裏庭日記/孤独のわけまえ

中田満帆

第3話 ポイント・ブランク



 福知山線に乗ってた。道場を過ぎたら桜が土手をつづき、斜向かいの女の子がふたりはしゃいだ。気分はわるくない。エレファントカシマシ「浮世の夢」を聴きながら、これからいく学校の、その正体について考えようとしてた。受験結果発表だ。受験の日はひどい雨で、片足を水でいっぱいの溝に突っ込んでしまった。きょうはいい天気だ。三田駅に着き、ふたりの女の子を追いながら歩いた。どっちも途中ではぐれてしまった。受験は合格だ。なんてこった。おれは答案をまともに埋めることもできなかったというのに。有馬高等学校定時課程への入学が決まった。おれとしてはどうでもよかった。公衆電話で母に伝えた。それから電車でもどった。鼻がむずむずする。花粉がいたるところに舞ってた。駅ビルのオアシスで何人もの、制服姿とすれちがった。どこにも友衣子はいなかった。祖父は姉の進学祝に2万をくれてやったが、夜学のおれにはなにもなしだ。ただ時計をくれた。そいつは随分あとになって売ってしまった。

 入学者説明会の日。おれはレコードを買った。サニーデイ・サービズ「24時」と椎名林檎「勝訴ストリップ」だ。入学説明会には遅れた。怒り顔の父が怒声をあげた。やつはいったいなにに怒ってるんだろう。怒っても、おれのものを毀してもおれ自身の魂しいを毀すことなんかできやしないのに。わざわざ自身の無能を見せつけてるだけじゃないのか。入学式でおれははじめてじぶんの中学の評判のわるさを知った。学生証の写真を撮りにいったとき、全日制のやつらがおれの出身校を訊いた。

   塩瀬あたりにいったほうがよかったんとちゃうん?

 もうひとりが来ていう。

    友だちできたんか?

   ああ、できたで。

 そのあと、かれらと出会うことはなかった。ほかにも女の子たちが山口をわるしざまにいうのが聞えた。おれはうすうす感づいてはいたが、それでも少しショックだった。そのあと体育館で同級生たちと顔を合わせた。おれのうしろには強面のヤンキーが3匹もいた。一瞬ここへ来たのを悔やんだ。訓示を聴き、それから写真を撮った別館に移った。みんながなまえを呼ばれる。おれが呼ばれとき、女の笑い声がした。小迫恵だった。不愉快なくそ女。

 おれは2日めに休んでしまった。父はおれの室で暴れた。そして正座させ、3時間も4時間も怒り、午前2時にようやく終わった。ちょうどラジオではエレファントカシマシのライブを放送してた。それがどうしても聴きたかった。録音したかった。でも、だめだった。おれは父の満足することばを、正解としてだすために6時間をかけた。おもいだしたくないことばでいっぱいになった頭を水で冷やした。くそ。翌日学校へいった。西宮名塩の阪急オアシスで、かの女の声を聞いた。

   ミツホ!

 友衣子だ。かの女は田中良和と連れ立ち、歩いてる。まるでカップルだ。似合いの雛人形みたいなふたりに妬心を憶え、怒りにふるえる。そしてかの女の笑顔がおれの胸に痛い。光り。あいかわらず落ちぶれてるおれ。かの女はおれがいまどうしてるか訊く。おれは答えた。そして逃げたくなった。かの女の輝きに耐えられない。まだ時間も早いというのにわかれた。切符を買って列車を待つ。おれは後悔した。もっとかの女について知ることもできたのに、田中のやろうに1発喰らわすことだって。でもおれはもどれなかった。暗転。

 学校はなにもかわりはなかった。柄のわるいやつと、そうでないやつがいた。ただ比率がわるいほうへかたむいてた。小学校と中学校がおなじだった小迫と前田というふたりの女と、中学が一緒で、試験でも一緒だった村雨は3人ともわるいほうだ。宮原というやつがよく声をかけて来た。おれたちは気があって話し始めた。そのいっぽうで不良たちとは仲がよくなかった。便所で照屋と近藤にからかわれたときだ。おれは「やめろよ!」といった。照屋は凄んだ。細長い躯に金色の鶏冠(とさか)が生えてる。   調子に乗んなよ。

 でぶの近藤といえば、「あのひとに謝れよ」ばっかりだ。ひとのことを気遣うまえにやることがあるだろうよ。少なくとも豚が豚を喰うのは感心しない、そうおれはおもった。──でも、しだいにやつらの仲間がおれを追いつめようとしてた。クラスでいちばんだとおもってた北甫由子は近藤に誘われて一緒に帰った。北甫はフリースクール出身の色白の女の子だ。妬心にかられ、家路に就く。阪西というでぶ公がおれに話しがあるといった。でも、あしたにするといって去る。どうやらでぶに縁があるようだ。太宰治「ろまん灯籠」を読みながら、ひとりきり電車に揺られた。

 翌る日の放課後、やつらの群れが出口を塞いでた。おれは洗剤の容器を片手にした。目潰しくらいにはなるかも知れない。廊下から校門を見る、色とりどりの猿どもがおれのことを狙ってる。勝てっこない。せっちんづめだ。おれは校庭にむかって窓をあけ、繁みのなかへ身を隠した。終列車がやって来るまで。



 宮原明とはじめて口を交わしたのは、かつが毀れたおれの眼鏡をいじってからだ。怖い顔してるといってやつは笑った。やつはバンドをやりたがってた。でも家にあるギターは親類の子供に毀されてしまったという。おれたちは音楽について話した。体育の時間、宮原におれは近藤が不良だといった。かれはそいつを告げ口した。とにかく下っ端と見做した相手からなにかをいわれるのがきらいなでぶなんだ。おれが夜の道を下校してるとき、やつはやってきた。小迫と一緒に歩いてる。かの女とは小学4年のころ、演劇部をやってた。

   おい、おまえ、おれのこと不良やいうてるそうやな!

 やつの強い口調に面喰らった。──だっておまえがそんなことばを遣うからだよ。

   なにひとりでびびっとんねん。

   照屋さんも怒らせてなぁ!

  あいつは関係ないだろう!

   あいつっていうたな、照屋さんに教えてやるからな!

   覚悟せぇや!

 ふたりが駅前の来るまでおれは追った。鉄板入りの鞄を持って。おれはでぶの近藤にちかよって震えた声でいった。おい、おれを嘗めるなよ。おれは照屋なんかに負けるか。虎の威を借る豚野郎!──おまえら全員、壁蝨(だに)どもを殺してやるからな!──あたり構わずわめいた。小迫は嗤った。それが悔しくてやつを鞄で撲った。その鞄には鉄板が仕込んである。

   おい、女の子にしていいことやないやろ!

  ああ、わるかったよ。

   ちゃんと謝れ!

  ごめんなさい。

 ずっと小迫は嗤ったままだった。後日、京都の養老院への訪問を控えてた。おれは色紙に「さっさと死んだほうが迷惑がかからない」と書いて問題になった。どうでもいいことだ。けれども長生きだけが取り柄の余剰精神には我慢ならないものがある。照屋がおれの胸ぐらを掴み、凄んだ。どいつもこいつもその手の漫画の読み過ぎだ。たったいちど「あいつ」と呼ばれただけで。大した沽券、見あげたまごころだ。

   おまえ、おれのことアイツっていうたそうやな!

  ええ、いいましたよ。

   なんやと、おい!

 やつはヤンキーよりも、広告看板に鞍替えしたほうがいいとおもった。よく目立つだろう。ピンク色のパンティを穿くがいい。よく似合うだろう。おれは頭をさげた。1回きり、軽く蹴られただけで終わった。見かけによらず、卸しやすい。それでも小迫はおれのことをぶちのめしてやると息巻き、近藤がいった、

   学校終わったらおまえ、大人しく来いよな?

  どれくらいかかる?

