幸福の隙間

3

 いつも決まって8月の第一土曜日にその花火大会は開催されていた。今年も例に漏れず、そのように行われるらしい。

 私はこの日のために新調した浴衣を着て彼を待っている。彼とはもちろん洗井竜生くんのことだ。

 待ち合わせ場所である駅前には、浴衣を着た人達が大勢いた。十中八九、この人たちも花火大会に行くのだろう。私はスマホで時間を確認し、そろそろ洗井くんが来る頃かな、と考える。駅直結のショッピングモールのガラス壁に薄く写る自分の姿を見て、なかなかいけてるよね、と自画自賛した。

 白地に赤い牡丹があしらわれたオーソドックスな柄の浴衣は、亜美ちゃんに付き合ってもらって選んだものだ。

 牡丹か紫陽花かで悩む私に「浴衣の柄って意味があるみたいだよ。調べてみたら?」と提案してくれた亜美ちゃんの言葉に従い、スマホで検索をしたのだ。

 「紫陽花は団欒で、牡丹は幸福だって」と検索結果を読み上げながら、私の心は決まっていた。幸福……牡丹にしよう。



 「ちょっ、あの人めっちゃかっこいいんだけど」という、知らない女の子の声に釣られるようにして顔を上げた。もしかして、洗井くんかもしれないと思ったのだ。

 「ごめん、お待たせ」と待ち合わせ時間5分前に現れたのは、もしかして、と思った通り、洗井くんだった。

 面識のない女の子が思わず「かっこいい」とこぼしてしまった気持ちがわかる。黒地に麻の葉が施された古風な雰囲気の浴衣に、えんじ色の帯の合わせが洗井くんの色白な肌にマッチしていた。

 主張の少ないパーツで構成された洗井くんの顔立ちは一見すると冷たそうに感じる。ツンと尖った鼻先と、縦幅よりも横幅が広い目がそのイメージをより顕著なものにしていた。

 そして今日は、その冷たそうな雰囲気と浴衣の装いがお互いを高め合い、神々しいとまで感じるオーラを放っている。

 なのに、なのに、だ。笑うと途端に幼くなるんだもんなぁ。こんなの反則だよ。

 「屋台でなに食べる?」なんて楽しそうに話す内容も幼い子供みたいだ。かわいい。


「洗井くん、浴衣似合ってるね、かっこいい」

「まじ?ありがとー。明石さんも似合ってるよ」


 意を決して言った私とは違い、洗井くんは天気の話をするかのようにサラッと褒めた。嬉しいんだけど……なんか悲しくなるのは、私が贅沢すぎるんだろうか。


 

 花火大会は一級河川の河川敷で行われる。駅からそこまでは少し歩くのだが、その道中と河川敷の一区画に屋台は並んでいた。

 カラコロ、と下駄特有の音が響く。がやがやとした喧騒と夏の夜の蒸し暑さが祭の雰囲気を高めていた。


「わっ、」


 普段履き慣れていない下駄だからこそ、慎重に歩こうと気をつけていたのだ。だけどそんなことなんの足しにもならなかったみたい。小石につまづいたのか、ただ道路に足を取られたのか定かではないが、とにかく転びそうになった私の腰を洗井くんの長い腕が抱き締めるように引き寄せる。

 「あっぶなー、セーフ」と危機一髪、助けられたことに安堵して笑う洗井くんとは対照的に、私は顔まで真っ赤にして俯くことしかできなかった。

 首筋にキスを落とされて、血を吸われるなんてもっと過激なことをしているのに、少し身体の距離が近づいただけでガチガチに固まってしまうんだから……洗井くんを虜にする魔性の女には程遠いな。


「あ、ありがと」

「うん。下駄って歩きにくいもんな」


 そう言いながらも、洗井くんは下駄での歩き方も様になっている。私みたいに足を庇うようなぎこちなさはない。

 「気づかなくてごめんな。はい」と私に向かって左手を差し出した洗井くん。こ、これは、もしかして、もしかしなくても、手を繋ごうというお誘いですか!?

 真意を理解した途端目を白黒させ、挙動不審になった私を見かねたのだろう。洗井くんは私が手を差し出すより早く私の手を握り、照れることなく歩き出す。私ばっかり好きみたいで、なんだか不公平だ。まぁ、私ばっかり好きなのは本当のことなんだけれど。



 河川敷、特に花火が間近で見られる特等席辺りはすでに人でごった返していた。


「うわぁ、花火大会ってこんなに人いるんだな」


 洗井くんは人の多さに圧倒されたように呟いた。しかし今年が特別人出が多いというわけではない。例年通りであるこの状況に驚く洗井くんを見て、花火大会にはあまり来ないのかな?と思う。それともここの花火大会には来たことがないのだろうか。ちなみに私は、毎年礼人と来ることがお約束になっていた。


「ここの花火大会、あんまり来ない?」

「あんまりっていうか、初めて。小学生のときは地元の夏祭りに行ってたしなぁ」


 嬉しい、と反射的に思った。初めてってすごく特別に感じる。こうやって私との思い出を積み重ねて、私の存在が洗井くんの中に降り積もって、私自身が洗井くんの特別になりたい。


