第3話 神業
「ねえねえ、大丈夫?」
ぼんやりと立っている仁へ声をかけるのは、幼い少女だった。どれほどの時間が経ったのか、気付けば陽は傾きかけていた。仁は長い間、立ち尽くしていたらしい。
少女はふくふくとした少女を膨らませ、「もう」と言う。
「さっきから何回呼びかけてもこの調子だよ。立ちながら気を失う人がいるんだね」
「弁慶みたいですね」
仁のすぐ側で、二人の声がした。一人は仁へ話しかけた幼い少女で、もう一人は少年だ。仁とそう変わらない年齢の少年は、淡々とした声色で続ける。
「引っ張って連れて行っても良いんですが、重いのは嫌なんですよ」
「だから私が引っ張るって言ってるのに」
「けっこう距離がありますから止めておいた方がいいでしょう。疲れるだけで良いことなんてありませんよ。それに、悪鬼に遭遇した時に逃げられません」
「それはそうだけど、だったらいつまでここにいるの? この人、まだ立ちっぱなしだよ」
「…………あ」
仁は、からからの喉から声を引っ張り出した。目玉を震わせながら、二人へと焦点を合わせる。目が合ったのは、少年の方だった。
あれから、時間は確実に経過していた。意識が浮上し、頭がはっきりとして冴えて来る。これは現だ。目に焼き付けた少年の顔と、目の前の彼が同一人物だと分かると、仁は両手で顔を覆った。
二人の視線を集めた仁は、乱れた呼吸を整え、声を絞り出す。
「あ、の……」
容易く悪鬼を退治した少年は、刀を携え、飄々とした態度で仁を見つめていた。一見どこにでもいそうな少年だが、この人こそ、神業を持つ仁を助けたあの人だ。一瞬にして悪鬼を退治したその技は、まさに神にしか持ちえない妙技だ。
仁はその場にへたりこんだ。久しぶりに空気を吸った気分で、清涼感が身体中を駆け抜けていく。
「大丈夫ですか?」
少年は、仁を窺うようにした。仁は慌てて姿勢を正すと、かくかくと頷いた。
「あ、あの、ありがとうございました」
恐怖と興奮が入り混じった声で、仁はやっと頭を下げ礼を言った。
「しゃ、喋った!」
すると驚いたのは少女の方である。愛らしい顔をした五、六歳と思われる少女は、丸い頬を赤くした。
「死んじゃったかと思ったよ!」
興奮気味の少女に対し、少年は冷静だ。
「まさか。悪鬼に触れられてもいないのに、死ぬわけがないでしょう」
「だって、ずっとこんなして立ってるんだもん」
少女は、仁の真似をして仁王立ちをする。仁は恥ずかしくなって、頬を赤くした。こんな間抜け面をして立っていたなんて、自分では思わなかったのだ。少女に真似をされて、仁は穴があったら入りたくなった。
「当然、人間そういう時もあるでしょう」
「私はないよ?」
「数年しか生きていないんですから、それも当然です。あと十年生きてみれば、もっとたくさんのことを経験するでしょうね」
「先輩みたいなこと言うんだから」
「もちろん、僕は人生の先輩ですよ」
二人は、楽し気に会話を交わしていた。少女と少年の関係がどのようなものか、仁には分からなかったが、まるで仲睦まじい兄妹のようだと思った。ぼんやりと会話を聞いていると、二人の視線がふいに仁へ集まる。頬を赤くしたまま、仁は身体を小さくした。
「わ、私、てっきり死んだとばかり思ってしまって。見た光景が信じられなくて、ここは天国かなー、なんて、はは……すいません」
何しろ、悪鬼が目の前にいたのだ。普通であれば、悪鬼に出会えば、すなわち死なのである。仁がそう思い込むのも無理はなかった。
少女は明るくけらけらと笑った。
「何で謝るの? 運が良くてよかったねえ! たまたま私たちが近くにいたから、殺されずに済んだんだよ」
「は、本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げると、少女は自分が退治したわけではないのに、満足げに頷いた。
「いつでも頼ってくれたら良いんだよ? この人強いから」
少女は、少年を指差した。この少年の桁違いの強さは、仁も承知の通りである。
仁は、そっと伺うように少年を見た。飄々とした様子で立っている彼は、成長盛り独特の細い体つきをしていて、身体が特別大きいわけでもなく、年相応の白い頬をしている。幼さの残る顔立ちはすっきりとしていて、意志の強そうな黒い瞳が印象的である。髪色と着物の色が相まって、全体的に黒で統一されている彼の出で立ちは、一種独特の雰囲気を持っていた。仁の視線に気づいた少年は、ちらと一瞬だけ目を合わせると、「まあそうです」と肯定した。謙遜をしない様子に、仁はいけないと思いつつ「ふふ」と笑ってしまう。
