第四章
平成十七年五月十二日
まな姉、マー兄と一緒に会った母の担当のお医者さんは、世界一残酷で無情で最低なことを告げる、良い先生でした。さほど大きくない部屋に通された後、すぐに先生は見えました。最初は少し混乱。私の頭じゃないですよ。親族ではないマー兄が話に加わることを、先生が良いかどうか判断を迷ったため。そのことが済むと今度は私。こういう話に幼い(?)実の娘が同席することを渋りました。まな姉が昨日の内容もほとんど話してあると言って了解させます。
先生はまず、MRI検査の結果判定を含めた総合的な診断は今週中にします。なので、十六日の月曜日にお伝えしますと言いました。先生は腎・胆・膵臓の専門で、他の病院も含めた同じ専門の先生グループと、母の情報を共有して診断すると言います。ですが、現在分かっていることだけで判断しても、根治治療はかなわない。本人が言うように、強い治療をしていきなり寝込んだままになるのであれば、ぎりぎりまで望む通りの生活を続ける方が良いかもしれない。と、言いました。
「専門の先生が集まってもそんことしか言えないんですか。見捨てるんですか」
と、まな姉が言います。
「本当に申し訳ないと思います。無力であることは認めます。ですが分かってください、今の段階ではもう、治すことも、病状の改善も、大して望めないんです」
先生も苦しそうに言います。まな姉はさらに、
「移植は? 悪いところを移植していくとかできないんですか?」
と、詰め寄ります。先生は首を横に振り言います。
「酷い事を言うと思いますが、皆さんも覚悟を決めて、残った時間をどれだけ有意義に過ごせるかに集中してください」
その先生の言葉の後は、しばらく沈黙が訪れました。私は声が出ない代わりに、涙が出てきました。
「その時間を少しでも作れるように、私たちも全力を尽くします」
またしばらく沈黙があってから、マー兄が口を開きました。
「本人の望みも、最後まで一日でも長く、日常を過ごしたいと言うことです。でも何をすればそれを少しでも長く続けられるのか、私たちにはわかりません。ですから先生方に協力していただくしかありません。本当に宜しくお願いします」
そう言って頭を下げます。まな姉も釣られたように頭を下げます。でも、そのあとすぐにこう聞きます。
「最後って、最後ってどのくらい先ですか?」
先生は「それは⋯」と言って、三人の顔を順に見ていきます。特に私の顔を。
「教えてください」
私が言いました。先生はまな姉とマー兄の顔を見ます。二人とも頷きました。
「昨日、ご本人の前では一年くらいと申しましたが、おそらく半年も無理でしょう。先ほどお伝えした通り、全ての検査結果から総合的な判定をすると、さらに近い将来のことになるかも知れません」
先生の言葉に私の涙はさらに量を増します。まな姉の目からも涙が流れました。ですが言葉は誰からも、しばらくの間出ませんでした。そして、何でそんなに進行するまで気付かないなんてことがあるのか、などとマー兄が先生に質問したりの問答になりました。要は母が若かったから。膵臓のような臓器は普通の健康診断などでは異常が見つからない。健康診断などで糖尿病の疑いでも出れば、その時に分かったかも知れない。でもそれもなかったのであろう。食道や胃も、検診で本格的に調べるのは普通は四十歳から。体の異常も、若いと継続せずに治まってしまうことがあるので、本人もなかなか自覚できないなどと。月曜日に総合的な診断をお伝えするまでに、先程までの話に沿った治療方針も決めて説明しますとのこと。それで今日の話は終わりました。
先生は一時間以上時間を割いて話をしてくださったので、すっかりお昼を過ぎていました。三人で病院内のレストランで昼食を取ることに。日替わりランチのお弁当を三つ注文。みんな言葉少なに黙々と食べていました。私は食べられる気がしないところに、結構なボリュームのお弁当が来て、少し気分が悪くなりました。でも驚いたことに、全部食べてしまいます。母のあんな話を聞いた後にこんなにも食欲があったなんて、すごく薄情な人間に思えて悲しくなりました。そんなことでも涙がにじんできます。泣いてばかり。昨日から一体いくら泣いているんだろう。そしてこれから先、どれほど泣くことになるんだろう。水分不足になっちゃう。水をたくさん飲もう。なんて馬鹿なことを考えて、また涙を出してしまいました。
