秘密の開示
4
Xデーである金曜日を迎え、私は心臓が口から出てきそうなほどの緊張というものを、身をもって感じていた。
二人でゴミ捨てに行った日、連絡先の個人登録をしていいか聞いた私に、洗井くんはとびきりの笑顔で快諾してくれた。夏の暑さを忘れさせるかのような爽やかな笑顔は、鮮明に私の脳裏に焼き付いている。
その夜、何度も文章を打ち直し、結局送ったのは『今度の金曜日に話したいことがあるから、部活が終わった後、牧野西公園に来てほしい』という可愛げも捻りもないシンプルなものだった。
しかし直球故に、この文章を送りつけられれば余程鈍い人以外は、告白だな、と気づくだろう。だから月曜日に送ってから、決戦の金曜日まで、もし洗井くんに変に避けられでもしたらどうしよう、と心配していた。しかし洗井くんは今までと少しも変わりなく私に接してくれた。
これはつまり、嫌に思っているわけではないが、全く意識もされていない、ということですね。悲しい。まぁ、そもそも洗井くんほどの人格者が、そんなあからさまな態度をとるはずがないのだけれど。
なんにせよ、洗井くんの今の気持ちはいいのだ。私は意識してもらうために告白をするのだから!告白がスタートなのだ。
▼
もうすぐ18時30分になろうかという時だった。洗井くんから『部活終わったよ。今から向かうね』というメッセージが届いた。
「いよいよだね」
私がそのメッセージを確認するや否や、言わずとも誰からのメッセージかを察した亜美ちゃんが、私に言葉をかけた。
その声色の硬さに思わず私の肩の力が抜ける。なんで亜美ちゃんまで緊張してるの?というか、
「亜美ちゃんの方が緊張してない?」
である。「そ、そうかな?」と言いながら笑顔を繕った亜美ちゃんだが、私の目はごまかせない。自分のことのように緊張してくれるなんて、本当に良い友達をもったなぁ、と感慨深く頷いた。
亜美ちゃんの気持ちは充分に伝わっているよ、という意味を持たせた視線を送れば、「なによ」と頬を赤らめた亜美ちゃん。普段クールな彼女が見せた年相応の少女のような表情は格別だった。みなさん、私の親友がとびきり可愛いです。
「そういや、今日の洗井くんいつもと雰囲気違ったよね?」
亜美ちゃんは思い出したようにそう言ったけど、私には全くわからなくて、「そうなの?」としか返せない。やはり幼馴染にしかわからないものがあるのだろうか?ふと礼人の顔を思い出したが、なんかイラッとしたので、ただちに洗井くんの笑顔で打ち消した。
「うーん。ま、普段から何考えてるのか分からないから、勘違いかもしれないけど」
何考えてるのか分からないなんて、まるで礼人が女の子に詰め寄られる際の典型的なセリフではないか。
「そうかなー?洗井くんって誠実!って感じじゃない?」
洗井くんと礼人が同じであってはたまらない、と即座に否定するが、亜美ちゃんは納得がいかないというように、顔を歪ませた。
亜美ちゃんの洗井くんに対する評価は割と、というかかなり低いのだ。それは私が「洗井くんのこと好きなの」と打ち明けた頃から変わらないので、きっと私たちが出会う前からの評価なのだろう。
「洗井くんみたいな難しい人には、美琴のような素直なタイプが合ってるかもね」と以前言われた言葉が蘇る。私は、洗井くんのことをよくわかっているであろう亜美ちゃんに言われたその言葉を、心の支えにしていたのだ。
そして、嫉妬もしている。亜美ちゃんには内緒だけど。私の知らない洗井くんを知っている亜美ちゃん。それがなんだか、たまらなくうらやましいのだ。
▼
そろそろ行ってくるね、と亜美ちゃんに告げて向かった公園は、狭く鬱蒼と草が生い茂っていた。遊具も錆び付いており、手入れが行き届いていないことが一目瞭然である。
交通量のそこそこ多い道路に面しているからだろうか、それともここに来るまでにあった大きな公園の方に人が集まるからだろうか。静まり返った公園の薄汚れたベンチに腰を下ろす気にはなれず、黄昏時の、夕焼けのオレンジと日没前の名残りの青色が混ざった空を見上げた。
ま、今から告白をしようというのだ。人が居ないに越したことはない。
私は誰かに聞こえてしまいそうなほどドキドキと拍動する心臓を、ぎゅっと押さえた。
告白なんて初めてだ。だけどやるしかない。何かを成し遂げるためには一歩踏み出すしかないのだ。
私が決意新たに深く息を吸った時だった。
「ごめん、お待たせ」
颯爽と現れた洗井くんの姿に息が止まる。校外で見る洗井くんの破壊力を侮っていた。陰鬱とした公園が一瞬でパラダイスに早変わり。私のために時間を割いてくれたこと、その事実だけで胸がいっぱいになる。