   車で迎えにいくから待っとけや。

 放課後になって、おれは近藤にふたりぶんの手紙を渡し、窓を飛び越え、校庭を突っ切った。端っこのフェンスはひくく、隣家に繋がってる。そいつを登って飛び降りた。やつらのだれひとり、追いつけない。そのいっぽう、小迫はおれの家へ電話した。バックにやくざがいるとわめき、おれが帰ってきたときには落ち着いたらしく、撲った落としまえをつけろといい、手紙の内容に突っ込んで来た。女は撲られてもの文句はいえないとか、やくざの情婦は人間ではないなどとおれは書いてる。そして最後に「金が欲しければ警察署にでも、裁判所にでもいけ」と書いてた。ひとを怒らせるのがおれの得意だ。電話口でがなり立て、ひたすら怒鳴る。小迫は冷静になったのに、おれだけが燃えてた。姉や妹がうれしがった。低能な女たち。明くる日、校門で近藤に出会した。やつはおれに謝り、さきを急ぐおれにむかって、

   待ってよ、ナカタくん。

 か弱い声でいう。チェックのシャツがなんとも不格好だ。やつの脂身がべったりと浮かぶ。でも、おれはやろうになにもいわなかった。ほかのヤンキーどもとおなじく、じぶんから辞めるのが眼に見える。やつはこれから動物農場にもどるのか、それとも屠殺場か。いっぽう眇(すがめ)の小迫は黙ったままで、照屋もなにもいわない。やつの取り巻きたちも。おれは、じぶんでじぶんの身を守った。ただそれ以外の撰択肢がなかっただけだ。

 おれは宮原に誘われて遊んだ。けれどゲームもプリクラもおもしろくない。金のむだだ。ひたすら余剰でしかない。少なくとも男同士でやることじゃない。こんなことを好くのはなにもない閑人だけだ。おれは閑人と友人になっただけなのか。野球部にも誘われたが、おれは頑なだった。スポーツなんてものは苦手だ。あるとき、体育の授業でおれはなにもしなかった。端で立ってるだけだ、幾度もからかわれて、しぶしぶ加わり、バスケット・ボールを追う。やがて綴木が笑いながらいった。

   なんや、できるんや。

 北甫が答える、

   やる気になったんとちゃうん?

 おれは怒ってなにもいえなくなっていしまった。くそ、あの淫売どもめ。かわいくおもい、気になりはじめた北甫にいわれるのは、もっといけすかない。悔しい。かの女は緑色の上着がよく似合ってた。情報処理の授業のとき、かの女のうつむき顔におれは惹かれてしまってた。色白で切れ長の眼に惚れた。もう救われる見込みはなかった。いずれは蔑みのなかで蜂の巣だ。おれは感情に蓋をした。夏になって小学校の創立記念式典があった。中邑夕子という6年時の転校生が司会役だ。色黒で、口さがない女。おれはレコード屋までいくために姉妹と車に乗った。かの女たちは式典で演奏することになってた。おれにはそんなもの空々しいだけだ。おれが「エレファントカシマシ5」を買って帰る。姉がいった。

   長谷さんが会いたいっていってた。

 会ってどうなることもない。おれが会いたいのは友衣子だけだ。深夜、ムーンライダースのシングル盤を聴いた。「Sweet bitter candy 秋~冬」だ。NHK FM の「ミュージック・スクエア」で知った曲だった。

そのころ、早生まれで、1歳下の北野拓郎とはよくふたりで帰った。かれはおかしなやつだった。みんなにきらわれるか、嗤われるかだ。いつも罐チューハイをまわし呑みしながら歩く。かれは自動車が好きだった。その手の雑誌をいつも学校に持って来てた。みんながうんざりするほど、車の魅力について喋る。あるとき、おれは漫才の台本を書き、かれに一緒に演じないかと誘った。そのせいでしばらくかれは休んでしまった。かれこそおれにとっての痴聖だ。かれは父親の仕事を手伝ってるらしい。名ばかりの体育祭にかれの姉が来てた。みな嘲笑った。

 幾度か、名塩駅でかつての同級生と出会した。でも友衣子とはいっさいなかった。かわりに中井が穢らわしく絡んできたり、槇田が鼻でおれを笑い、小寺という男が卑しい笑みを投げかけたり、小山と寺島がおれに気づかずに去ってったり、碌なやつらじゃなかった。あるときは坂本姉弟に遇い、父親の車に乗せてくれたこともあった。楽器を持った小川哲平と話し、セッションしようといったこともあった。でも、どうしたわけか、大抵はくそだ。



 午。起きると犬がいる。牝の子犬だ。おれはスメハチで撮った。フィルムはモノクロだ。学校から帰れば、やつがどっかでくそをしたと父がいた。いやに嬉しそうに燥いでた。おれは自部屋に篭った。おれには話もなく、犬を飼うのが信じられなかった。なんて仕打ちだ。おれの意見も存在もどうだっていいとわかった。おれは猫を欲しかった。子犬は近寄るたびにおれの手を噛んだ。それはそのたびにやつのけつを蹴り、うしろ足を踏んづけた。しだいにやつはおれに懐くようになった。おれはやつを自由にさせたかった。幾度もリードを外し、そとへ放してやった。こんなところにはいるべきではないのだ。おれもおまえも。どっかの映画で聴いた科白に、《犬好きは身勝手、猫好きは尽くす》というのがあった。おれは後者だった。犬の濡れた媚態がすごく卑しくおもえてならなかった。

 仕事はなかなかなかった。洋食屋を落とされ、給油所を落とされた。あとは面接にすらならなかった。自己アピールなんざおれにはできなかった。他人の靴を嘗めるみたいなことが赦せない。仕事は探せばある──そんな父の辞はいんちきだった。おれは大人でも子供でもないろくでなしだった。仕事をしろよと父はいう。それは砂漠で水脈を見つけるみたいなものにおもえた。やがて夏休みになった。またおれは下男として家の仕事に使われた。屋根裏部屋は完成した。つぎは離れの屋根を補修した。朝から夜更けまでやり通しだった。こんなのはおかしかった。おれだけが家の仕事で、みんな楽をしてる。成績がいい?──そんなの関係ない。室内を片づけ、今度は裏庭の間伐をやった。なんでもありだった。父のおもうところ、仕事は無限にある。夏のあいだじゅうずっと父の休日大工につきあわされた。母屋の瓦をはがした。父は屋根裏を半分解体し、そこに室をつくるつもりだ。ばかげてる。叔父が手伝いにきた。瓦をはがき、土を払い、タール紙を大型ホッチキスで留める。そして木枠をならべ、そのうえにスレート瓦を差し込んでいく。その色はばらばらで不愉快に明るい。愉快なことはなにもない。8月の暑さ、空調もない屋根裏、真夏の光りのなかでどうにもできなくなった。おれは倒れ込んだ。父も相当参ってる。けれどもやつは怒鳴りちらし、おれを椅子に坐らせると、肩まである、おれの長い髪をめちゃくちゃに切り落としてしまった。もはや、なにもかもに無力で抵抗すらできない。黙ったまま頭髪が無作法になっていくのを眺めた。もうどうしようもない。こんなことが赦されるんだ、この世界じゃ。やがて母が帰って来た。おれを見ていった。

   どうしたの?

 興味のない、まったく平素な声だ。気分がわるくなって自部屋に籠もる。The pop groupが叫んでた。Don't call me pain! pain! pain! pain! Don't call me pain!──新学期がはじまるまえにおれは髪をきちんと切った。床屋のやつらが笑った。当然。黒縁眼鏡をかけた。タワーレコードでエレファントカシマシ「奴隷天国」と、eastern youth「雲射抜ケ声」を買った。シャツも明るい赤や緑にした。みんな注目した。わるくないようだった。女の子たちが褒めてくれた。いい気分だ。まえの髪型も女の子みたいで可愛かったのに──と綴木がいう。いったい、どんな美意識でそいつをいってるんだ?──当惑を憶えた。ただおれは以前、はじぶんで髪を切ってただけだ。まるきりおかっぱだったけど。散髪代を親に頼むのがいやだった。

 町田康や、車谷長吉を読みながら授業を受けた。あるいは坂口安吾を読みながら受けた。おれは数字が苦手でたやすい四則計算すらできず、幾度も恥ずかしいおもいをした。若い女の数学教師はおれを心配してたらしい。からかわれもした。西内という年上のヤンキーくずれが笑った、

   近くの小学校にいったらええ。 

 放課後、綴木がいった。

   ナカタくん、ユウコを送ってやって!

 でも北甫は坂を颯爽と降ってる。自転車でだ。かの女はあっというまに見えなくなった。追いかけることもできない。宮原がおれのあとを着いてくる。正直、もう、やつが鬱陶しくてならない。

   きょう、いやなことがあったんやろ?

 そう執拗に問う。答えは否だ。本心からそんなものはなかった。さっきだって由子と話せそうだったんだ。それでもやつは喰い下がる。おれは一瞬左眼でやつを見た。

   おれのこと、睨んだやろう!