帰りの車の中。まな姉は涙ぐみながらも、
「もう姉さんの前では出来るだけ泣かない。悲しい顔しない。精一杯普通に、姉さんのしたいことに付き合う」
と、覚悟を決めたことを言っていました。私はそんな言葉を聞きながら、窓の外の楽し気な学生たちを見て、またどこか別の世界に行っていました。
かおりは仕事を終えて夕方帰宅する前に阿部家に寄りました。昨日はいろいろ自分も混乱していて、報告し忘れていたからです。
「お邪魔します」
玄関を入ると正善の母、富美子が居間から出てきました。
「かおり、⋯入って」
かおりを見て困惑したような顔になった富美子。でもすぐに、かおりの手を取って招き入れます。富美子はかおりをソファーに座らせ、自分も隣に座ります。
「正善から聞いた⋯」
富美子の言葉にかおりは頷きました。正善が二階から降りてきます。
「心配かけてごめんなさい」
かおりは言いました。
「それと、これからもっと迷惑かけると思うから」
富美子はかおりの手を両手でとって、
「迷惑って⋯、あんたは何言ってんの、水臭い」
そう言うと、今度はかおりの頭を優しく抱き寄せ、かおりの頭の後ろに顔を埋めます。
「ほんとに何であんたのところばっかり、私が代わってあげたい」
と、涙声で言いました。
「ありがとう、お母さん。今まで本当にありがとう」
そう返すかおりの言葉に、富美子は体を戻すと再びかおりの手を取りました。
「今までなんて言うのはまだ早い。まだまだ早い。親が子供を簡単に手放すと思ってるの?」
涙ながらに強い口調で言いました。玄関の方からは車の音がしてきます。正善の父、真一が帰ってきた様子。正善が病院へかおりのことを聞きに行くと知っています。なのでその話を聞きたくて、急いで帰って来たのでした。玄関から入って来た真一は居間の戸口に立つ正善を見て、「どうやった?」と、言いながら脇を抜けて居間に入りました。そこでかおりを見ると一瞬止まります。止まった後、かおりに歩み寄ると膝をついて富美子とともに手を取り、こう言います。
「かおり、おじさんもおばさんもお前の味方や。何の遠慮もいらんからなんでも言えよ」
かおりは二人の顔を交互に見るとうつむいて、
「ありがとう。本当にありがとう」
と、涙をこぼしました。
「子供がそんな礼なんか言うな。お前も、まなみも、綾も、みんなおじさんたちの子供や」
横で富美子もうなずいています。
真一はそう言って立ち上がると、台所の椅子に背広を脱いでかけ、ネクタイを外しながら、
「正善、お前も姉さんをしっかり助けなあかんぞ」
と、言います。
「あれ? 俺が弟なん? 誕生日、俺の方が一か月ほど早いんやけど」
「一か月くらいなんや、しっかりしてる方が上なんや。どう見たってかおりの方がしっかりしてるやろ。お前が弟や」
と、真一。その二人のやり取りに、かおりと富美子はくすくす笑いました。
その後真一は富美子に、今夜はまなみ、綾も呼んでここでみんなで食事しようと言いました。富美子はそのつもりで用意していると伝えます。しかし真一は正善に、今日病院で聞いて来た話を二人を呼ぶ前にするように言いました。正善は二人も一緒に行ったので、いても同じだと言います。真一はなんで綾も連れて行ったんだと少し不機嫌になりました。するとかおりがこう言います。
「大丈夫、昨日ほとんど話しちゃってるから」
「ほんまにか? 多感な時期やろ、おじさんには繊細な子に見えるんやけどなぁ。大丈夫か?」
真一は言います。
「しばらくは混乱して、不安定になると思うから見守るしかないけど。綾は大丈夫」
そう言うかおりの言葉の裏付けを求めるかのように、真一は正善を見ます。正善は父親の視線を受けて小さく頷きます。
「私が中学の時に乗り越えられたんやから」