「来てくれてありがとう」と洗井くんに手を振り返しながら、一歩足を進めたその瞬間。生い茂った草に足を取られたのか、小石に躓いたのか、私は見事に、ずどんと音が立ちそうな程豪快に転けてしまった。
え?何が起こった?と情報処理が追いつかなかったのは、どうやら私だけであった。私が起きあがろうとするより早く、洗井くんが「大丈夫!?」と焦った声を出しながら駆け寄ってきてくれる。もう、消えたい……。なにも今日、なにも今、転けることはないではないか。
恥ずかしさを誤魔化そうと精一杯の笑顔を作り立ち上がる。
「えへへ、大丈夫!私、ほんとよく転ぶんだよねぇ」
制服についた汚れを手で払いながらそう言った私を見て、洗井くんは「あ、」と僅かに声を上げた。洗井くんの視線を追う。
「あ」
私も同じ反応をした。薄暗い中、よく目を凝らせば、そこには擦りむけて薄っすらと血が滲んだ膝小僧。恥ずかしさが勝っていたのだろう。指摘されるまで痛みなど感じなかったが、気づいてしまえばそこはジンジンとした鈍い痛みを訴えてくる。
「あはは、これくらい大丈夫」
無理に笑顔を作ってみせたが、どこに膝から血を流しながら告白する人がいるだろうか。私の怪我に気づいてから、俯いたまま反応を示さなくなった洗井くん。
もちろんこの告白で付き合えるだなんて思ってはいなかった。だけどこれはあんまりじゃなかろうか。意識してもらうどころか恋愛対象外になってしまったんじゃ……そこまで考えて、自然と涙が溢れ出しそうになる。
泣いちゃダメ。ここで泣いたら洗井くんに迷惑かけちゃう。私はその気持ちだけで、今にも溢れ落ちそうな涙を堰き止めた。
「ふぅ……ベンチ座った方がいいよ」
深く息を吐いた洗井くんが顔を上げ、私に笑顔を見せながら言う。最初は薄っすらと滲んでいただけの血が、今は一筋垂れ始めていた。たしかにこれは一度拭いた方が良さそうだ。
だけどそれより。「洗井くん大丈夫?具合悪い?」と心配してしまうほど、洗井くんの額には脂汗が滲んでいた。私より洗井くんの方が余程辛そうだ。洗井くんは「大丈夫」と言うが、全く大丈夫じゃないと思う。
私が戸惑っていると、再度「ベンチ、座って」と洗井くんが口にした。有無を言わせないほどの強い声に私は従うしかなく、ベンチに腰を下ろす。
今日は告白なんてしてる場合じゃなさそうだな、と洗井くんが纏う、張り詰めた空気を感じながら思った。
ウェットティッシュで血を拭こうと通学カバンを開けると、洗井くんが唐突に私の目の前に立った。なんだろ?近い距離に戸惑う。
「どうしたの?」
ウェットティッシュを握り締めたままそう聞くが、洗井くんは答える素振りを微塵も見せず、徐に地面に膝をついた。
え?え?理解が追いつかない私をよそに、洗井くんは「ごめん」とつぶやく。なに?何に対してのごめんなの?そんなとこに膝ついたら、土で制服汚れちゃうよ?
私はさらにパニックに陥った。もう膝の痛みなど遥か彼方である。
ゆっくりと首を傾けた洗井くんの、上下のバランスがとれた厚さの唇から、ちらりと赤い舌が覗く。あ、舌だ。
私がそれを認識した瞬間、その赤い舌がベロリと、躊躇うことなく私の膝を舐めたのだ。
人間、本当に驚くと声も出ないのだ。かちこちに身体が固まったまま、私は無心で洗井くんを見ていた。何度か舌が同じ動作を繰り返す。それは膝を舐めているというより、滲んだ血を舐めとっていると言った方が正しかった。
どれくらいそうしていたのだろう。きっと時間はそれほど経っていないはずだ。しかしいくら夏といえど、辺りは真っ暗になっていた。
徐々に暗くなっていった為か、周囲の暗さの割に洗井くんの表情はよく見えた。
恍惚。彼はひとしきり私の膝の血を舐めとった後、誰かに心を奪われたような、無我夢中で気持ちよさを感じているような、そんな表情を私に見せた。
それは今までに見たことのない洗井くんだった。私は、気持ち悪いとか怖いとか、そんなことじゃなくて。ただ、綺麗だと。恐ろしいほどに綺麗だと、そう思ったのだ。
▼
あの正気の沙汰とは思えない行為の後、急に我に返った洗井くんは「ごめん、ごめん」と私に謝り倒した。その姿が、さっきの洗井くんは一体なんだったんだ?と、私をより一層混乱の渦に陥れる。
放心状態の私を見て申し訳なく思い、洗井くんは決心したのだろうか。ふぅ、と深呼吸をしたあと、今まで秘密にしていたことを私に打ち明けてくれた。
なんの冗談なんだろう?というか、あの真面目な洗井くんからこんな冗談が出てくるだなんて……というのが、洗井くんの秘密を聞いた第一印象だった。