 やつは激昂し、おれの胸倉を掴んだ。「見まちがえだろ」──おれはいった。やつはおれの背嚢を掴み、あくまで責めにかかる。いったいどういうつもりなんだ。おれは背嚢をそのままやつの手に任せ、帰途に就いた。相手にしてられなかった。胸や首はやつの指で傷だらけになった。翌日、学校から電話があった。リュックは職員室にあるという。おれが登校したとき、宮原はすでにいた。

  しばらく距離を取ろう。

 そういったのはおれだった。男女のなかでもないくせにだ。おれは見当ちがいところで暴力に走るやつにはうんざりだった。やつは挨拶だけでもしようといったけど、おれは次第にそれすらしなくなってった。放課後の掃除、宮原は坂西に怒ってた。なにがあったのかはわからない。からまれたらしい。帰り道、おれはいった。

  触らぬ神に祟りなしだ。

 宮原はその辞に感動したといった。おれとしてはただのでまかせでしかない。なぜそんな眼に遭うのかは当人にもわからないといった。やがて宮原は白石や阪西からいやがらせをうけてるといった。かれはなにか道具を使って脅しを受けてるらしい。白石はおなじ中学出身の不良だ。やつをどうおもうかっておれに訊いた。近藤の時をおもっておれは本音をいわなかった。   きらいではない。

 やつはおれからレコードを借りた。10枚もだ。特にくるりが好きらしい。それから雨の夜だった。やつは白石に挑みかかった。傘でやろうを滅多打ちにした。おれは廊下を決して覘かなかった。おれがやつを庇ってやらなかったのが原因だってわかってるからだ。不良たちが色めいた。照屋がいった、

   ナカタくん、やつの住所知ってるか?

  いいえ、忘れました。

   忘れた?

 それでおれたちはそれきりだ。やつは退学した。おれは金のために父の仕事を手伝った。かつて父が働いてた尼崎の金属加工工場で清掃夫をした。おれはギターを買った。青いサンバーストのストラト風だ。「ライブキング」という中国製。母のガットギターよりもはるかに握りやすかった。フェンダー・アンプも手に入れた。宮原に電話をかけた。やつは怒ってて、ひどく罵倒された。

  貸したもの返してくれよ。

   なんやねん、いまさら!

  落ち着けよ。

  たしかにおれがわるかったよ。

   おまえ、きもいねん!

   電話かけてくんな!

 当然だ。おれはやつを見棄てたんだ。けっきょく貸したレコードは返ってこなかったし、やつの両親はそんなものはどこにもないといった。みんな棄てられたんだろう。学校にはやつの両親から苦情来た。父はでるトコでたらええといった。でもおれはそんなことしなかった。おれは「奴隷天国」を聴いたあと、酒をしこたま呑んで、夜の道を歩いた。そしてまず嘉村大介の家でおだを挙げた。やつを罵り、おれは音楽をやってるんだとわめいた。つぎに上村透の家の玄関でくだを巻いた。

  おれは三島由紀夫を読んだんだ、

  永井荷風を読んだんだよ!

  おれはかつてのようにばかじゃない!

 やつはいった。

   おれの高校の先生がいうとったわ、

   しょうもない大学いくくらいなら短大いったほうがましやとな。

 帰り際、「これから自殺する!」と叫んだ。それから寺内の家にいった。呼び鈴を鳴らしてもだれもでない。竹村の家を探した。みつからずに雨が降ってるなかを闇雲に歩いて帰った。次の日はひどい宿酔いと頭痛だけが残った。ひどい頭痛、父の車で三田へいった。本屋で「Rockin'on」を買った。帰りは雨だ。おれは駅から歩いてた。途上、ワンカップを買って呑みながら道路工事に出会した。作業員がいった、──あの車、女の子乗せたまま行きよった!──なにが起ったかはわからない。ただ酔いながら雨を浴びてた。



 授業中、ヤンキーどもがうるさい。けれどもかれらの個体数は時間とともに減ってった。生態学を学ぶのなら打って付けのマルタかも知れない。小迫なんか呵られ、「いま歌詞書いとんねん!──邪魔すんな!」とわめいた。あんなくそばかがいったいどんな詞を書いてどんな音楽に合わせる気なんだ?

 あるとき隣の永易黎(れい)がいった、「おまえ、耳のかたちがええな。ピアスせぇへんか?」──断った。そのころのおれの習慣といえば、授業のあとに黒板をきれいに拭くことだった。どういうわけか、そんなことをはじめ、放課後の掃除まで頼まれるようになった。さすがにそいつはいやだった。綴木に頼まれてもおれは断った。どうしようもなく気まぐれで、いい加減なやつに見えただろう。



 あるとき、おれは寺内の家のそばを通って駅まで歩いた。なにげなく裏庭を覘く。わずかに開けられた窓と立てかけられた角材が見えた。どうやら業者が出入りできるように工夫したらしい。そしてどうやらもう、かの女たちは棲んでないらしい。その夜、おれは忍び込んだ。からっぽの室を抜け、階をあがる。右手にいけばかつてのかの女の室だ。昔しのかの女をおもいだす。素敵な洋服を着て歩きまわる、かの女の姿を。そこに立ってしばらくおれは眺めた。ただそれだけだ。



 年の瀬になって由子は髪を汚い、安っぽい茶色に染め、ばかっぽい赤いパーカーを着て、教室に入った。そしてヤンキー女と親しくなったようで、声をあげて、笑っていた。おれはぞっとしてしまった。かの女があんなになるなんでとおもった。じぶんの恋人でも、家族でもないくせに、かの女のその行為がおれをつよく苛んだ。かの女はフィリースクールの出身だったし、いじめもあったかも知れない。もしかすると、かの女は似合いもしないことをやって過古にむかって牙をむいてるのかも知れない。そうもおもった、でも、耐えられないひずみが自身のなかに取り残されたパズルみたいに、わだかまって、漂ってる。かの女はじぶんの好さがわからないのかも知れない。かの女を感化したらしい、ヤンキー連中を心底憾んだりもした。かの女を変えてしまったものを自分勝手に呪わしくおもい、そして沈黙した。

 ぎりぎりの成績で2年めにあがった。小迫も前田も村雨も退学してた。小迫はまだ保ったほうだけど、前田美香は1学期の初めで停学を喰らって辞めてた。集団で喫煙してるところを押さえられたらしい。かの女はおれをひどくきらってる。母はかの女がひとりグリーンハイツから麓へ歩いていくのを見たといった。それに退学もかの女の母親から聞いたともいった。どうでもいいことだ。やがてみんながやる気をだし、授業は難しくなってった。吉本と飯尾と木長という編入生が入って来た。みな年上だった。いちばん若い木長という女も1年上だった。あとのやつらは少なくとも5年喰らってた。おれはかれらと仲良くやろうとした。でもなかなか、できなかった。あるとき、永易がやって来た。

   おまえ、ギターでやってるってほんまか?

 どこで知ったのか、やつは知ってた。情報処理の山田経由だろう。授業中にそんな話をしたんだ。

   一緒に同好会にいかへんか?

 おれはいくことになった。年長の男と、年下の女がいた。やつらはすぐに消えた。帽子のなかのゴキブリみたいに。その夜、おれとやつは「古賀ちゃん」という居酒屋で呑み、やつの室に泊まった。やつの母親がいうには永易も詩や小説を書くらしかった。おれはかの女に駅まで送ってもらった。

 夏になって棚卸しの仕事を母が見つけてきた。釣具屋「フィッシュ・オン」。店子の出入りが激しい場所だ。おれはいちばんめの妹と一緒にいった。どっかで見たことのある顔があった。松本美枝と郷家麻衣だった。休憩の時間になってようやく郷家と話をした。おれはギターをやってるとか、レコードを買う予定だとかいった。

   来年も来る?

 かの女は去年緊張のあまり寝込んで、この仕事に来られなかったと聞いてた。おれはといえば日にちをまちがえたうえに寝坊した。──ああ、金が要るからな。──気どった調子でおれはいう。賃金は現金払いだ。6千と半分。帰り道、生協のスーパーへいった。酎ハイの罐を手にとる。そのとき、近所の主婦がおれを見た。驚いた顔でこっちを見る。おれは弁解しようと慌ててかの女を追った。けっきょくやめて酒を買った。残りの金で bloodthirsty butchers の "yamane" に Number girlの "SAPPUKEI" を買った。おれはたびたび学校を休むようになり、大阪のレコード屋をまわった。当時、「食えない、やっていけない」と音楽雑誌でぼやいてたキングブラザーズの音楽に惚れた。まず赤盤を買い、つぎに星盤、そしてバルブ盤を買った。おれの気分にぴったしだった。知らないあいだにおれは由子が好きになってた。かの女の甘えるみたいな仕草がたまらなかった。でもかの女は10歳もうえの男とつき合ってるといってた。まわりが子供に見えるとも。放課後、永易とギターを弾きながら、かの女をおもった。おれは孤立してる。だれにも話かけられないし、冗談もいえなかった。というわけでトリスを買って学校にいった。呑みながら授業を受ける。鬱積したものを晴らそうと何度も酒を呑んで授業にでた。まわりのやつらは笑った。30まぢかの中澤という女が驚きの声をあげる。──そんなつよいの呑めるの!