 「もうすぐ花火の時間だな」と洗井くんの声が弾む。その手にはフライドポテトとコーラが握られていて、本当に子供みたいだと思わず笑ってしまう。私の笑い声を不思議に思ったのか、「ん?なに?」と唇をぎゅと合わせ、眉を上げて目を見開いた。洗井くんは思っていたよりも表情豊かだ。

 

「ううん。花火楽しみだね」

「うん!すっごく!」


 今度はそうやって、くしゃりと満面の笑みを見せるのだから、もうほんとたまったもんじゃない。洗井くんといると、私の心臓は酷使されるのだ。



 「あ、おいおい、あれほらあれじゃね?」


 あれ、しか情報が入ってきていない。「なんだそれ」と言いながら、同じ剣道部の仲間である林が指差した方向を見た。瞬間、つきりと鋭い痛みが胸を刺し、俺はすぐに視線を逸らす。


「あ?あぁ、女子が噂してたわ。洗井くんに彼女ができたぁ、つって」

「してたしてた。知らんけど。ってか、あの彼女の方って、森脇の幼馴染だろ?なぁ?」

「え、まじで?わりかし可愛いじゃん」

「でも洗井と並ぶと見劣りするよなぁ、やっぱ」

「いや、洗井のレベルが高すぎるだけだからね」


 適当に繰り広げられる部活仲間たちの下品な会話に、俺は愛想笑いを返す。いや、普段なら俺も一緒になってワイワイ騒いでいるのだ。だけど、今回は内容があまりにもセンシティブすぎる。もちろんそれは、俺にとって、である。

 先程僅かに捉えた光景を思い出す。俺には絶対に見せない美琴の笑顔。きっと熱い眼差しを送っているのだろう。なんだ、まじで付き合ってんじゃん。

 「本当に好きな子と付き合いなよ」なんてよく軽々しく言えたもんだな。俺が「付き合って」と懇願すれば承諾してくれるのかよ。


「もうすぐ花火始まるし行こうぜぇ」


 俺は一刻も早く会話を切り上げたかった。見たくないのだ。俺じゃない誰かと幸せそうにしている美琴を。

 目を瞑りたいのだ。関係が壊れることが怖くて、好きだと言えない情けない自分に。


 カラコロ。下駄の音が住宅街に響く。

 あれだけごった返していた人たちも、駅前を離れてしまえばどこへやら。先程の喧騒が嘘だったかのように、夜の街は静まりかえっていた。


「楽しかったね」

「うん、楽しかった!最後のナイアガラ?すごかったよな」


 ついさっき仕入れたばかりの花火の知識を口にしながら、洗井くんは少年のように明るく笑う。

 そしてしばしの沈黙。

 洗井くんが足を止めて「公園寄ってかない?もう少し一緒にいたい」なんて言うものだから、私は壊れたオモチャのように首を縦に振った。断る選択肢なんてないのだ。



 「お茶でよかった?」と聞きながら渡されたペットボトルをぎゅっと握りしめる。


「うん。ありがとー」

「どういたしまして」


 私の横に腰掛けた洗井くんもお茶を買ったようで、早速キャップを捻り、ごくごくと勢いよく飲みだした。どうやら相当喉が渇いていたみたいだ。夜とはいえ、真夏はまだまだ蒸し暑いので気持ちは良くわかる。


「ここまで送ってくれてありがとね」


 それでも私は飲み込む音が聞こえないように、そう告げたあとに、こくりと少量のお茶をゆっくりと流しこんだ。

 「や、それは全然」と言いながら、洗井くんはゆっくりと私を見つめた。ベンチの側にあるオレンジ色した街灯が洗井くんを後ろから照らし、表情が見えづらい。ゆっくりと顔が近づいてくることだけがわかった。