かおりは真一を見て言葉を重ねました。
「中学の時? ⋯そうか、美枝子さん(かおり達の母)が亡くなったのはそんなころやったか」
真一がしんみり言いました。富美子は二人を呼びに出て行きます。
「で、今日はどうやったんや? 何かいい話になったんか?」
真一は正善に聞きました。
「いや、今日はもともとお願いしに行っただけやから」
正善の言葉に「お願い?」と、かおりも聞きました。
「うん、体に出来るだけ負担がない範囲での治療。父さんも知ってると思うけど、癌の治療って強い薬を使うと、それで体がまいってもうて動けなくなるやろ。それでも治るならって言うか、一時的にでも回復するならやる価値はあると思うんやけど、かおりにはそんな時間はないやろうから」
正善の言葉に真一は慌てて、
「本人の前で時間がないとか言うな」
と言います。が、かおりは少し笑いながらこう言います。
「大丈夫」
玄関が騒がしくなって三人が入ってきました。居間に大きな座卓を出して、富美子が台所のテーブルの上に用意してあった料理の仕上げをしたり、電子レンジで温めなおしたりしたものをみんなで座卓に並べていき、用意が終わるとみんなで食べ始めました。話題はこれからのことでした。でも、あくまで療養と言うことについての話。なので阿部家の食卓では、しんみりした雰囲気にはなりませんでした。
かおりたちが帰って、明日は仕事が休めないからと帰り支度を始めた正善。そんな正善を台所のテーブルに座った真一が、「座れ」と、呼びました。正善は真一の正面に座りながら、
「何?」と聞きます。
「かおりのこと、気を付けて見とけよ」
「⋯⋯?」
真一の言わんとすることが分かりません。
「わしらは傍におるから当然気を付けとくけど、年の近いお前の方が分ることが多いやろうから頼むぞ」
「どういうこと?」
正善はまた聞きます。すると真一はこう言い出します。
「わしは、かおりみたいに余命数か月と宣告された奴を二人知ってる」
「⋯⋯」
「今は宣告された直後やから、本人も現実感がないんや。だから平然としてるように見える」
「⋯⋯」
富美子も傍に来て黙って真一を見ます。
「でもじきに変わる。何で自分がって苦しみ始めるんや」
正善は目を伏せました。真一は続けます。
「苦しんだ後、一人は冷静に残りの生活を考え始めた。けど、もう一人は混乱した。いや、錯乱したってやつかな。家族も近寄れんような状態になった」
正善は真一を見て聞きます。
「⋯で、どうしたん? その人は?」
少し間を空けてから真一は口を開きます。
「そいつのことはもうええ。かおりがどうなるかが問題や」
「⋯⋯」
「わしの知ってる二人よりはるかに若い。まして、成人もしてない子供を残していかなあかんのや。どうなるか想像出来ん」
正善はしばらく父の顔を見てから言いました。
「なんとなく父さんの言いたいことは分かった。出来るだけ都合つけて、帰って来るわ」
「そうしてくれるとわしらも、かおり達も助かる。⋯けど、仕事で周りに迷惑かけるほどの無理はするなよ」
「大丈夫、会社勤めの身やないから、それなりには自由や」
正善の言葉に少し表情を崩した真一は、
「お前もやっと、少しは使えるようになったなぁ」
と、言いながら、もう遅いから気を付けて帰れよ、と席を立たせます。そう言われて正善は席を立ち、玄関に向かいます。その背に真一の独り言が届きます。
「まなみやあやが傍におりすぎるから、吐き出せんかもなあ」
平成十七年五月十三日
まなみ、あやが出掛けたタイミングで、富美子はかおりを訪ねました。かおりは出勤の支度をしていました。
「おはよ、かおり」
富美子が玄関から上がりながら声を掛けます。
「お母さん、昨日はありがとう。楽しかった」
「あんたいつまで仕事行くの?」
出かける支度をするかおりにそう言う富美子。
「うん? 今月いっぱいは行くことにした」
「すぐには辞めれへんのやねぇ」
答えるかおりに富美子はそう言います。
「あ、違うよ。病気のこと全部話したら、社長さんはもう会社来なくていいから、家でゆっくり過ごしなさいって言うてくれたの。で、私の方が月末までは来させてって言うたの」