   おい、酒臭えぞ!

    すごい臭いやな。

 そこへ担任の濱崎が入ってきた。──ナカタ、こっち来い!──見つかって停学になった。自習室でひとり反省文を書いてると綴木と北甫と西谷が入ってきた。綴木がいった──字、きれいやな。──北甫が微笑んだ、

   もうわるいことしたらあかんで。

 木長というあばずれはすぐに辞めた。おれと永易と白石でよくつるんだ。でも実際には道化役として、あるいは金蔓として招かれただけだった。ある晩、みなで酒とサラダを買って永易の家にいった。酒を呑んだ。テレビを観ながら好きな女優をいいあった。やつの父親がテキーラをだしてきた。おれは呑んだ。やつの室で白石がリキュールをおれの口に突っ込んだ。そしておれの陰茎を触る、皮カムリだとわめく。おれは三上寛の「ひびけ! 電気釜」をがなる。《風呂屋の婆のせんずりだ!》。気がつくと倒れ、口から泡を吹いてた。便所にむかって階を降りる。みつけられなかった。物置に迷い込み、そこで失禁してしまった。ようやくそこをでて、風呂場へ走った。シャワーを浴びて正気になろうとした。おれはなんてことをしちまったんだ!──翌日はスウェットを借りて授業にでた。どうしてもでろとやつはうるさかった。あたまが痛み、からだが震える。

 あとになって菓子折をやつの母へ渡した。リビングでは弟が炬燵で眠ってた。かれは出席日数が足りず、中学を留年することになってるらしい。中学を留年だって?──そんなことがあるのか?──母親に訊いた。

   制度が変わったのよ。

 はじめてライブハウスにいった。雨のなか、神戸チキンジョージへ。エレファントカシマシとハリーの共演だ。遅れてしまった。ちょうど「俺の道」が終わるところだ。新曲はおれの耳に馴染まなかった。とくに「ラスト・ゲーム」のリフを聴いて、なんて不似合いな曲をやってるんだとさえおもった。それでもアルバムを聴いてるうちに慣れた。その頃、西山奈津という旭川の14歳と文通をはじめた。かの女はインディー・ロックが好きで、学校ではマンドリンをやってるといった。でもたった半年でかの女のほうから音信が途絶えてしまった。おれにはまだなにもかもが早すぎたんだ。対話なんざできちゃなかった。はじめて輸入盤を買った。Cursiveとeastern youthのスプリットだ。日本とちがいテープで封がされててはがしずらかった。そのあとfugaziの"Red Medicine"やThe good lifeの"Black out"をずっと聴いてた。おれは学校にいかなくなった。学祭もどきの催しで、羞ずかしいめをやらかしてしまったからだ。緊張して歌も唄えず、ギターもろくに弾けなかった。下級生どもが笑った。だから休むようになった。おれは学校を辞めると担任にいった。

   いちど社会にでてじぶんを試したい。

 担任は感心したみたいで、それがいいといった。おれも湧きでる勇気を感じながら帰った。帰って来ると父は怒り、姉が室に入って来た。高校だけは卒業してといった。そしておれの本棚を眺め、安吾の「白痴」を見つけ、授業で安吾をやってるという。「日本文化私観」だ。おれはそいつを要約してみせた。姉がうなずく。かの女とわかり合えたのはこのときだけだ。秋の午后、父はおれをカブに乗せ、名塩まで送った。

   勉強しろ。

 おれはいった、

  おれ、ばかだから。

 苦々しいおもいで三田にいき、坂を上った。途上、ジュースをいっぽんくすねた。丘に登って市街を一望する。なにものかの寵を喪うのが怖い。棲む場所を探そうとおもい、鈍行列車で京都の深草までいった。ちょうど国語の授業が最后通告だった。急いでもどった。授業に間に合わなかった。落第だ。でもどうしてか、おもった。点数をあげればなんとかなるかも知れない。それからは放課後、ねばった。補習を受けまくった。数学は55点まであがった。ほかの科目もましにはなった。教師たちは「やつをなんとかできないか」──そう考えはじめた。でも最后の試験に近づくほど、むずかしく、むなしくなった。居残りもやめ、帰るようになった。数学の御膳がおれを追いかけて来た。

   落第決まってきついンはわかる、

   でもあきらめんと最期までやろうや!

 でもおれは帰った。時間はみるみる失われた。そして試験、数学は45までさがった。なにをやってもだめなんだ。保健のテストでおれはわざと回答を書かなかった。あるいは書いたところを消した。ほかの教科もなげやりだ。翌る日、保健体育の濱崎は失望を露わにして迫った。

   どうしてあんなことをしたんや。

   おまえをなんとかしてやりたい、

   先生らはそうおもってたんやぞ。

 ほんとうにそうなのかも知れない。でも、なにをやってくれたというのか。いまもってわからないままだ。喪失。濱崎は転任してった。恥ずかしいおもいのなか、つぎの年度を待ち、落第の顛末を「京都旅行記」という短篇にした。なにもかもがやりきれないなかで始まり、終わる、そしてふたたび始まる。



 いちど落ちてしまったら、そいつを受け入れるしかない。学校はあたらしく3年制を導入し、下級生のほとんどそれだった。おれは天神の丘をのぼる。ミニ・バイクが追い越す。うしろには北甫が乗ってる。おれが廊下までたどり着くと、かの女がおれに笑いかける。──ナカタくん、おはよう、さっき歩いてたね。どうしようもなく恥ずかしい。でもそいつを隠してあくまでポーカーフェイスに徹した。それしかできない。やがて父のしつこい命令で原付の免許をとった。それまでの2年、家から駅を、麓から丘を1時間と半分かけて通ってた。免許を取ってわずか半月、事故を起した。176号を西宮北から三田へむかって走ってるとき、おれはべつのことを考えてた。眼は路上の中古車ディーラーやカップルに注がれ、左折のために減速した、白い冷蔵庫(ワンボツクスカー)へと追突した。あたまを窓に打ちつけて倒れ、カップルが警察を呼ぶ。冷蔵庫から女が降りて来る。驚いても怒ってもない。みじかい検分のあと、連絡先を交換して学校へいった。父は激しく怒った。ぶつかったことにも、速度をだしすぎたことにも。ちょっとまえには「多少の速度超過はいい」といったくせに。夜、長い叱責のあいだ、気分がわるくなった。ひどい嘔き気が襲った。診療所へいくはめになった。

 そのあとも数回、事故をやらかした。近所のせまい丁字路でセダンとぶつかって、その屋根を転げ落ちたり──無傷だった、山道のカーブでかぜに煽られて倒れたり──多くの血を流し、カブを再起不能にした。これらすべてのとき、まったくべつのことを考えてた。でも運転に慣れればこっちのものだった。週末、いつも図書館へいった。あるいはひと気のないところで陸を引いて眠った。早朝、父から逃れるために。それでも時折、先回りした父によって苦役へとかりだされた。いつだったか、飯尾がおれをあざ笑った。おれはやつの職場と知らずに面接にいった。やつが不意に現れた。

   こいつ、もと同級生ですねん。

   こいつ、落第したんですわ。

 にたにたと嬉しそうな笑みを浮かべてた。このやろうは赦せない。けれどもおれにできたのはフェンスに放尿することだけだ。けっきょく仕事のほうも新三田にいって欲しいといわれ、断った。あまりに遠すぎる。それから半年后の11月、永易の誘いで三田郵便局の配達夫になって過ごした。莨を吸い、焼酎を呑んだ。最初の給与支払いのとき、宮原を見つけた。明細をもらう列にやつもいたんだ。おれたちは眼を合わせた。たったそれだけだ。おれは最悪の局員で、配達は遅く、まちがいも多い。ロッカーの鍵を失くしたせいで頻繁に水を私服にかけられた。退勤したのに、時間内にさぼってると密告されたこともあった。卑怯者が多すぎた。おれは辞めた。ネットに詩を投稿し、なんとか人生を変えようと藻掻いた。

