幸福の隙間

1

 おい、とふてぶてしい声が聞こえて、後ろを振り返った。案の定それは、私を呼ぶ礼人の声だった。


「おはよー」


 いつもの私なら「おい、ってやな言い方だねー」と非難するところだが、今日の私はご機嫌なのだ。爽やかな朝に相応しい満面の笑みを添えて挨拶をした。


「昨日のあれ、なんなわけ?報告だけしてさっさと寝やがって」


 口悪ーっ。挨拶も返さず話し始めた礼人にイラっとしたが、どうやら礼人も私に苛立っているらしい。

 そんなに怒ることか?と思ったのはここだけの秘密だが、ここは素直に謝る方が得策だろう。私は「ごめん」と眉を下げた。


「……まぁ、別にそんなに怒ってるわけじゃないけどぉ」


 ちょろい奴である。


「で、まじで付き合ったの?」


 そんな嘘をつくわけなかろう。「まじだよ」と、私は隠しきれない頬の緩みと共に礼人に告げた。


「まーじかー。そうかぁ……女子たち荒れそうだなぁ」


 礼人はそう言って、にやりと意地の悪そうな笑みを見せる。なんでそんなに嬉しそうなんだ。私が窮地に立たされるかもしれないのに!


「べっつにー。付き合ったときに覚悟したもん。それにもうすぐ夏休みだから、多少騒がれても全然平気でーす」


 ここで弱々しい態度を見せることは、なんだかとても癪なので、私はそんなことなんでもないと言う風に、ふふんと鼻で笑った。


「そ。ま、なんかあったら言ってきなよ」


 まさか礼人からそんな頼りがいのある言葉が出るなんて……。

 驚きに固まった私を見て「や、俺もやるときはやるからね?ビシッと!」と鋭い目をするものだから、嬉しいやらおかしいやらで笑ってしまう。


「あ、だから今年の夏祭りは一緒に行けないかな。ごめんね?」

「はい、全然寂しくないです。美琴は知らないかもだけど、俺、そこそこモテるので」


 知ってるわ!で、すぐに振られるのも知ってるからね!?というツッコミ待ちだろうか?

 礼人のギャグ線はいまいちわかりづらい。


「それまでに別れたら今年も一緒に行こうねぇ」


 私が返答に迷っていると、礼人が不吉な言葉を放つ。やめて!言霊って知らないの?!


「やめてよ、やなこと言うの」

「ごめんごめん。言霊ってやつね」


 知ってるなら尚更言わないでほしかったわ、と礼人に忌々しげに視線を送ったけれど、当の本人はどこ吹く風である。

 夏の日差しを受けながら、礼人の黒髪がキラキラと輝いていた。



 礼人とは階段を挟んで反対側のクラスなので、「じゃあね」とお互いに手を振って別れた。

 教室に近づくにつれ、胸の鼓動が激しくなっていく。洗井くんに会うことがこんなに緊張するなんて、私は知らなかった。いったいどんな顔で挨拶をすればいいのだろう。

 私は亜美ちゃんと礼人に付き合ったと報告をしたけれど、洗井くんは誰かに言っただろうか?

 洗井くんはみんなに優しくて平等だ。友達も多いが、特定のグループには属していないようだった。なんとなく、洗井くんは誰にも言っていない気がする。

 となると、今まで通りにクラスメイトとして普通に接するのが一番いいかな、と気持ちを固めたときだった。

 「おはよ」と掠れた低い声が私の頭上から降ってきたのだ。反射的に後ろを振り返ると、やっぱり洗井くん。「ごめん、びっくりした?」と申し訳なさげに下げられた目尻が愛しい。

 

 洗井くんはとにかく顔が良すぎて、そこにばかり注目が集まるので、他の部位の魅力が伝わりにくいのだ、と私は思っている。

 低いハスキーボイスだって、長い足だって、節のない細長い指だって、意外と太い首や浮き出た男らしい鎖骨だって、きめ細やかな肌だって、全てが高いレベルで魅力的なのに。良すぎる顔のせいで目立たないのだ。さぞかし他の部位は悔しい思いをしていることだろうと、同情を禁じ得ない。

 ま、私だけが知っていればいいのだけど、とこれは独占欲。


「えへ、びっくりした。おはよ」


 照れ笑いを浮かべながら挨拶を返す。昨日までとは全く違う距離感に、私がハラハラしてしまう。


「あ、そうだ。夏休みに行きたいところ相談しような!俺、花火大会行きたいんだよ」


 洗井くんって、天然なのかな……?自分が周りからどう思われてるのかとか、考えてないのだろうか。というか、気づいてない……?

