだから、ちょっとくらい貰ったら良いのに」

「生活する金はあるから良いんです」

「それにしたって、あんなに突っぱねなくて良いでしょ」

 相手は、感謝の気持ちを持って申し出ているのだ。それを、まるで迷惑だという表情で突っぱねるのは、五山の悪い癖である。

 しかし、いくら言ったところで五山の気が変わるとは思えなかった。ただ人を助けるという母の意志を受け継いでいるのであれば、玲が勝手に金を受け取るなんてことも出来ない。それは、五山に対する裏切りである。玲は、決してそんなことをするつもりはなかった。

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