 あいもかわらず、数学の授業では失態を繰り返した。たかが90分の6がわからない。当てられて狼狽する。赤面する。ノートでは84+6が92になってる。うっかりそのようなことを書いたからだ。6ではわれないと考えた。御膳に詰問される。以前におれの計算の遅さを相談し、しばらくほっておいてもらうように頼んだはずだったけど、だめだった。執拗に答えを求められ、パニックになる。しまいにおれは「じぶんは遅いから、ほかのやつにやらせればいい」などと情けなくもいった。それでも御膳はなおも追いつめて約分を求める。全世界がおれを見てる。汗が滴る。15が答えだった。あとでノートを見て、さらに羞ぢた。

 落第したあと、さらに落第した北野拓朗が年下のわるがきどもに虐められてた。おれはなるべくやつらから守った。でもかれは来なくなった。むりもなかった。おれは18になり、まだ詞を書いてた。曲はまったくできなかった。16のとき、多重録音や環境音によってつくった、ミュージック・コンクレートがただひとつの作品だった。ギターはまるで巧くならない。おれは歌詞としても、詩としても通用するものが書きたかった。書いたものを匿名掲示板や作詞サイトへ投げつづけた。いくつか同年代のやつらと知り合った。おれは19になった。いつだったかはわからない、けれど、はじめて詩を書いた。「ぼくの雑記帖」。みじかい詩だ。それから次第に詩の世界へと深く入ってった。そして歌詞はやめた。音楽への夢も遠ざかる。ドラムを手に入れるもヘッドを買い替える金もない。売ってくださいと岡村っていうクラスメイトにしつこくいわれた。いまおもえば売ってしまうんだった。いっぽう、おれが学校を辞めるという噂がどういったわけかでた。西内がおれをえらく心配して「辞めるなよ」といった。なぜかれがそこまでしたのか、まったくわからない。生活体験発表で由子が壇上に立った。でもおれはそいつを見逃してしまった。心底悔やんだ。そのあとかの女と丘をのぼりながらいった。

  作文、読ませて欲しいな。

   だめ。

  聴きたかったよ、北甫さんの朗読。

   だめやって、ぜったいに読ませへん。

 そうかの女はかぶりをふって笑う。あいかわらずかわいい。その春、映画「書を捨てよ町へ出よう」をはじめて観た。中学生のころ、国語便覧に載ってたかれの顔が脳裡に残ってる。おれは寺山修司に惹かれ、かれの作品を読む。ほかの詩人じゃ、草野心平と田村隆一とギンズバーグ、それから藤森安和が好きだった。映画について調べるなか、劇中歌「母捨記」には原詩があり、作者の森忠明を知った。かれの高校時代の作品らしい。詩集はでてるか?──でてる。原詩は、その詩集に収まってるのもわかった。夏になって本屋に問い合わせた。けっきょく出版社に在庫はなかった。作者に直接、電話してくれということだ。値のするものだったし、すぐには電話しなかった。そのまま日々は過ぎ、やがて脳裏から薄れてった。




 匿名掲示板に大阪での朗読会が告知されてた。おれはさっそく参加を申し出、パンフレットとポスターのデザインも引き受けた。大学生と社会人にまじって、はじめて舞台に立った。場所はフェスティバル・ゲートの「ココルーム」。すぐそこはどや街。まずは片平誠の詩集から1篇、それから「ぼくの雑記帖」を読んだ。緊張でかすれた声は小さく、早口になってしまう。なんとか立て直そうとする。客はみな真顔だ。なにを考えてるのか、わからない。当然。──負けた気分だった。終わって一息入れる。共演者のひとりが、自作の詩がよかったといってくれた。その朗読会には文藝投稿サイトで知り合った、荒木田義人も来てる。おれはかれのまえで日本酒を呷った。かれは笑った。

   呑めるんやぁ。

 ふだんは化学教師をしてるというかれは、朗読会の主宰人とおれとでなにかしようといった。3人のうち、ふたりは三田市に棲んでるのがわかった。会が終わって打ち上げをした。酒を呑んだあと、カラオケを朝までやった。そして喫茶店へ。もうくたびれてた。みんな元気だった。おれは早退した。冬。荒木田さんに呼ばれ、おれは酒場にいった。三田のジャズバー「♪」。内装はひどいものだ。どっかで印刷したらしい、ブロックノイズまるだしの画像がいたるところに貼られ、壁は木目の合成樹脂パネル。おれはバーのまえでなんどもためらってから入った。そんなところに入るのはまったくのはじめて。幾度か、話し合いした。神戸での朗読会に参加することになった。朗読ではなく、パンフレットのデザインと、演奏にかぶせる音楽のために。安いソフトと音声加工の無料ソフトを使い、4つの曲を書いた。音楽の基礎もなってなかった。それでもいいものが偶然できて、かれに渡した。ディジュリドゥ奏者、ピアノ奏者、ギター奏者が加わることになった。ほかの出演にもそれぞれ音楽がつき、琵琶法師や、ロックバンドや、打ち込みの人間が参加。大阪での主宰人、古溝真一郎、楠木菊花、そのほか2人。場所は三宮センター街、靴屋トピックの角を曲がってすぐの、地下だ。なにもかもかが終わったあと、みんな酒を呑み、ピアノ奏者の白石さんの家に招かれた。ワインを呑む。──気分がわるい。──便所にいってぜんぶ吐いた。ひどい悪酔い。けっきょくうごけなくなって泊めてもらった。あしたは誓文祭だ。ピアニストとその妻、その息子。おれのことがたびたび話にでる。パンフレットのことや、音楽のこと。かれらも'60年代の文化が好きらしい。昼になってようやくからだを起した。鉛の塊。きれいな奥さんと子供、そしておれとで町へでた。車で。ダッシュボードには内田百閒の文庫があった。

  ぼくも好きなんですよ。

  とくに「東京日記」が。

 でもエッセイはあまりおもいしろくありませんね。

   エッセイもおもしろいよ。

 かの女と銭湯に生き、軽食もとった。でもスープを呑むのが精一杯だ。夕方になって三田に着く。本通りにある喫茶店で、荒木田さんと合流した。白石さんも、祭りに出演してるという。おれはじぶんの不明を詫び、甘酒を買って電車に乗り込んだ。それから月にいちど、酒場で朗読した。荒木田さんはいつも吉竹というギター弾きと一緒にマイクに立つ。おれにも仲間がいたらなあとおもった。でも、けっきょくはじぶんでなにもかもしなければならなかった。詩も音楽も演出もぜんぶ自身でやるしかなかった。ひとと一緒になってなにかを成したことなんか1度だってない。おれはいつも、どこでもひとりだった。

 ある晩、三田ボウルの地階の故買屋で、おれはベン・フォールズ・ファイヴのアルバムを見てた。中古にしてはえらく高価い。ほとんど定価だ。そのとき、かの女が声をかけてきた。

   なにしてんの?

 由子だった。年長の男と一緒だ。わるくいえば男たらしともいえた。男がどうすれば喜ぶかを知ってる。でも、おれには大事な存在におもえた。ずいぶん長く話せた。

   仕事なら紹介してあげるよ、

   いつでもいって。

 おれはなるべく平静に見えるよう話した。内心はびくついてた。あこがれの子だ。しばらくしてある夜、中澤という年長の女をふくめ、みんなで飯を喰いにいった。焼肉屋だ。5人でいった。おれ、永易、白石、中澤、綴木。おれはチェーンの緩んだカブに乗り、あとは中澤さんの車に乗った。永易は、おれが失禁したのをかの女に暴く。中澤さんはまさかという顔をした。永易がつづけた。

   おまえから借りたレコードなあ、あれ全然理解できん!──「解体的交感」のことだ。

  おれにもできん!

   おまえの趣味、マニアックすぎるねん!