「そう」と、頷く富美子にかおりは続けて言います。
「私が、多分半年ももたないって言うたら、生きてる間は会社に来なくても給料払うからって。勤めてることにするからって。それにね、退職金もすぐに出来るだけ出してくれるって。お給料のことは断ったけど、長い間会社手伝ってくれたお返しやから受け取ってくれって。本当にいい人ばっかり」
少し涙ぐみながら言うかおり。
「いい社長さんでよかったね」
と、富美子は言った後こう続けます。
「お金の話が出たけど、それで来たの。あんた、癌の治療を受けないとかって、お金のことでじゃないでしょうね。それが理由なら、そんな心配しなくていいからね」
かおりは微笑んで、
「それはないから、こう見えても、うちってちょっとお金持ちやから」
と言いました。
「ほんとに?」
「ほんと。私、癌保険も入ってるし。あ、保険金請求しないといけないね」
と言いながら、かおりは続けます。
「お父さんが亡くなったとき、預金がかなりあったの。家とかの相続でだいぶ減っちゃったけど、それもまだ残ってる。それと、お父さんの保険金と退職金。ほとんど手を付けてないからかなり残ってるの。あとは、少ないけど私の保険金も足せば、綾が普通に大学行って、勤め始めてからもしばらくは大丈夫なくらいは残せると思う」
「そう」
と、頷く富美子でした。でもやがて、
「いや、綾ちゃんのことじゃなくてあんたのこと。あんた、治療費でそのお金使っちゃうと綾ちゃんに残せないとか考えてるんじゃないでしょね」と、言います。
「ううん、そんなことないよ」
「ほんとに? 綾ちゃんは別にして、自分の事だけ考えなさいよ。私もお父さんも、綾ちゃん一人くらいまだまだ面倒見れるからね」
「ありがと、親子二代でお母さん達に迷惑かけるけど。お母さん達がいてくれたら安心」
かおりは富美子の目を見てそう言いました。そして続けます。
「綾が大学入ったらこの家もどうなるか分からないけど、それまではよろしくお願いします」
富美子は怪訝な顔で尋ねます。
「どういうこと?」
「あの子の第一志望は東京だから。大学入って東京行ったら、就職も多分向こうでするでしょ? そしたらこの家はずっと空き家になるってことだからもったいないよね」
富美子は理解できずに尋ねます。
「まなみは? まなみも東京行っちゃうの?」
「あれ、話してなかったっけ? まなみからも聞いてない?」
「何を?」
「あの子、この秋からイギリスに行くの」
かおりの言葉に富美子は驚きます。
「イギリス? なんで?」
かおりは少し姿勢を正してから話し始めます。
「まなみが前に勤めてた会社が、イギリスに新しい現地法人作るんだって。で、まなみの親しかった先輩がその責任者になったの。その人が今のまなみのやってる仕事を見てて、手伝ってって言ってきたらしいの。気心も知れてるし、まなみは英語も話せるからって」
富美子はまだ驚いた様子です。
「そんな話聞いてないわよ」
そう言う富美子に、
「ごめんなさい、正式に行くのが決まったのが、私がこの前入院する少し前だったから。なんだかんだで私も話すの忘れてた」
かおりはそう言います。
「そうだったの。それって、もう行ったきりってこと? 帰って来ないの?」
富美子の問いにかおりは少し考えてから答えます。
「帰って来ないってことはないと思うけど。向こうの会社に入るってことだから、五年から十年はそこにいることになるみたい」
富美子も思案顔になります。それを見てかおりは付け足すように口を開きました。
「あ、私が今そう思っただけで、まなみが帰って来てこの家に住むならそのままだし。まだ何も決めてないから」
でも富美子は違うことをかおりに言いました。
「あの子、その話断らへんよね、こんなことになって」
その富美子の言葉に、かおりは急に心配になりました。
「まさか、一旦元の会社への復職ってことになるから、その辺の正式な書類なんかもう出してるし、渡航関係の書類だってもう。今更断れないと思う」
