第6話




 もっともらしい理由が一つでもあれば、多少は自分を偽ったりもできるのだろうと思う。


 そうすることが選べてそうするのと、そうせざるを得ないからそうするとではまるっきり違う。

 自分のことは自分が一番に分かっていて、だからこそ周囲には隠して、がんばって取り繕おうとしていた部分もあった。大抵わたしが我慢したり黙っていれば済むことなのだから、わざわざ他者の手を煩わせるわけにはいかない。自分のことには自分で責任を負いたい。この程度のことなのだから。

 でも、わたしはあのときたしかに、彼女の思いに応えようと思った。考える間もなく、ほぼ一瞬で。


 スピードを落とさずに走っていた。それで、先の二つはなんとかなった。違和感はほとんどなくて、なんだもう大丈夫だろうと思っていた。

 だからその日だって、彼女の望み通りスピードを落とさずに走ろうとした。

 ここに照準を合わせてきてるのだろうと、なんとなく感じていたから。


 中盤に至るまでのリードはほんの少し、自分も彼女もいつもより調子が良いと思った。

 ぐいぐい追いついてくる彼女を終盤にかけて引き離そうとしたときに、かかとにスタートでかけるのと同じくらいの力をかけて。

 それで、それで──。


 ──ブチッと、まあ、あっけなく切れてしまった。


 フィニッシュ後に、身体を支えきれなくなって倒れ込んだ。

 どっちが速かったんだっけ、多分わたしの方が速かった。どうして最後まで走れたんだろう。


 すぐに顧問と病院に行って、どうせそうだろうと思っていた診断をされた。

 また走れるようになるさ、と顧問は言った。そのときの時点でもう走る気はなかった。

 足を痛めるような走り方を直していこう。これで学んだだろう、もっと速くなれるよ。がんばろう。

 一度伸びたものはもとには戻らないと知っていた。その場で、部活を辞めることを顧問に告げた。


 少し経ったときに、親はわたしに「まだよかったじゃない」と言った。

 その意味は続きや真意を聞かずとも分かっていた。わたしは怒りとかそういう感情も湧かずにただただ呆れた。

 ご機嫌取りか何なのか、わたしを元気づけようと一方的に考えたのか、親はわたしをいろいろなところに連れて行こうとした。


 壊れたおもちゃは継ぎ接ぎしたって意味ないのに。

 一度強く拒否すると、その後にそういう話をしてくることはなかった。

 わたしは完全な自由を手に入れ、親は大好きな走ることを失った可哀想な娘を手に入れた。

 本質的には何も変わってない気がした。でも、わたしはそれで良かった。続くことがもう耐えきれなかったのだと思う。


 走ることから遠ざかったけれど、わたしはそのことを欠落だとは思わなかった。

 結局のところ、わたしにとっての走ることは習慣であって呼吸ではなかった。ないならないでなんとかなるものだった。


 数ヶ月後に、走っている彼女を遠くから見て、その走り方の綺麗さに目を奪われた。

 もともとそうだとは思っていたけど、離れてみると思っていた以上で、近くにいたら恐らく一生気付けなかったことだった。


 彼女をいつも目で追ってしまう自分がいた。

 何となく家に居づらくて、放課後に教室に残っていたことがそれを加速させた。

 わたしの中で彼女の占める割合が大きくなっていった。

 時間が経って治っても前までのようなスタートが切れるわけがなかった。嘘でしょ、と思ったけれどそれが現実だった。



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