 そのあとも永易の提案でおれたちは天神公園で呑むことになった。酒を買い、みんなで集まった。おれは焼酎を買ってった。さんざ呑んだあと、おれは向井たちと音楽の話をしてた。向井はおなじ齢で2度も落第してた。やつはメロコア好きで、おれはきらいだった。あまりにガキ臭い。やつはXのドラムを賞賛した。おれはけなした。あんなものは派手なだけだと。酒の力でなんでもいえた。帰りにひどく酔った、上林とかいう女がいった、──ナカタくん、柳川さんのこと好きなんやろ?──上林はかの女の親友だった。齢はおれとおなじだ。永易や白石たちもおれが柳川という子が好きだとおもってた。かの女はおれの配達区内に棲み、落第してから、はじめて声をかけた女の子だった。でもそれだって白石に「消しゴム借りてくれ」といわれたからだ。──柳川さん、消しゴム貸してくれない?──でも生憎、興味がない。おれは上林に否定した。かの女は曖昧に肯く。おれは気まずくなって矛先を変えた。永易が気に入ってる、生野さんについてだ。かの女はもうずっと学校に来なくなってた。

  どうしてるんだろう、あの子。

   まあ、修学旅行のことで悩んでるらしいし。

 とにかく、おれたちはよく呑んだ。ほかにも焼き鳥屋にいった。その帰りに向井を乗せて家に帰った。やつはおれの室を永易のに似てるという。ふたりで夜通し、音楽について話した。セックス・ピストルズのライブ盤を聴いた。それからやつが壁にへたな詩を書く。朝になって名塩駅まで送る。名塩にはやつの女友だちがいるという。

 ナンパしようぜとおれはいって、やつが笑った。──女つかまえて、おれだけ帰るんかい!──やつが卒業できたかどうか、おれは知らない。やつにはポルノ・ビデオを貸したままだ。川島和津実と堤さやか。おれは室に帰って夕方まで眠った。他人を室に入れるのは中学校1年以来だった。



 修学旅行は熱海と千葉と東京だ。旅行のまえ、由子がおれにねだる。かの女にせがまれてとにかく嬉しかった。小躍りしたいくらいに。

   ナカタくん、

   ぬいぐるみ買ってきてよ。

 行き先にはディズニーランドもあった。新大阪の駅、おれはババンガの「旅人でない人が居るのでしょうか」を聴きながら、ほかの連中を待った。やがてぞろぞろと通路をむかって来る。新幹線ははじめてだった。名古屋で途中下車、おれはタワーレコードで時間を潰した。それから熱海で1泊、あたりを写真に収める。次に千葉で1泊、最期に東京で自由行動だ。おれはディズニーランドなんかきらいだった。食事券を渡され、あたりをうろつく。昼餉にいったものの、まともな料理はなく、午に白身魚のフライと米を頼んだ。そいつを喰って胸焼けし、屋内の湖を臨む喫茶店でアイス・ドリンクを呑むと、時間をかけて土産物を撰んだ。姉と妹たち、そして由子。かの女には眠り顔の、熊のぬいぐるみを買った。値段が張ったけど、とても似合いにおもえたからだ。それが終わると、さっさとホテルへ退けた。パレードにはいかなかった。テレビでは「にほんごで遊ぼ」っていうおかしな番組がやってる。やがて同級生たちが帰ってきた。おれは地階にいって酒と握り飯を買った。

   ナカタさん、見つからんようにしてくださいよ。

 岡村というドラマー志望のやつが窘めるようにいう。けれどもかれらだって隠れて莨をやってた。灰皿がないから洗面台の水で火を消してる。おたがいさまというわけだ。罐ビールをあけ、小林旭を聴く。あしたは東京だ。そうおもうと胸のなかが昂ぶった。翌日、おれはひとり神保町へいき、小宮山書房で「書を捨てよ町へ出よう」の地方巡業のパンフレットを買った。8千円だ。帰ってきて由子にぬいぐるみを渡した。包みをあける。

   わあ、眠ってる!

 かの女が喜んでくれ、うれしかった。いずれ去っていくかの女をおもい、なにもいえないのを呪った。おれはあいかわらず淋しい男だ。週末に示し合わせて会う相手すらいない。携帯電話も持ってない。宙ブラリというバンドを見るために十三ファンダンゴへ2度いった。eastern youth と fOUL の共演を観にいちどいった。半券にサインをもらい、ハイネケンを呑む。いい気分だ。でも淋しさにかわりはない。いったいどうやったらおれはおれの仲間を見つけられるんだろう。そうおもいながらバンドメンバーたちとビールを啜り、あたりを眺めた。ほとんどやつが友人や恋人を連れて来てる。おれにはなにもない。

 やがて永易、白石、そしておれは授業を中抜けし、酒や焼き鳥をやって停学になった。おれは不本意だった。抗えないまま連れられ、1万も毟られ、ばれてしまったからだ。やつらは金があるとおれにたかった。じぶんではいっさいださない。おれは体のいい子分でしかなかった。白石なんかおれから金を借りて返しもしないじゃないか。こんなことがあっては堪らない。どうしておれには本物の友人ができないのか。透にしろ、宮原にしろ、どいつもこいつも贋者ばかりだ。でなければガリガリ亡者でしかない。せめて放課後まで待てくれないのか、やつらは。──父はきびしくおれを責め立てた。やつの沽券をとことんまで傷つけたらしい。そんなことはどうでもよかった。

 けっきょく校長へ椅子を投げ、永易は永久停学となり、白石は単位をとって繰り上げ卒業が決まった。おれはなにもしなかった。ただ反省文で文章技能を高めただけだ。いつもは慇懃な教頭がえらく感心してて、ざまあみやがれ、と呟く。おれは教室にもどって本をひらく。梶井基次郎、あるいは織田作之助を。まわりの若々しい顔たちがどうにもこうにも苦手だ。そいつを気取られないよう、本のなかへ深く潜る。

 校舎へとつづく坂道を迂回して、おれは家並みのあるほうを歩いた。由子が2学年したのヤンキー男と笑い話しながら歩いてる。なんだってあんなガキなんかと。妬心に溺れ、おれはかの女に見つからないようにゴロワーズを吸いながら、遠くの道を選んで歩いた。かの女はあんな男たちが好きなのか、それとも心の空白を埋めてくれるものに無文別なだけなのか。遠い記憶への防衛反応なのか、じぶんへの仕返しなのか。おれのなかで問いが生まれ、その問いがさらなる問いかけを呼ぶなか、おれは聴くまいとして、校舎につづく道を辿った。



 もうじき由子とは会えなくなってしまう。おれにはどうすることもできない。かの女の進路を知ることすら。1月4日、ようやく森忠明に電話した。夕方に起き、そのまま勢いでダイアルした。──もしもし、中田と申しますが。

   はい。──低くてぶ厚い声だった。

  詩集を買いたいんですが。

   おお、いいですねえ。

   きみ、幾つですか?

  19です。

  ぼくも詩を書いてます。

  「現代詩フォーラム」っていうサイトに投稿してます。

   残念だけどメカは扱えないんです。

 そのあとサイン入りの詩集が送られてきた。ついで「立川エクテビアン」という冊子が送られてきた。なかのエッセイ「立川誰故草」でおれのことが触れられてた。それも実名でだ。封筒には《貴作読ませてください》とあった。おれはできたばかりの詩もあわせてすべてを送った。そうしてしばらく、作品を送りつづけた。ある日、短歌を送ったときだった。それも「田園に死す」を真似たまずいものだ。おれはそのなかで父殺しをやってた。電話がかかってきた。とったのは父だ。とてもきまりがわるい。かれはおれの短歌を褒めちぎった。短歌なんて国語の授業でやっただけだ。詩集をだすのに50万いるという。金額に怖じ気づいてなにもいえなかった。

 春。卒業生を送る会があった。槇原先生がおれを掴まえていった。──ナカタ、なにかやってくれよ。おまえは詩を読んでるんやろう?──ええ、できますよ。──べつにわるい気はしなかった。もしかすれば宣伝に繋がるかも知れない。もしかすれば由子がなにかいってくれるかも知れない。そうおもって廊下を歩く。──しばらくして山田先生と出会した。かれはいう。

   おまえなあ、あいつらはただでおまえを使う気やで。

   ちょっとは考えて返事せえよ。

   おまえ、ちょっとな、あたまつかって稼げ。

 夜、ふたりでモス・バーガーまでいった。槇原はたったそれだけの金しかださなかった。おれはチーズバーグを喰い、ソーダを呑んだ。

   おいナカタ、どないするつもりでやねん。

  詩を読んでやりますよ。

   ぜんぶ儂が用意してやるからな。

  わかりました。

 送る会、おれは滝廉太郎の「憾」を使った。そこに先生からいわれた「魔王」を乗せる。陳腐だったが撰択肢はない。曲を2回リピートさせ、ノイズを加えた。おれの朗読はよかった。でも最后の《腕のわが子はもう死んでいた》という詩句に校長や、下級生が疑問をもった。校長は「感情が篭ってない」といった。もっと震える声で読めといった。詩が3人称で書かれてある以上、作品の外側の声は感情的であるべきでないというのが、おれの解釈だ。下級生はただのばかものだった。詩のわからないやつらは悲惨だった。けれども、わかるやつはもっと悲惨だ。おれは喋った。ジャズバー「♪」でのことも宣伝した。だれかが笑う。おれが席につく。吉本さんだけが振り返って笑顔を見せた。由子も綴木もなにもいわなかった。どうしようもなく淋しかった。いたたまれなくなって帰途、ジャズバーで酒を呑む。そしてもういちど音楽に合わせて「魔王」を読んだ。寺山の「田園に死す」を読んだ。幕。それからひと月、かれらかの女らは卒業式に立った。おれは惨めで、つらかった。できることはない。だれもみんな、なにもいってくれない。式のあとの立食会、まるきり、存在してないみたいにおれはいた。だれも構うものはない。菓子をつまんだ。首藤という年下の男がおれにギターの弾き方についていった。

   ナカタさん、F押さえられますか?

