Jessica
Jack Torrance
ジェシカ
日はとっぷり暮れ地平線の彼方に沈んだ。
月の光をバックにかすみ雲が風に吹かれて流れて行く。
ジェシカ、お前が逝っちまってもう3ヶ月。
お前が吸ってたクールに火を点けて吸い口を墓石に向けて手向けた。
チェーンスモーカーだったお前。
よく煙草の本数を減らせって俺から叱られてぶすくれてたお前。
もう身体の事なんてきにする必要もねえ。
好きなだけ吸いな、ジェシカ。
ひんやりとした夜気が頬をなぞる。
また来るな、ジェシカ。
俺はメットを被り愛車のトライアンフ スピードマスターに跨ってジェシカの墓を後にした。
夜空の雲のように揺蕩う俺の心。
帰り道。
あの日、お前が見たいって言っていたゴールデン ゲートブリッジから見える海を眼下に見下ろして走りながら叫んだ。
バカヤロー。
虚しい怒号がトライアンフのマフラー音と行き交う車の騒音に掻き消される。
あの日の朝。
7月29日
俺が寝ていたら朝っぱらからガサガサと物音をさせていたお前。
時計を見たら、まだ4時10分だった。
開いたドアから見えたのはバイクを流す仕度をしていたお前。
13th フロア エレベーターズのロックTシャツにベン デイビスのワークシャツ。
履き古したベーリングのブーツカットのブラックデニム。
そして、バイクに跨る時にいつも履いているダナーのエンジニアブーツ。
俺は寝惚け眼で目を擦りながらベッドから起きた。
「えらい早起きだな、ジェシカ。どっか流すのか?」
ジェシカが肩より幾分か長い栗色のロングヘアをポニーテイルに結わえていた。
「うん、ちょっとね。ゴールデン ゲート ブリッジから望む朝焼けの海を見たくてね。霧も今日は出ていないみたいだし。昼は今日は暑くなりそうって言ってるじゃん。バイク流すんだったら涼しい時が快適だしね」
俺はキッチンの上に置いてあったキャメルを手に取り一本銜えて火を点けた。
ジェシカが髪を結わえるとコーヒーメーカーからモカブレンドを自分の分と俺の分をマグに注いでくれた。
俺は何も言わずに目の前に差し出されたコーヒーを啜って一服した。
ジェシカもクールを一本抜き取り一服しながら俺に言った。
「お兄ちゃんも一緒に走る?」
「勘弁しろよ。こんな日の朝はもう一回寝るに限る。今日は暑くなりそうってお前も言ってたじゃねえか。しかも今日は休みだからよ」
俺とジェシカはたった二人限の家族。
10年前に親父とおふくろは交通事故で死んじまった。
俺は19になったばっかで右も左も分かんねえガキだった。
まだジェシカは14で多感な時期で両親を突然失って泣きじゃくっていた。
親父はオールマンの大ファンで中でもドゥウェイン オールマンのボトルネックに執心だった。
ドゥウェイン オールマンに惚れ込み過ぎて親父は俺にドゥウェインと名付けた。
俺が5つの時にジェシカが生まれた。
1973年7月29日
ジェシカはおふくろに産み落とされた時の体重は7ポンドで健康そのものといった立派な赤ちゃんだった。
親父は女の子になんて名を付けようかと迷っていた時に3日後の8月1日にオールマンの『ブラザーズ&シスターズ』がリリースされた。
親父はその日のうちにレコードショップに買いに行き後にシングルカットされる“ジェシカ”という曲に惚れ込んだ。
親父はターキーを呷って上機嫌になって言った。
「名前はジェシカだ。アルバムタイトルも『ブラザーズ&シスターズ』ってのが気に入った。この世に白も黒もねえんだよ。俺達は皆兄妹だ。ジェシカって名もディッキー ベッツの娘の名だそうだ。ドゥウェイン、お前、妹の事を大切にして兄妹仲良くするんだぞ」
親父は俺の頭をもみくちゃにしてジェシカのほっぺにキスすると上機嫌で持ってたターキーのボトルをラッパでぐびぐびやった。
そんな親父の影響もあって俺とジェシカは物心付いた頃からオールマンやマーシャル タッカー、グラインダー スウィッチ、アトランタ リズム セクションなんかのサザン ロックを聞き漁っていた。
ジェシカは歩けるようになると俺にべったりになり行く所行く所に付いてきて俺の背中を追っ掛けていた。
そして、10年前の親父とおふくろの不慮の死。
俺は車やバイクの整備を齧っていたのでバイク屋でパーツの販売やカスタムの仕事を始めていた。
バイクには16の頃から跨っていたし俺にとって天職になるんじゃねえのかって予感もその頃からしていた。
俺のバイク好きが乗り移ったのか。
ジェシカが20の時に俺に切り出してきた。
「お兄ちゃん、あたしもバイク乗りたいんだけど…」
その頃、ジェシカはハイスクールを卒業して美容学校に通い美容師になっていた。
「止めとけ止めとけ。夏は暑いだけだし冬は寒いだけだ。それに事故って傷でも残ってみろ。嫁さんにも貰ってもらえねえぞ。車があるんだから別にバイクに乗んなくてもいいじゃねえか」
「いいじゃん、お兄ちゃん。何もヘルズ エンジェルズ(米国発生の国際的バイカーギャング)に入るって言ってる訳じゃないんだしさ」