そう言いながらも、沸き上がった不安が広がるかおりでした。まなみにとっての大きなチャンス。それを自分が潰してしまうかもしれない。そう思うと胸が苦しくなってきました。
「ま、様子見ましょ。まなみが本当に行きたいなら、行けるようにこっちがしてあげたらいいんだから」
富美子にそう言われてかおりは出勤していきました。
平成十七年五月十五日
日曜日のお昼過ぎ、少し落ち着きを取り戻した、いや、取り戻そうと思った私は、自分の部屋で友達から昨日借りたノートを写していました。学校を休んだ木曜日の授業分。朝食が終わってしばらくしたころマー兄が来て、まな姉を連れてどこかに出かけて行きました。母は普段通りの振る舞い。あの水曜の夜から木曜にかけての、私の中の大混乱はかなり治まっている。でも普通過ぎる母と二人になると不安。なのでノート写しに集中しようとしています。昼食の時も気まずいとは思いながら、少ない会話で済ませてしまった。
最後の一教科分のノートを写し始めたころ、
「こんにちは~。お邪魔しま~す」
と、聞き慣れた大きな声。優美だ。それに続いて、
「お邪魔します」
と男の声。優美のお父さんの声ではない。誰? って思っていると、
「ノブ君? 久しぶり。背伸びたねぇ、何年振りやろ、もっと遊びに来てくれたらいいのに」と、母の声。
ノブ、尾ノ上幸信。中学二年、三年と同じクラスで、一緒によく遊んでいた友達。おそらくノブが何か言いかけてるのを無視して、割り込んだ優美の声がまた聞こえてくる。
「おばさん、今日は私達だけで秘密の会議なの。飲み物もお菓子も持参してるから、お構いなしで」
よく分かんないことを言っている。秘密の会議? 私は聞いてへんぞ。
「あっそう、わかった。ゆくりしてって」
と、優美に気圧されたような母の返事。
「お邪魔します」というノブの声に続いて階段を上がってくる足音がする。
「あや~、来たよ」
と、ノックもせずにいきなり入ってくる優美。男子連れてる時くらいノックしろ! と言いたいが、優美に言っても無駄なので言わない。と言うか、私の家は古いので扉ではなくふすま。ふすまもノックでいいのかな。なんて考える暇もなく、ノブが入ってきた。中学を卒業してからは何回と数えるほどしか会っていない。なんだか少し緊張。
「山中、おひさ」ノブが言います。
「うん、久しぶり。どうしたん今日は?」
と私が聞きます。
「東が急に⋯」
「あんた日曜日に勉強してんの?」
と、机の横まで来ていた優美が、ノブを遮って言います。
「学校休んだからその分のノート写してんの。それより秘密の会議って何?」
「ノブ、そこのテーブルこっち置いてよ」と優美。
人の話を聞け! ノブは優美が指さした本棚の横に立てかけてある小さな座卓を手に取り、「これか?」と言いながら畳んである足を広げて優美の前に置きました。優美はベッドに座り、持ってきたビニール袋からペットボトルやお菓子類を出して、ノブが置いた座卓に並べます。
「適当に座って」と優美。
ここは私の部屋や! と思いながら、
「何やの? 秘密会議?」
と、私は座っていた椅子ごと座卓に近づいて言います。ノブが私の部屋を見まわしながら床に座ります。中学の時とそんなに変わってへんよ、と言いたげな目でノブを見ながら、私は自分の格好に気付きます。部屋着にしているスウェット姿。そんな変なものではありませんが、何しろずっと部屋着にしているのでくたびれています。私は優美を「誰か連れて来るなら前もって言え!」て、怒りを込めて睨みました。
「何怒ってんの? とりあえず乾杯しよ」
と、ペットボトルを私たちに手渡しながら言う優美。
「いやいや、そろそろ何なのか説明してよ」
ペットボトルを受け取りながらノブが言います。どうやら何も聞かされないまま呼び出された様子。
「⋯⋯? ノブってやっぱり頭悪い? 一昨日話したやん。あやを守る会結成するよって。あ、言っちゃったやん」
優美はそう言うと、ふくれっ面を作ってノブを睨みます。私を守る会?
「えっ、山中守る会に山中入れるの?」と、ノブ。
だからその会は何なの?