  ああ、できるよ。

   こうですか?

 からっぽの手でコードのかたちを取る。セーハで6弦を押さえてる。──いいや、こうだ。──おれは親指で6弦を押さえるかたちをとった。かれは感心した顔でどっかへいった。御前があからさまにおれを無視してる。まるきり、眠気と怠惰のなか、進級した。教室には3人しかいない。拓朗はもう来なかった。幕。



 4月、あたらしくできた店、焼肉屋「わかまつ」との話が決まった。正直にいえばそのまえにもラーメンやの接客に受かってた。でも、客を烈しく怒らせてやめてしまった。「わかまつ」じゃあ、おれは雑用係だ。仕事はほとんどなかった。余分なボールベアリング。きのうの片づけや支度や調理補助、肉の味つけと盛りつけ。給与はえらく低かった。なんにも使えない金。酒を呑むしかない金。客も少なかった。中学時代の女子が3人いる。ある夜、おれはへまをやらかした。米を炊き忘れたんだ。ほかのやつがレトルト米を買いにいく。気まずい。それきりおれは夜からはずされ、昼の3時間だけになった。三上寛の詩学校にいくために何度か休んだ。やつらはばかにして、おれの詩を見せろといった。おれは持ってった。だれも読まなかった。古溝真一郎は東京へいった。

 朗読ライブの2度め、おれは「雪のてっぽう」という自作と「母捨記」を読んだ。リハでは藤森安和の「十五歳の異常者」もやったけど、怖気づいてできなかった。3度め、場所はジャズ喫茶 JAM JAM。おれの出番はなかった。店長の娘がとびきりで朗読もよかった。かの女は演劇をやってるらしい。おれはとえば、オープン・マイクで1篇のみ、あとは受付と会計だ。ふてくされながら家に帰った。ひどい冷遇ぶりだとおもい、酒場にもあまりいかなくなった。ある夜。「ルパン三世」のビデオを借りてきた。機械にセットする。音だけ、画面がノイズだらけだ。おれが試行錯誤してると、父が帰ってきた。

   親父が死んだ、いまから岡山へいくぞ。

 鶴の一声だった。あるいは鵺の。おれには抗いようもなかった。こんな夜の8時に、岡山へいく。それは気狂い以外のなにものでもない。女たちは愉しくテレビを見てる。なんと美しい家族だ、けつくらえ!──父と夜のハイウェイをいった。車は少なかった。やがてサービスエリアが見えた。女どもが退屈そうだった。男はおれしかいない。かの女らをどうやって幸せにできるか、そいつをおもいながら、店内をまわってコーヒーのLをひとつ頼んだ。呑むのは父だ。夜のハイウェイを山奥へといき、さみしい田舎にきた。柩とともに1夜を迎えるのが習わしだった。午まで眠った。祖父の死体は暑さからか、大口をひらき、薄目をあけていた。醜かった。惨めな死にざま。だれもがそうなるんだ。おれはロートレアモンとニーチェを読み、眼のまえで女の子の絵がでかでかと載ったライト・ノヴェルを読むでぶの従兄を軽蔑してた。しかし、それだっていまにすればどんぐりの背較べ。どちらにしたって誉められたものじゃない。

   息子さん、よく本を読むのね、うちのも読書が好きで。

 伯母がいってあとから来た母が返す。

  ええ、じぶんでも書いてるんです。──しかし母がおれの書いたものに興味をもったことなど1度としてなかった。やがて出棺のときがきた。祖父の製材所はもうなくなってて、かれの後妻は人形みたいにうごかず、なにも話さない。表情もなく、パイプ椅子に同化してる。おれは犯罪ものの科白だけを書いてた。祖父は昔し祖母を追いだした。わたしが9つのときにかの女は死んだ。葬式で泣いたのはあれがはじめてでおしまい。腹違いの若い伯父がきれいな妻と、そろいの服を着たふたりの娘とともにいた。われわれのなかでいちばん清潔で幸福そうにみえた。昔しかれにもらったプラモデルをおもいだし、それからまたうつくしいかれの妻をみた。髪がみじかい。昼餉を喰った。ビールを呑んだ。父は知らない女に、おれが留年したことや、妹が不登校になったことを自慢するみたいに話した。恥知らずのくそったれ。おれは怒ってビールをさらに呑んだ。父は愚痴をいった。あの後妻(おんな)がなにもかも勝手に処分してしまったと。製材所も養豚場も屋敷もぜんぶなくったと。店の1軒もない通りを歩き、やがて燃え尽きる祖父の終の烟をコンクリートの長椅子から眺めた。ひとりだけ煙突のみえるそとにいたんだ。烟が午のなかに失せていくにまかせて、犯罪小説をわたしは考えながら蓮の花托をみた。無数の眼がおれをみてた。恰幅のある男がいった。──そいつを天麩羅にするとうまい。

  でも気味がわるい植物ですね。

 夜になってまたもハイウェイを走った。父と母たちは悶着をやりあい、べつの道をいった。おれだって父とは一緒にいたくなかった。途上、コンビニエンス・ストアに寄った。コーヒーを買ってでていこうとしたとき、店員の女たちがいっせいに笑いだした。おれはいった──つまりあんたらはぼくがおかしいんだ!──またも車に乗って、父の憤怒に身をまかせた。やつのおもりをするのはもうあきあきだ。母と姉妹がどうなったのかは知らない。どうしておれだけが父と一緒でなけりゃいけないんだ、──おれは夜の1部になりたかった。夜の鮭とともに去りたかった。



 相野でマラソン大会のボランティアにかりだされた。なにもすることなんかない。おれは隠れてウィスキーを呑む。遅れてきた走者たちはぶざまだった。給水所の水をガバガバ呑み、紙コップを投げ棄てる。あるいは水を嘔きちらし、呻く。なんともおぞましかった。帰りの駅で、おれはひとり莨を吸った。ゴロワーズの両切りだ。向井がいった、やるやん!──堀井というからだのでっかい、お調子者の後輩と列車に乗った。おなじく後輩のかわいい子が立ってた。おれはかの女と堀井をくっつけようとおもい、かの女に席を譲ってやれとけしかけた。けっきょくかれらは立ち話をするだけで終わった。かの女は黒髪のおさげで、眼鏡をかけてた。やがて眼鏡もおさげもやめて、髪をみじかくして染めた。おれは帰ってから「われら走者」というビート詩を書いた。

 焼肉屋はやめてしまった。寝坊してそのまま電話で辞めるって告げた。どうせ金にはならない。学校にいく。たった3人の教室。みんな卒業してしまった。岸本という小さいのがいった。

   みんなで学校に休まず来ないと、

   だれかが休むとやる気を喪う。

 どうだっていい。おれは詩の催しのために何回か休んだ。三上寛の詩学校や、ジャズバーでの朗読におれは時間を使った。4年の在校生が3人とあっては学校も授業なんてどうでもよくなった。中学レベル、もしくは小学レベルの問題をだした。あたらしい数学教師はおれが「ツァラトゥストラ」を読んでることにやたら感心してた。おれはあいかわらず数字がだめだった。「算数入門」という本を知り、そいつを読んだほうがいいのか、かれに相談した。どうやらあまり効験はないらしかった。あるとき、先に卒業した、西谷が保健室にいた。かの女はおれのことを年上だとおもってたらしい。

   おない歳やったんや。

 落ち着きや、静かさのせいか、12で20を演じたり、15で18をやったり、16で19におもわれることもあった。やがて年も暮れて生活体験発表、作文披露のお鉢がまわってきた。おれはエフトゥシェンコ「早すぎる自叙伝」からの引用と、じぶんの短歌、そして好きなふたつの短歌を載せて人生について語った。「かれはニーチェを読んでる」と数学教師がほかの教師にいうのが聞えた。どうだっていい。おれがなにを読もうが、それが地位向上につながるわけでもない。校長をばかみたいに感動させてしまった。おれは3番手に撰ばれ、「高校生フォーラム」へでることになった。