 あ、キスだ。私がそう思って目をつぶると、「浴衣、ほんとに似合ってる。かわいい」と耳元で囁かれた。

 え……。キスだと勘違いしてしまった恥ずかしさと、改めてはっきりと褒められた嬉しさとで複雑な感情に襲われる。戸惑った私の雰囲気を感じて、洗井くんは言葉を続ける。


「俺、恋愛経験なさすぎて、褒め方とかわかんなくて。いつ言おう、いつ言おう、ばっか考えてたよ」


 洗井くんも最初の褒め方はなにか違うな、と感じてくれていたみたいだ。褒めてくれたことより、私と向き合おうと真剣に考えてくれていたことがとても嬉しい。


「ありがと。悩んで選んだ浴衣だから、そう言ってもらえて嬉しい」

「牡丹だよな」


 浴衣の牡丹柄が施されたところを撫でながら洗井くんが聞くので、「そうだよ。なんか、牡丹柄は幸福って意味があるんだって」とスマホで拾った知識を伝えた。


「幸福かぁ……。俺、今日かなり幸せだったよ」


 どうしてそんなに泣きそうな顔で言うの。街灯の明るさに慣れてきた目に、洗井くんの切なげな表情が映った。洗井くんは幸せだと泣きたくなってしまうのだろうか。

 私は好きが溢れて泣きそうだよ。


「ふっ……。また泣きそうな顔してる」


 泣きそうな顔をした洗井くんに言われるのだから、私も大概な顔をしているのだろう。


「私も幸せだな、って思ったの」


 私がそう告げるや否や、洗井くんの顔がさらに近づき、鼻と鼻がくっつく。息ができない。私、このまま死んでしまうかもしれない。

 そんな馬鹿げたことを考えながら、ぎゅっと固く目をつぶると、今度こそ2人の唇が軽く触れ合った。

 おままごとのようなキスだ。だけど、私にとっては宝物のようなキスだった。

 「好き、洗井くん、好き」と制御しようにもできないほどに溢れてくる言葉を、うわ言のように呟いた。洗井くんはそれに応えてくれるかのように、言葉が途切れる度に角度を変えながら唇を合わせてくれた。

 それが終わると、いつの間にか繋がれていた手を解き、洗井くんは私の指先に唇を落とした。ハッとして目を開けば、私を見つめる洗井くんの瞳と視線が交わる。

 それは確認のようであった。「お前の血を吸うぞ」という確認である。私がこくんと頷けば、私の人差し指がつぷりと洗井くんの口の中に沈み込んでいく。


「あ、まって、あらいく、ん、まって」


 舌で絡めとられた人差し指からビリビリとした快感が流れ込んでくる。こんなのおかしくなる。

 私は、やだやだ、と首を横に振って拒否を示したが、吸血行為に夢中な洗井くんは一向にやめてくれる気配がない。

 血を吸われるという行為が、なんでこんなに気持ちいいの。頭がくらくらする。腰の辺りがずしりと重くなり、じわじわと快感が全身に広がっていく。


「も、やだぁ……」


 私の情けない懇願がやっと届いたのか、それともある程度満足したのか、洗井くんは肩で息をしながら私の人差し指を解放してくれた。


「っ、はぁ……ごめ、ん……」


私の目尻から流れ出たものは生理的な涙だ。それを認めた洗井くんは、慌てて謝罪の言葉を口にし、かなり丁寧に優しい力でその涙を拭ってくれたあと、抱きしめてもう一度キスを落としてくれた。そんなことで恐怖や怒りの感情が消えてなくなるのだから、相変わらず扱い易い奴だと自分でも思う。



「ねぇ、唾液になんか入ってるの?その、き、気持ちいいから……」


 と、落ち着いてクリアになった頭で洗井くんに問いかける。体液に治癒機能がついてるぐらいたがら、媚薬物質が入っていてもおかしくないと思ったのだ。なにがどう気持ちいいのかは言えなかった。


「いや、直接的に快感物質が入ってるんじゃなくて、唾液の物質に反応して、明石さんの身体からドーパミンが分泌されるって感じ」


 なるほど、わからん。なんとなく想像はできたけれど。

 話を聞いてもなお、きょとんとした私に向かって「ま、蚊に刺されて痒くなるのと一緒だよ」と朗らかに話した洗井くん。

 吸血欲求が満たされて、だいぶスッキリしたようだった。



 結局私の家の前まで送らせてしまった。


「ありがとう。じゃあ、また連絡するね」

「うん。俺も電話するよ」


 と別れの挨拶をしているところに、「よお」という間の抜けた声が割って入ってきた。この声の持ち主は、もう確認しなくてもわかる。できることなら無視してしまいたいぐらいだ。

 しかし私がそう出来ても、洗井くんには無理だろう。声のした方へ顔を向けた洗井くんは、その人物に向かってペコリと会釈をした。


「美琴じゃーん。彼氏?ども、美琴の幼馴染の森脇礼人でっす。ついでに同じ高校でぇす。一年二組、剣道部でーす」


 彼氏?なんて知ってるくせに、白々しい奴である。

 礼人の自己紹介を聞いて、洗井くんは突然姿勢を正し、「はじめまして。美琴さんとお付き合いさせてもらってます、洗井竜生です。一年七組、バスケ部です」と挨拶したのだ。いや、こいつは私の家族でもなんでもないただの幼馴染だからね!


「あー、どもども。ご丁寧にありがとうございます」


 と礼人も洗井くんに向かって深々とお辞儀をしたのだ。絶対に面白がってるな……。


「あ、美琴。明日の晩ご飯、俺そっちで食べるから!じゃ!洗井くんもまた!」


 なんて言うだけ言って、さっさと自分だけ帰ってしまうのだから、本当に何がしたかったんだか。


「ごめんね。わけわからなさそうに見えて、根はいい子だから……」

「いや、全然。楽しそうな人だね」


 良かった、洗井くんが気にしてなくて。私は安堵のため息を吐き、「本当にありがとう。楽しかった。じゃあ、気をつけて帰ってね」と改めて別れの挨拶をした。

 別れ際のキスを少し期待したのだけれど、洗井くんはあっさりと帰って行った。

 ま、こんな家の前でできるわけないか。




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