「やっぱ変かな。でも二人じゃ寂しいから入れてもいいやん」
「頭悪いのは東の方やろ。二人で少ないんやったら他にも声かけたらええやん。幸一とか、花井さんとか」
「幸一は携帯持ってへんから連絡しにくいし、美季は友達多すぎて、すぐに話が広まりそうやから却下した。そんなみんなに広める話やないでしょ。ちょっとは頭使いなよ」
「だったら少なくてええんやん」
「ま、そやけど、でもな⋯」
二人の掛け合いを聞いていても面白そうでしたが、私は二人に割り込みました。
「ちょっと待って、その何とかって会、何なの? 守るって、私何かされるの?」
二人は同時に私を見ます。
「う~ん、一番鈍いんはあやかも」
優美が言います。私はノブの方を見ました。
「いや、説明は東から」
と、首を振って優美を両手で指します。私は優美に視線を戻す。優美も私を見て、
「あやを守る会って言ったら、『ありがとう! 二人は私の親友やね!』、みたいな反応を期待してたんやけど」
と言ってから、「ちょっとこっち来なさい」と、私の手を引いて隣に座らせました。そして私の手をとります。
「あやの今の状況。これから悲しいこと、辛いこと、寂しいこと、想像も出来んくらい困ったことがいっぱい起こるやろ?」
改まってそんなことを、落ち着いた表情でゆっくり話す優美。私は心にチクチク触れて来そうな内容に少し緊張しました。いえ、すでに触れたくないところを触られている感じ。聞きたくないかも。でも優美は続けました。
「そんなあれやこれやを私らでは防ぐ事は出来へん。でもな、あや一人が傷付いて、悲しんで、泣いてるとこなんか見たくない。だから傍におるよ。私らが一緒にいるよ。何も出来んかもしれんけど、傷付くなら一緒に傷付いて、泣くなら一緒に泣く。綾の苦しいこと分けて、そしたら一人よりはましやろ? 大きく傷ついたり、深い悲しみに落ちたりせえへんように、そうやってあやのこと守る。そういう会や」
私は涙がこみ上げてきました。でも、先に話している優美の目から涙が。優美の涙につられた? 私以上の泣き虫なんやから。
「一昨日、俺にその話しに来たときはもっと泣いとった。学校で泣きだすもんやから、注目浴びてほんまに困ったで」
と、ノブが照れたように笑います。
「うるさい! 余計なこと言うな」
泣きながらノブに言う優美に、
「ありがと。本当にあんたらは親友や」
抱きつきながら私はそう言いました。
しばらくすると元に戻った優美。何して遊ぼうかと言い出しましたが、何もせずに中学時代の友人の話。誰がどこの学校行って何してるとか、卒業してからあの二人は付き合ってるとか、もう別れたとか。正直何度か聞いた話題もあったので退屈。そのうち同じ高校に通っている二人は、その高校での話に。私の部屋で私が除け者。三時を過ぎたころ、まな姉が帰ってきたのが分かりました。マー兄と一緒に。下から聞こえた男の人の声に、
「誰か来たの?」
と、落ち着かな気なノブ。それを見た優美が悪い笑顔で、
「あやのパパ⋯」
何か言いかけましたが、私が遮りました。ほんとにノブをいじるのが好きな奴。
「おばさんと、お母さんの友達。ノブは気にしなくていいよ」
と、教えました。私は下の話が気になりましたが、二人がいるので盗み聞ぎに行くわけにもいきません。
「ただいま」と聞こえた後、少し難しいと言うか、申し訳なさ気な顔で居間に入って来たまなみ。かおりは「おかえり」と言えず、
「どうかしたの?」
と、いきなり質問調になりました。後ろから入って来た正善は明るい顔で、
「まなみの仕事の件は落着したから」
と、告げます。かおりはまなみに歩み寄って、
「良かった。安心した」
と、手を取りました。
「やっぱり姉さんが依頼人か⋯。ほんとにええの?」
「当たり前でしょ。お茶入れるから座って」
と、台所へ行きます。二人も台所のテーブルに着きます。
「紅茶? コーヒー?」
と、かおり。二人はコーヒーと言いました。かおりが三人分のコーヒーを用意して席に着きます。まなみはまた浮かない顔で、
「⋯さっきの話。やっぱり姉さんと離れたくない」
と、言い出しました。かおりと正善は顔を見合わせます。そして、
「私を、妹の未来を奪った極悪人にしたいの?」