「って、信じられないよね。ごめん」
私の心を見透かすように、洗井くんが謝る。だけど、あの恍惚とした表情で血を舐める姿を思い返せば、なるほど、と納得してしまえる。
「うぅ。ちょっとキャパオーバーで……頭の中整理してもいい?」
私が頭を抱えながらそう言うと、洗井くんは「ほんと、ごめん……好きなだけ整理して」と申し訳なさそうに頭を下げた。
「って、時間大丈夫?もう遅いから、俺送るよ」
ベンチから腰を上げた洗井くんの言葉で、私の意識はやっと時間を気にするまでに覚醒する。さっきまでは夢の中にいるようで、ふわふわとしていたのだ。
「あ、ほんとだ……」
友達の家に遊びに行くね、と連絡を入れたとはいえ、親も心配しているだろう。あと、亜美ちゃんも。
スマホを取り出せば案の定、お母さんと亜美ちゃんからメッセージと電話がきていた。「ごめん、親に連絡だけしとく」と洗井くんに断りを入れ、素早くメッセージを打つ。
お母さんには『今から帰る』。亜美ちゃんには『告白できなかった』と、言える事実だけを送った。
洗井くんは、私がスマホを通学カバンにしまうところを見てから「明石さんて、増井中だよね?」と聞いてきた。
その質問に「うん」とだけ返す。私の通っていた中学は、洗井くんが通っていた中学校の隣の校区なのだ。
「じゃあ、こっちか。送ってくよ」
どうやら本当に家まで送って行ってくれるらしかった。2人で自転車を押しながら夏の夜道を歩く。数時間前の私からすれば夢のような光景なのに、今の私には考えることが多すぎて純粋に喜べないことが悔しい。
「今日、ごめんな、ほんと。結局明石さんの話も聞けなかったし……」
ぽつりと呟いた洗井くんの言葉で、そういえば告白できなかったなぁ、と気付く。
結局私が告白をするより、洗井くんとの距離が縮まった気がするので結果オーライなんだけれど。
「いいのいいの。それはまたの機会で」
「……うん。……あのさ、日曜日会わない?2人で」
ん?聞き間違いかな?信じられない言葉が聞こえたようで、「なんて?」と聞き返す。
「今度の日曜日、2人で会いたい」
やっぱり!やっぱりそう言ったよね!!私は被せ気味に「はい、よろこんで!」と返した。なんだか居酒屋みたいになってしまった。
「やっぱり明石さんて面白いよね」と洗井くんが楽しそうに笑うので、居酒屋みたいな返事も、今日聞いた洗井くんの秘密も、もういいや、と。洗井くんが幸せそうなら、私はそれでいいや、と思ったのだ。
それからは他愛のない話をした。期末考査の結果のこと、楽しみにしているテレビ番組のこと、最近ハマっているアーティストのこと、洗井くんのおすすめの小説に、私の大好きな漫画の話。
そして私の家が目と鼻の先という所で、「ここでいいよ。ありがとう」と立ち止まった。
洗井くんはまた「今日はほんとにごめん」と謝罪の言葉を口にする。
「もうごめんは、なしにしよう。本当に気にしないで」
私は、洗井くんの心の重りを少しでも取り払えたらいいな、と努めて明るく、そして優しく告げた。
洗井くんにも伝わったのだろうか。その言葉を聞いて「ありがとう」と微笑み返してくれる。
「あ、あと。今日聞いた話は誰にも言わないから、安心してね」
なんとなく洗井くんからは言いづらいかな、と思い、私から言えば、洗井くんは「助かる」と胸を撫で下ろした。
そんな安心しきった顔を見せられてしまえば、絶対に約束守るからね!と私は心の中で固く誓った。
洗井くんに手を振り、遠くなっていく背中を見届けてから家へ向かう。
帰宅時間が遅くなったことについてお母さんから少しのお小言を頂戴し、食卓に着いた。大好きなナポリタンだ。
晩ご飯を食べ終えると、お風呂と歯磨きを急いで済まし、ベッドに潜り込む。火照った身体にひんやりとしたブランケットが気持ち良い。
今日はすごい日だったなぁ……。そんなことを考えていると、ふいに私の血を舐めている洗井くんの顔が鮮やかに思い起こされ、私は顔を真っ赤に染め上げる。
普段の洗井くんからは想像もつかないほど、情熱的で、や、や、や、やらしかった……!!私は悶えてしまいそうなほどの羞恥を感じ、ベッドに顔を埋めた。ほんとなら叫んでしまいたいのだが、そこはグッと我慢だ。
それより、何よりも優先して、今日打ち明けられたことを真剣に考えた方がいいのだろうが、睡魔に襲われた今の私では到底無理だ。
とりあえず今日は、明後日の日曜日を楽しみに寝てしまおう。そう決心し、瞼を閉じた。
あ、亜美ちゃんに返信してないやぁ……。
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