ジェシカが子どもが玩具売り場で執拗に駄駄を捏ねるようにせがんでくるので俺も根負けした。
反面、俺は自分が愛しているバイクに妹が乗りたいって言ってくれた事が嬉しかった。
「お前、どんなバイクに乗りたいんだ」
「『イージー ライダー』で乗ってるみたいなバイク。ハーレーダビッドソンとか…」
「お前、馬鹿か。あれ、幾ら金かかると思ってんだ」
バイクの選定やカスタムは俺の飯の種なんで注文を付けた。
センスのねえバイクに妹が乗ってるなんてのが知れ渡ったら商売あがったりだからよ。
バイクはYAMAHA ドラッグスター。
重厚なメッキ加工が施されていて重心の安定さとカスタムパーツの豊富さで玄人好みに仕上げられる良いバイクだ。
排気量も250ccで故障が少ない日本車ってのも女が乗るには無難なチョイスだからよ。
タンデムは禁止。
ジェシカはドラッグスターを見て気に入った。
ペーパーテストと運転技術なんかは俺がみっちり叩き込んでジェシカは一発でテストに合格した。
ジェシカは貯めていた金を切り崩して中古のドラッグスターを手に入れた。
俺も兄貴として可愛い妹の為にカンパしてやった。
バイクも知り合いの伝手で走行距離や状態の良い物を俺が自分の目で確かめて手に入れた。
ドラッグスターが納車の時にはジェシカは目を輝かせて喜んでいた。
何処に出しても恥ずかしくねえように見栄え良くカスタムしてやった。
ジェシカは休みの日には愛車を洗ってよく流しに行っていたな。
俺とも随分遠乗りして人からは「仲の良い兄妹ね」ってよく言われたな。
あの日の朝。
お前が淹れてくれたコーヒーを啜りながら俺はお前に言った。
「ジェシカ、今日は誕生日だったな」
ジェシカは吸いかけの長いクールを灰皿で揉み消して次の煙草を銜えていた。
「お兄ちゃん、覚えていてくれたんだ」
「バカヤロー、一応兄貴だからな。今日は仕事が引けるのは何時くらいだ?」
ジェシカは煙草に火を点けて煙を燻らせて言った。
「8時前くらいかな」
「8時20分くらいでジェノバで晩飯ってのはどうだ。パスタくらいは奢ってやるぞ」
ジェシカの頬に靨がくっきり見えた。
「お兄ちゃん、それってほんとなの!あたし、久々にジェノバのパスタ食べたいって思ってたんだ。あそこって結構お高い料金設定じゃん。あたし、今月金欠なんだ」
ジェシカはマグのコーヒーを飲み干して煙草を揉み消した。
徐に立ち上がり椅子の背凭れに掛けていたディッキーズのライダースジャケットを羽織ってファスナーを上げた。
「そっか。お前がそう思ってたんなら願ったり叶ったりじゃねえか。俺はもう一眠りするよ。気を付けて行けよ。じゃあ、夜にジェノバでな」
それが、俺とジェシカとの最期の会話だった。
ジェシカは、あの日の朝5時37分、居眠り運転の車に突っ込まれちまって逝ってしまった。
警察から連絡があって遺体は見ない方がいいって言われた。
俺はそれでも一目だけでも会わせてくれと言ってジェシカの変わり果てた姿と対面した。
全身を強打して身体は損傷が激しかったが顔や頭部はほとんど生前のジェシカと変わったように感じなかった。
「おい、ジェシカ、何寝てんだよ。起きてくれよ。おい、ジェシカ、俺を一人にしないでくれよ」
ジェシカの眠っているような顔を見てると止めどなく涙が溢れてきた。
ジェシカの遺体は親父とおふくろの横に埋葬した。
暗く静まりかえったおんぼろアパート。
空虚な部屋。
思い出だけが染み付いている。
リフレインする虫の調べ。
ジェシカの部屋。
ドアを開けたらお前がまだそこにいそうな気がする。
今日は10月29日。
ドゥウェイン オールマンがバイク事故で逝っちまった日だ。
ジェシカ、お前までドゥウェインみたいに逝く事ないだろ。
しかも、ドゥウェインと同じ24で…
バカヤロー。
早過ぎんだよ。
あの日、お前の誕生日祝ってやれなかったな。
ほら、お前が欲しがってたポリスのサングラス。
あの日の晩に渡そうと買っておいたんだぞ。
ちょっと遅くなっちまったな。
ハッピーバースデー、ジェシカ。
部屋の壁にドブロが立て掛けてある。
よく練習してたな。
「あたしもドゥウェイン オールマンのように弾けるかな」
「お前はほんとに馬鹿だな。ドゥウェインのボトルネックは神が与えたもんだ。あんな天才は錚々現れねえよ」
「お兄ちゃんの馬鹿。あたしがレコード会社と契約してもお兄ちゃんにはビタ一文くれてやんないんだから」
「一生、髪切ってろ、お前は」
ターンテーブルに“ジェシカ”のシングル盤を載せて針を落とした。
また涙が溢れてきた。
ジェシカ、お前に会いてえよ。
ジェシカ…ジェシカ…
俺もそのうちそっちに行くよ。
そん時にまた一緒に遠乗りして流そうな…
Jessica Jack Torrance @John-D
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