愛念の隠蔽

3

 9月1日、始業式。それが終わると全校生で大掃除を行う。私も例に漏れず体育館前の階段の掃き掃除をしていた。

 ちりとりに砂埃やゴミを集め終わったその直後だった。勢いよく降ってきたボールがちりとりを直撃する。へ?と思った。というかそれだけしか思えなかった。ちりとりに当たってバウンドしたバスケットボールが私の顔面に直撃したからだ。


「わぁー、まじですみません!」

「美琴ちゃん大丈夫!?」


 クラスメイトが私を心配する声と、恐らくボールを投げたであろう張本人の謝罪の声が聞こえる。それと同時に鼻からサラサラとしたものが流れ出てくる感覚……。これ鼻血だ……!

 そう理解した瞬間、私は咄嗟に上を向いた。クラスメイトの真実ちゃんがティッシュを渡してくれる。それを有り難く受け取り、鼻翼部分を両側から強く圧迫した。

 私がそうしているとバタバタと階段を降りて来た子が「すみません!」と泣きそうな声を出した。ほんとなんで掃除時間にバスケットボール?意味わからん、と思ったが必死に謝っている後輩に追い打ちはかけられなかった。


「いーよいーよ、でも気をつけてね」


 と先輩らしく格好をつけたつもりだが、ティッシュで鼻を押さえている姿では格好なんてつかないだろう。


「はい……本当にすみませんでした……」


 シュン……という効果音がつきそうなほどしょんぼりしている。素直に反省できる子はとてもかわいい。


「ほんと大丈夫!私、傷治るの早いんだ!ほら!」


 ティッシュと圧迫していた手を離してもう鼻血が出てこないことをアピールした。それを見て後輩くんはほっと安堵の息を漏らす。


「あの、名前とクラス聞いてもいいですか?」

「うん!2年8組の明石美琴です。きみは?」

「俺は1年4組の神内伴です!よろしくお願いします!」


 きゅっと釣り上がった目尻が生意気そうだが、つるりとした肌や艶のある唇が清潔感に溢れている。

 こんなかっこいい子が一年生にいたんだなぁ。鼻血が止まり、落ち着いた頭で改めて神内くんの顔を見てそんなことを思う。清廉ささえ感じるほどの透明感だ。それに身長も高い。恐らく礼人よりも高いだろう。


「あの……?」


 あまりにも見すぎていたらしい。神内くんは不可解に思ったのか、私を窺うように声を発した。


「ご、めん!めっちゃ見てたね……とりあえずもう大丈夫だから!」


 私はそれだけ告げると散らばってしまった砂埃たちをちりとりに軽く集め、横で待ってくれていた真実ちゃんと一緒に他のクラスメイトの元へ向かった。


 大掃除が終わり教室に戻ると、すでに持ち場から帰ってきていたかなえが私の元へやって来た。


「おつかれぇ」

「お疲れ様!さっき鼻血出た!」

「えぇ?鼻血ぃ?大丈夫なのー?」


 美少女に顔を覗き込まれ、思わず尻込みをしてしまう。「うん!もう大丈夫!」と私が答えれば、かなえは「よかった!で、どうして鼻血なの?」ともっともな疑問を投げかけてきた。


「バスケットボールが飛んできた」

「へ?バスケットボール?大掃除中に?」


 誰が聞いても訳の分からない状況だと思う。だがそれが事実なのだ。


「そう。あ、そういえば一年生の神内伴って子知ってる?」

「じんないばん……?」


 かなえが口にすると何か新しい単語のように聞こえる。半導体、案内板、みたいな感じだ。

 少し考えたあと思い出したみたいで「あぁ!あのめっちゃイケメンの子でしょ?」と目を輝かせた。やっぱり有名みたいだ。


「なになに?イケメンって俺のことー?」


 イケメンという言葉に吸い寄せられたかのように礼人が会話に混ざる。「違うよ!」と返したが、礼人はイケメンだ。イケメンという事実を否定しているのではなく、礼人のことを話していない、という意味の「違うよ!」であることをわかってほしい。


「じゃあ、誰のこと話してたんだよー?」


 もしかしたら竜生くんのことを話してたと思ってるかも。礼人の表情からなんとなくだが伝わってくる。私が事の顛末を話そうとしたとき、教室の扉が開き担任が入ってきた。今からホームルームを行なうみたいだ。気にしている礼人に目配せをし、私は席に着いた。



 ホームルームが終わるとすぐに礼人は私の机の前にやって来た。


「竜生くんの話じゃないよ」


 とだけ耳打ちする。礼人はあからさまに安心した表情を見せた。そんなに引きずってると思われてるのかな……まぁ、間違いではないけれど。


「一年生の神内伴くんって子のことだよ。今日たまたま知り合って」


 他学年のイケメンとたまたま知り合うってなんだ?と、言いながら自分でも思うが、それが事実なのだから仕方ない。礼人は「じんない、じんない……」と呪文のように繰り返しながら、何かを思い出しているみたいだ。