と、かおりが言います。まなみは姉の目を見て、
「でも、私が向こうに行くの九月の終わりころだよ。それって⋯」
途中で言いやめて俯きました。かおりも正善も、まなみが何を言いかけたか想像がつきました。かおりは正善に小さく頷いてからまなみを正面から見ます。
「私が病気じゃなくてピンピンしてたら行くでしょ?」
「そりゃ⋯そうやけど」
「で、まなみが向こうに行くなり、私が車にでもひかれて死んじゃったら? 同じやない?」
「⋯⋯同じやないよ」
少し間を開けてからまなみが言います。でも、かおりは間をあけずにはっきり言います。
「だめよ。あんなに喜んでたでしょ。新しい場所での新しい仕事。なにより必要とされたこと。まなみにとって、一番大事なことだよ。まなみを必要としてくれた人に対しても、私を悪人にしないで」
かおりの優しく強い言葉に、まなみはしばらく動けませんでした。やがてまっすぐ姉の顔を見返して言います。
「ありがとう、姉さん」
「うん、頑張って」
「でも、日本を離れるまでは出来るだけ傍にいるから。ううん、向こうに行っても何かあったらすぐに帰って来るから。呼んでくれたらすぐ帰って来るから」
そう言うまなみにかおりは、
「バカ、近所に遊びに行ってるわけやないんやから、すぐすぐ言うな」と笑います。
「さすが姉妹やな。一発で話がまとまってもうた。俺のこの半日の苦労はなんやったんや」
と言う正善の言葉に三人で笑いました。和やかな空気が一段落したところで、
「綾のことは? 心配でしょ、やっぱり」
と、まなみが姉に聞きます。
「当然。まだまだ子供やもん。私がいなくなったらって、いろんなことが心配」
かおりは思いを確認するようにコーヒーをすすり、続けます。
「ちがうね。私が心残りなんだ。私があの子のことをもう見ていられないって、寂しくて、心残りなんだ」
「それこそ当然だよ」
まなみも穏やかな口調で言います。
「綾は大丈夫。綾自身も私が思ってる以上に強い。強い子やって今回分かった。そして、阿部のあ母さんたちもいるし、マー坊もいる。純子だって見ててくれると思う。それに、綾には私にとっての聡子、ううん、それ以上に優しく、強く、一途に寄り添ってくれる人がいる」
かおりは自分に言い聞かせるように言いながら、優しい顔で上を見ました。そして、
「こんな風に言ったら、聡子怒るかな」
と、笑いました。まなみも上を見上げてから、
「玄関に靴がいっぱいあったけど、優美ちゃん?」
と、聞きました。
「そ、それとノブ君も来てる」
かおりが答えます。
「ノブ君? ⋯私知らんかも」
「中学時代の綾のボーイフレンド、かな?」
「へ~、綾にもそういう子がおったんや」
姉妹で顔を見合わせくすっと笑います。
正善は聡子の名前が出てからあることを考えていました。そして一つ思いつき、二人の会話が途切れたタイミングで口にします。
「かおり、二十日の金曜、聡子の墓参り行かへんか?」
「聡子の名前出したから思い出した? 泣かないでよ」
と、かおりは正善をからかいながら、
「行きたい。けど急すぎ、それに遠いし」
少し寂し気に言うかおり。正善は構わず続けます。
「俺も長いこと行ってへんから行きたいねん。二十日なら仕事休めるし」
「マー坊は毎年命日に行ってると思ってた」
「いや、十年以上行ってない。社会人になってからは三回行っただけ。名古屋からは遠すぎる。毎年、今年こそ行こうと思いながら行けてないんや」
「聡子かわいそう、きっと怒ってるで。って、私は二回行っただけやから、人のこと言えんけど」
「二回? 一回は二年目くらいに一緒に行った時やろ?。そのあとはいつ行った?」
「うん、その2年後くらいかな? 命日やなくて夏に」
正善は天井を見上げて思案顔。やがて顔を戻すと、
「夏に行ったことあったっけ?」
と言います。
「ああ、阿部のおじさんが綾を海水浴に連れてったろうって。で、どうせなら聡子のお墓参りが出来るようにって日本海まで。お盆には少し早いお参りやったけどね」
「ああ、その話は聞いたことあるわ」
聞いていたまなみが口を挟みます。
「私行ってないよねぇ?」
「うん、あんた部活かなんかで留守番やったわ。2日空けただけで家ん中ぐっちゃぐっちゃにしてたときや」