 全く隠す素振りを見せない甘い会話と近い距離に、教室がザワザワと騒ぎ出す。「え、付き合ってるの?」「うそ?明石さんと?」「やだぁ……」

 聞こえてる。クラスメイトの会話が否応なく私の耳には聞こえてくるのだけど、洗井くんは全く意に介していない。

 なんだか気にしている私が、洗井くんに対して失礼なことをしている気持ちになる。

 誰に気を使うでもなく、堂々としていたらいいか。私が向き合わなきゃいけないのは周りではなく、洗井くんなのだから。


「私も花火大会行きたい!浴衣着たい!」

「浴衣いいね!俺も着ようかな……」


 洗井くんの浴衣……なにそれ、鼻血もんじゃん……!私が想像だけで鼻血を出そうかというとき、教室の前側の扉から亜美ちゃんが入ってきた。私は洗井くんに断って、亜美ちゃんに近寄る。


「おはよ」

「!おはよ」


 私の突然の登場に驚きつつ、亜美ちゃんは満面の笑みを返してくれた。そして「おめでとう」と昨日送ってくれたメッセージと同じ言葉をかけてくれる。

 

「ありがと。昨日返信できなくてごめんね」


 と謝れば、「気にしないで!疲れて寝ちゃったのわかってるから」と、お手本のような答え。礼人、これだよ、これが人間力の差なのである。


「それより、夏休み楽しみだね。デートたくさんできるんじゃない?」


 亜美ちゃんが自分のことのように喜んでくれているのが伝わってきて、私はそれがとても嬉しかった。


「……うん!花火大会一緒に行こうって話してたんだ。あ、亜美ちゃんも私と遊んでね?」

「もちろんよ。私からもお願いするわ」


 大好きな友達に、大好きな彼氏。

 私の高校生活初めての夏が始まろうとしていた。



 洗井くんに彼女ができたらしい、という噂は瞬く間に広がり、改めて洗井くんの人気の高さを身をもって認識することとなった。


 「あの子が洗井くんの彼女だって」「どっち?」「あの綺麗な子じゃない方」「え、洗井くん趣味悪ぅ」

 他人のジャッジが容赦なく下される。亜美ちゃんは耳に入ってくる酷評に、はぁ、と深いため息を吐いた。


「ほんっとに我慢できないんだけど」


 あからさまな陰口にもう限界だと、発言した子たちを睨む。そんな亜美ちゃんを見て、美人の冷たい視線は様になるなぁ、と私は場違いなことを考えていた。

 そりゃ、可愛くないとか、地味とか、今まで面と向かって言われたことのない悪口を、知りもしない人から陰でこそこそ言われて、しかも聞こえるようにだ!、もちろん憤っている。もちろん腹を立てているのだが、まぁ、それだけなのだ。勝手に言ってろー、ってのが正直な気持ち。

 断っておくが、結局洗井くんが選んだのは私なんだから、という勝ち誇った気持ちもない。だって、洗井くんはたまたま、色々な偶然が重なった末に私にしただけだ。私は選ばれたのではない。まだ選んでもらう立場にいることは重々承知しているし、今私に負け惜しみを言っているあの子たちと私の差なんて、目に見えないほどの些細な物だと思っている。

 だからこそ、そんな身にもならないことをしている暇があるなら、もっと他にすることがあるだろ、という気持ちなのだ。


「亜美ちゃん、いいよいいよ。腹立てるのも時間の無駄だからさ」


 私は洗井くんに好きになってもらうために、いろいろと忙しいのだ。なんの生産性もないようなことに構っている暇はない。「もうすぐ夏休みだし、ほっとこ」とその子たちの存在を無視するように前を見据える。人の噂もなんとやら、だ。あ、それなら夏休みが終わってもまだ続くとこになるか……。やだな。ふぅ、と思わずため息が出る。


 「……美琴って、ほんと強くて前向きだよね。尊敬する」


 と言ってくれた亜美ちゃんの言葉で、ささくれだった心が元通りにまぁるくなるのだから、もうそれでいいのだ。

 私は心の底から夏休みを楽しむ所存である。

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