「あ!バスケ部のやつだ!」


 閃きは突然降ってきたようだ。そうだそうだ、とスッキリした顔を見せた礼人は私の目をじっと見つめた。な、なによ……。何かを探るその視線に思わず後退りしてしまう。


「ま、お前の心の中には洗井くんが住み着いてるもんなー?」


 そんなことを今ここで言わなくてもよくない?内緒話の距離と声の小ささだったが、誰に聞こえるかわからないのだ。竜生くんの耳には間違っても入ってほしくない。私が礼人をキッと鋭い目で睨むと「ごめんって……」と申し訳なさげに眉を下げた。


「あ!いた!明石先輩っ」


 私が礼人をもっと責めようと口を開いたその瞬間に、爽やかな笑顔と共に神内くんが現れた。突然の一年生、しかも目を見張るほどのイケメン、の登場に教室中が騒めく。


「あ、あぁ、神内くん……どうしたの?」


 名指しをされた私は必要以上に緊張してしまった。つっかえながら言葉を紡ぐと、「あの後変わりないかなぁ?と心配で、見にきました!」だなんて、忠誠心の高い犬のようだ。満面の笑顔の後ろにブンブンと揺れる尻尾が見える。


「そうなんだ、わざわざありがとう!もう大丈夫だよ」

「良かったです!安心しました」


 えぇ……なんなの、かわいすぎない?私が神内くんの魅力に打ちのめされていると、礼人が横から口を挟む。


「どーもー。森脇礼人です。神内くんってバスケ部だよねー?」

「はじめまして!神内伴です!はい!バスケ部です!俺、森脇先輩のことかっこいいなっていつも見てました!」


 存分に棘が含まれた礼人の口調に気づかず、一生懸命答えている健気な姿に心を撃ち抜かれた。衣食住の世話してあげるね、っていう感じだ。庇護欲をくすぐるというのだろうか?礼人もその真っ直ぐな姿勢に毒気を抜かれたのか、「ありがとー」と満更でもない様子だ。


 神内くんは「それでは、俺この後部活があるので失礼します!」と深くお辞儀をし、去って行った。



「見た目とのギャップがすごいねー」

「うん。めっちゃ好青年だったね」

「純粋すぎて眩しかったわー」


 颯爽とこの場を後にした神内くんに呆気に取られた私たちは、彼のことをそう評した。




 部室の扉を開けると「お疲れ様です!」と後輩たちが一斉に声を出した。「お疲れ様」と返すと、いつものようにまとわりついてくる後輩が一人。


「先輩!洗井先輩!お疲れ様です!」

「うん。お疲れ様」


 着替えるから少し離れてほしいと毎回思うのだが、注意しても直らないので俺はいつしか注意することをやめた。この後輩は表面的には良い奴なのだが、俺への執着が強すぎる。他の部員は「あれは洗井の信者だな。心酔してるよ」と茶化してくるが、それは笑えないほど的確だと思う。

 俺が死ねと言えば喜んで死んでしまうんじゃないか、とさえ本気で思うほどなのだ。とにかく不気味な奴だ。


 部室から体育館までの道のりを2人で歩いて行くのも最早恒例になっており、今日も他の部員は邪魔しちゃ悪いと先に行ってしまった。


「そういえば、今日先輩の元カノさんと知り合いました!」


 ……は?思いもよらない神内の言葉に、冷たい汗が背筋を流れ、ぞわりと寒気がした。


「美琴になにかしたのか!?」


 思わず力が入ってしまった声と咄嗟に神内の腕を強く掴んでしまったことに気づき、俺は深く息を吐き、心を落ち着かせる。


「……悪い。明石さんとはとっくに別れてるから。彼女、新しい彼氏もできたみたいだし」

「あぁ!剣道部の森脇先輩ですか?今日も一緒にいましたよ!たしかにあの人もかっこいいですけど、俺は比べるまでもなく洗井先輩がいいですねぇ!」


 汚れを知らないとでもいうような、キラキラした瞳で言う内容ではないだろ。俺はあからさまにため息を吐いた。


「とりあえず、明石さんは俺とはもう関係ないから、これ以上関わらないで」

「うーん、そうですかねぇ?」


 納得いってないことがはっきりとわかる口調だ。だが、俺と美琴は絶対に交わることはないのだ。頼むから掻き回さないでくれ。


「今日明石先輩を見てたらすっごい欲情しちゃいましたぁ!この唇が洗井先輩とキスしたんだなぁ、とか考えちゃって」

「おい、やめろ!」


 神内は俺に心酔している割に俺の制止は聞かないのだ。スイッチが入れば無遠慮に自身の性癖をダバダバと垂れ流す。


「あと、明石先輩って血がすごく似合いますね……今日鼻血出させちゃったんですけど、とびっきり可愛かったです」

「やめろって言ってんだろ!!」


 俺の怒鳴り声にも神内はびびるどころか、ニヤニヤとしているのだ。


「そんな大声出す先輩、初めて見ましたぁ」


 「やーっぱり明石先輩のこと特別なんですね」と言って、新しいオモチャを手に入れた子供のように無邪気に笑った。


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