望郷

わたなべ

第1話

 陽の光が青い裾野と混ざりあう街を黄色く照らしている。さっきまで降っていた雨はもうどこかに行っていた。

いつからだろうか、月に一度この山に登っては、何をするでもなくただぼんやりと景色を眺めて時間を過ごすようになっていた。眼前に広がるこの場所のどこかに、自分もまた暮らしているのを思うと何となく落ち着ける。

会社と家を往復する日々は確かに疲れるが、それでもこうした場所を見つけられたおかげで、息切れしないままでいられた。

 元々、何とか見つけられた就職先には、大学時代に住んでいた場所から通っていた。決して広いわけではなかったけれど、不都合なく暮らせるところだった。

そのまま数年間暮らし続けて、3年前に里帰りをした時に両親から「祖母が住んでいた家に暮らすのはどうか」と言われて引っ越しをした。祖母の家は、僕が大学に通う頃に両親が引き受けたまま、誰も暮らしていないままだった。

一通りのリフォームを終えて移り住んだ家は、案外快適に暮らせる場所になっていた。すぐ近場にスーパーがあるおかげで生活にも困らないし、時折顔を合わせる隣人ともうまくやっている。少し歩いた所には、ジョギングができるような落ち着いた雰囲気の公園もある。もしかしたら、祖母が遺してくれたこの家を壊さなかったのは、両親も先の事を見通していたからなのかも知れない。そう考えると僕には感謝するほかに方法がない。


 駅までの帰り際、子どもと手をつないで歩く母親らしき人とすれ違った。この子にとっては、ここが故郷になるのだろうか。

 元々は都心なんかよりずっと離れた故郷で暮らしていた。高校から家まで微妙に距離が離れていても、そんなに遊び場が多くなくても、友達とふざけあって過ごしている日々は楽しかった。毎日の中に色彩があった。

けれどいざ将来について選択を迫られた時に、どうすればいいのか分からなくなった。納得しきらない両親と板挟みになった先生を置き去りにするようにして、就職を捨て、実家から離れた関東の大学で一人暮らしを始めた。

 衝動的に飛び出してきたとはいえ、大学も楽しかった。色んな場所から来た奴と過ごしたり、故郷には無かったような遊び場に行ったりした。——ただ、どうしても後悔の影はいつもちらついてしょうがなかった。両親と本音をぶつけずに飛び出した事、それでも自分を支えていてくれたのに感謝の一つも言おうとしなかった事、何より自分の心と向き合わずに逃げていた事に気づいたのが腹立たしかった。3年生の年の暮れは、ようやく電灯で色づけされた世界で過ごさずに実家に帰った。


 電車に乗って帰りの車窓を眺めていると、ふと隣駅で咲いている梅が目に留まってしまって、そのまま流れに身を任せて寄り道することにした。ホームから去る電車を見送っていると、かつて僕を送り出してくれた友達をふと思い出した。今頃、高校のみんなは何をしているんだろうか。大学2年にあるはずだった成人式は結局無くなってしまったから、忙しさも相まってまともに顔を合わせないまま8年の月日が過ぎたことになる。別のクラスの誰かが結婚した話だとかは耳にするし、多分上手くやっていっている事だろう。気のせいか、風に吹かれた梅の枝も笑いかけているようだった。


 ようやく帰りの電車に乗ると、席はそれなりに空いていた。

途中から乗って来た制服姿の恋人たちは、気づけば寄り添いあうようにして眠っていた。

次第にいつも暮らしている景色が近づいてきた。小さな川沿いの土手も、木々の並ぶ境内も、何となく好きだった。別に理由なんてなかった。

かつての祖母の故郷に、僕もまた立っていた。

雨露が微かな夕陽の中できらめいていた。空の端には虹霓がひっそりとのぞき込んでいた。また明日が生まれ変わって待っている。

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望郷 わたなべ @watanabacon8

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