 20を過ぎて高校生なんて羞ぢでしかない。会場じゃあ子供たちがガヤガヤやってた。舞台ではいかにもじぶんを見せたくてたまらない連中がいる。大袈裟に他人ごとを語る。大西麻里奈という娘がとびきりのかわいかった。惜しむらしくはかの女の作文には当事者意識がなく、ひたすら他人事だった。世界の貧困も、戦争の脅威も、かの女自身との共犯関係を語ることなく、ただ叫ばれるだけだった。貧困が!──戦争が!──あらゆる対立が!──そんなことをいったってしかたがない。かの女はけっきょく野次馬だ。物見遊山をやらかしてる。自身の生から産まれないものに価値はない。つぎは演劇部の女が小芝居とじぶん語りをやらかした。途中でなんども科白がつまってしまってた。おれはじぶんの出番が来ると、さっさと読んで舞台を去った。自作の短歌を作文から削除した。大学にいくといった。受賞したのはみな女の子たちだった。とんだ茶番だ。女ったらしのロリコンやろうどもが審査を呑みこんでるらしい。おれは怒って作文をやぶり棄てた。友人の自裁を核に語った青年がいた。かれだけだ、自身を素直に書いたのは。ロビーにでると、かつての書道教師が寄ってきた。おれの作文を褒めちぎり、燕の巣を奢るような口ぶりで罐コーヒーをくれた。

   いい作文だった、大学絶対いけよ。

 おれはそとへでた。そして帰り際、中華料理屋でビールと餃子を頼んだ。ビールは来なかった。おれは自販機でビールを買い、できるだけ遅く教室に帰った。担任の槇原は怪しんだが、どうにかごまかした。おれは敗北感でいっぱいだった。もはやどうすることもできなかった。詩ではだれにも勝てない。おれは絵を描くべきなのか。それとも音楽か。ジャズバーでの朗読はなくなり、詩の活動はなくなった。いちど「誌のボクシング」にもいってみた。姫路くんだりまでだ。「好きなもの」というビート詩をカンペなしで読んだ。主催人は「どうして定時制についての詩を書かないのか」と壇上から訊いた。おれにとってそれは特別でもなんでもない、日常でしかないから書かない。けれども「書いたことはある」とだけ答えた。主催人は「まずそれを書くべきだ」と宣った。おれは撰考から落ちた。あんなものは詩と無関係な、朗読芸しかない。うちに帰ると父が「受かったなら、ちょっとは支援しようとおもったのにな」といった。ふざけやがって。そんなはずはなかった。やがて高校生フォーラムの冊子が届いた。大西さんの写真も載ってる。父は勝手に読んで、勝手に怒った。

   ここには書いてないことがある。

   うそを書いてるのとおなじだ!

 つまるところ、働きがわるいことや、成績のわるいことも書かなきゃならないらしかった。でもそんなことだれが聴きたがるのか?──おれにはわからない。おれはニーチェを読み、冬の夜を過ごした。はやくこの家からでなければならない。──くさっちまうまえに、くさっちまうまえに、くさっちまうまえに!──小学校じゃあ、タイムカプセルをあける年だった。おれはなんにも入れてない。それでも友衣子やみんなに会いたいと期待した。1年待った。郵便や報せがないか、探しまくった。けっきょくなにもなかった。おれはクラスの勘定にさえ洩れてる。でもそれを直視するのは怖い。成人式にもいかなかった。神戸のにいくか、西宮のにいくか、三田のにいくか、わからなかった。それに貸衣装を着る気分にすらなれなかった。くわえて毎年テレビでやってる、「新成人の暴走」にも飽き飽きだった。

 その日は、けっきょく朝6時から手斧を持って薪を割った。靄のなかで父とともに。なにもかも終わってから衛星放送の日活アクション映画をたったひとりで観る。アクションスターのなかで、だれよりも宍戸錠が好きだった。いまごろ、かつての同級生たちは笑いあい、それぞれのつがいを見つけてるところだろう。おれにはなにもなかった。なにもできなかった。おれにはほんとうの友だちがいない。だれもおれに声をかけてはくれない。だれもおれのことをおもってはいない。その淋しさに眼をそむけ、テレビ画面にむかう。赤木圭一郎と宍戸錠の映画「拳銃無頼帖 明日なき男」がやってる。男たちのガン・ファイトを眺めながら、頭のなかじゃあ、ずっとかの女のことを考えてる。



 20歳になった。おれは禱った。7月3日。おれが、おれのままで幸せになれることを。友衣子がおれのアパートへ訪ねてくれるのを想像した。朝が来た。甚平姿でカブに跨がり、名塩桜台まで降りた。いちばんちかいコンビニエンスで、フィリピン産のウォトカを買った。やっと齢を気にせずに酒が買えた。帰ってそいつを牛乳で割り、ネットでピンサロを探した。三ノ宮に手頃なやつがあった。"Red room"──まさかストリンドベルリから採ったのか。ルイという嬢に眼をつけた。昂ぶったまま予約を入れた。夜、おれはサンキタ通りから路次をあがった。店のまえ、薹の立った男が嬉々しく出迎え、招き入れる。ルイ嬢はまだ来てなかった。おれは待った。店員がべつの女を宛がうと申しでた。断った。どうしてもかの女がよかった。みじかい髪は友衣子や由子をおもわせたし、太めだがひとの良い顔立ちにそそるものもある。やっと嬢が来たとき、おれはかの女の笑顔に救われるみたいな気分だった。一緒に裸になってシャワーを浴びた。つよく勃起した。

   わざわざ、わたしを待っててくれてありがとう。

 おれは気後れしながら横になり、口づけをし、ちからなく抱き合った。

  おれ、きょう誕生日なんです、20歳の。

   おめでとう。

 たったひとり、かの女だけが祝ってくれた。そして飴を渡してくれた。でも、けっきょくいけなかった。帰りの電車のなか、少し勇気がでたような、未知のなにかに飛び込んでいけるような気分になった。飴を甜め、神戸から尼崎、そこから西宮名塩までやり過ごした。ルイさんの顔をおもい浮かべながら。それでもけっきょく芽生え始めた勇気は、そのまま失せてなくなり、またしても退屈と怯えが溢れだした。もはやおもいを寄せる対象はいなくなった。どうでもいい連中があちらこちらで勝手に交尾してる。おれは由子をおもった。友衣子をおもった。どうやっても会えない存在についておもいをめぐらした。いったいどうすれば、かの女たちに近づけるのか。考えるだけ無駄だとはわかってはいても、それをおもわずにはいられない。このままどう生きてもおれの人生は碌なものにはならないと、詩や音楽がほんとうに救ってくれることなんかないということにも気づいてた。どれもがつかのまのやすらぎだ。できることはなにもなかった。ただ時間が過ぎる。可能性が目減りしていくままだ。狂おしいくらい、大人になったかの女にどうしても会いたかった。1年待った。けれどもどこからも誘いはなかった。おれはなまえをかき消され、だれもないところへ追い放たれた。怒りと淋しさのなかで、ただ立ってるしかなかった。おれにはやっぱり友だちがいない。近所の連中だって報せてはくれなかった。おれはずっと待ち焦がれてた。友衣子に会えることを。でもどうしようもなかった。あいつらは人非人だ。おれのことを生きたまま焼き滅ぼしてしまうんだ。ちくしょう、おれには敗北しか待ってやしない。おもてへでて、夜の道をただ歩いた。どこにもおれを求めてくれるものはない。ただ寂寞が広がって、なにも聞えない。明日はまた父の仕事だ。隣の庭に貯水槽をつくらなきゃならない。さっさと眠って図書館へいくだけだ。翌朝、おれは逃げそびれてしまった。父に捕まって穴掘りだ。ひとの自由を奪うほどのことにはおもえなかった。土、また土。おれは昼餉の途中で逃げた。故物屋や、図書館をまわってただただ時間を潰した。帰って父の怒りに曝されようとも、もはや気にすることはない。どうせやつはおれよりさきにくたばるんだ、おれは愉しむだけだ。



    だったらどうでもいいぜ、

 勝手にするがいい

 おまえのようなやつを淫売というんだぜ

 おまえが砂の城を建てようが

 銀河の果てに安全地帯をつくろうが

 知ったこっちゃねえんだよ

 その薄汚い粘膜をおれの車につけるんじゃねえ!

 たしかにおれはおまえの兄を殺した

 妹を売りにだした

 それもこれもおまえの2点透視が崩れ、

 町をめちゃくちゃにしてしまったからだ

 どうする?

 おまえの下半身は養分を欲しがってるぜ

 でもおれはガス・スタンドじゃない

 勝手に燃えあがってみんな燃やしてしまえ

 おれはおまえを愛してる

 たったそれだけのことでおれの消滅なんて話しがあるか!

18/01/02

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裏庭日記/孤独のわけまえ 中田満帆 @mitzho84

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説