「そうですよね。本当にびっくりしました。一瞬で悪鬼が倒れていくのを見て、これは夢だって思ってたんです。きっと夢を見ていて、私はもう死んでいるんだって……」
「確かに、悪鬼に会ったら普通死ぬもんね。普通はね? でも、この人は普通じゃないんだよ」
ふくふくとした頬で笑う少女は、誇らしげである。大きな目を嬉しそうに細めると、仁を優しく見上げた。
「す、すごいですよね。本当に、すごい」
少年を称える言葉がそれ以上出て来なかった仁は、ひたすらに「すごい」を連呼した。しかし、いくら賞賛されようと、少年の表情は変わらない。得意満面になっていくのは、少女の顔ばかりだ。そんな言葉には興味がないと言わんばかりで目を逸らすのは、照れているわけでなく、心底興味がないだけのようだ。
仁は、じろじろ見てはいけないと思いつつ、つい少年へ吸い寄せられるような視線を送る。仁より少し年上なだけであろうが、若々しさに溢れているというよりは、落ち着き地に足が付いている。同年代の人間と並べば、はっきりとその違いが分かるだろう。その理由が何なのか、少年のことをよく知らない仁には分からなかったが、人間離れした強さが関係しているのだろうと予想することは出来た。
少年は手を後ろで組むと、ほうと息を吐いた。
「先手必勝なんですよ。隙を見せれば殺されますからね」
「そうそう! 先に気配に気付くのが大事だよね! 逃げるが勝ち!」
元気が有り余っている様子の少女は、ちょこちょこと仁と少年の間を行ったり来たりしては、飛んだり跳ねたりと落ち着きがない様子だ。仁は二人の様子を伺い、手を握ったり開いたりを繰り返してから、口を開いた。
「あの、いつもこんなことをされているんですか?」
仁の言う「こんなこと」とは、当然悪鬼退治のことだ。悪鬼退治をする人がいるという話は、仁も聞いたことがあった。しかし、実際に見るのは初めてだ。出会えば死が訪れると言われるほどの凶暴な悪鬼に立ち向かえる人間がいるなんて、仁にとっては信じがたい話でもあった。
「そうだよ」
仁の問いかけには少女が答えた。
「あの、危ない、ですよね?」
悪鬼退治など、危ないどころではなく命が危険にさらされる。それが善行だといえ、死んでしまえば元も子もない。そんなことをする人は奇特だ。
「死ぬのが、怖くないんですか……?」
言葉を紡ぐ仁へ、二人は丸い目を向ける。少年は「そうですね」と言いながら顎を撫でた。
「怖いか怖くないか、ということには興味がありません。そこに悪鬼がいるのならば退治をしようと思っただけです。僕がしたくてしていることです」
「神様、みたいですね」
仁は感嘆の呟きを漏らした。
同じ時代に生まれ生きて来たはずなのに、人間とは人それぞれ、考え方も全く異なる。少年の言葉が、仁には信じられなかった。強大な力を持つ少年が、まるで神の国の住人に思えた。
そこに意義を唱えたのは、少女だ。
「こんな神様、私だったら嫌だな」
「何でです? 祈ってくれてもいいんですよ」
「他人の願い事なんて、絶対叶えてくれないでしょ?」
「僕は僕のしたいようにやるだけです」
「ほら」
二人は気軽な言葉を交わし合っている。仁は口元を押さえると、もう少し話してみたいと思い、口を開きかける。しかし、言葉は出て来なかった。少年が「じゃあ行きましょうか」と少女に声をかけたからだ。
「もう行くの?」
「彼ももう大丈夫のようですから」
少年に見つめられ、仁は直立不動になる。もう行ってしまうのかと、残念な気持ちが込み上げた。
「せ、せめて御礼をさせて下さい。命を助けてもらったんです、それくらい」
「言いましたよね、僕はしたくてしただけです。恩着せがましいことはしたくありません」
「でも」
断固とした態度に、仁は口を噤んだ。何を言っても、少年はうんとは言わないつもりだ。仁は、心からの感謝をありったけ詰めて、頭を下げた。顔を上げた時には、二人は和やかな表情で立っていて、邪気のない微笑みを浮かべていた。
「では、これで」
少年は会釈をすると、仁に背中を向けた。行ってしまう。そう思った時、仁はその背中に声をかけた。
「あの!」
二人は振り返った。
「お名前だけでも、教えてくれませんか!」
少年ははにかんだ。
「武智五山(たけちござん)です」
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