と、かおり。まなみはかおりの嫌味に反応せず、さらに聞きます。
「遠いってどこにあんの? 日本海?」
「宮津」かおり、正善同時に答えます。
「宮津ってどこ?」
「京都の北の方、天の橋立知ってるやろ? あのあたりや」
正善が教えます。
「えっ、なんでそんなとこにあんの? 水野家ってそっちの出やったの?」
まなみの再質問。
「みたいやなあ。一周忌の時に聡子のお母さんにお墓の場所聞いたんや。その時教えてもらったのがそこ。お墓のところの墓誌やったっけ、入ってる人の名前が彫ってあるやつ、そこに聡子の名前もあったから間違いない」
と、正善の言葉に続けてかおりが言います。
「おばさんは、本当はおばさんの家のお墓に入れたかったみたい。けど、水野の嫁になってる立場やから言えなかったって。それに、自分も死んだらそこに入るわけやから、そしたらまた会えると思ってそのまま水野のお墓に入れたって」
正善は聞きながら頷きます。
「おばさんの家ってどこやの? 近く?」
またまたまなみの質問。
「俺は知らん」
「山口県。も~っと遠いね。って、なんでマー坊知らんの?」
かおりが意外な顔で言います。
「いや、おばさんの出身まで聞いたことなかった」
「あれ? 聡子が話してたと思った」
と、言ってかおりは続けます。
「想像出来んかも知れんけど、聡子ってすんごい人見知りやったの、小さいころ。で、マー坊転校してきた時のクラスに聡子いたでしょ?」
「三年八組な、いたよ」
「転校してすぐのころからマー坊としゃべってたでしょ? 人見知りやのに」
「まあ、俺がお前と友達になってて、聡子はもともとお前と仲良かったから、接点があったもんなぁ」
「ちがうよ、転校してきた夏休みはほとんど会ったことなかったでしょ。あの子ここに来たら隊長命令やらされるから避けてたもん。でも新学期になってすぐ、マー坊には話しかけてたでしょ?」
「ん? でも学校の外でいつもお前と一緒やったやろ、聡子。で、俺も家が近いから結構一緒におったからやないんか」
正善の言葉にかおりは小さくため息をついてから続けます。
「たしかにそうやけど、でもその頃って、マー坊はいつも東君や伊藤君と戦争状態やったでしょ」
「戦争って」
「聡子はあの二人のこと本当に怖がってたから、あの二人に付きまとわれてるマー坊に近寄るはずないの。普通なら」
「⋯⋯」
「それでも聡子の方からマー坊と話したいって、私や純子に言うてきたんよ。何でかわかる?」
「⋯わからん」
「あの頃のマー坊の言葉や。聡子のお母さんが実家でとか、電話とかで親戚の人とかとしゃべってるのと同じやったから、親戚の子みたいって言うてた」
「山口弁か」
正善は納得しましたが、そのあとのかおりの言葉がまた不明でした。
「そ、それと名前もね」
「名前? いとこかなんかに同じ正善がおったとか?」
正善の質問にかおりがまたため息をつきます。
「聡子のお母さんの旧姓。水野になるまで聡子が名乗ってた名字。ひょっとしてこれも聡子から聞いてへん?」
「聞いてへん」首を振る正善。
「アベ。字は違ったんやけど、ほんまに親戚かもって嬉しそうに言うてたよ。って、聡子って自分のこと、なんもマー坊に言うてなかったんやねぇ」
かおりは少し呆れた表情。
「⋯⋯」
正善は、何か思い出したことがあるような顔をしましたが、何も言いませんでした。
「あんたらほんまに付き合ってたんか?」
と、意地悪い笑みでかおりが言います。
「なら、これは言わんとこかなぁ」
と、同じ笑みのままでかおり。
「なんや悪い顔になってるぞ。で、なに?」
正善は聞きますが、かおりは満面の笑みで言います。
「おしえな~い」
「⋯⋯」
「いつから水野になったん?」
まなみが正善の反応を無視して横から聞きます。
「確か小学校に上がる直前。やったと思う」と、かおり。
「と言うことは、小学校行き始めた時には市営住宅に引っ越してたんか」
まなみが言います。
「聡子の家だけね。水野さんはもともとあそこに住んでたらしいから。あれ、聡子がこの近くに住んでたって知ってるの?」
「ついこの前マー兄から聞いた。あぶなかったね、近くの人と再婚してなかったら、小学校から離れ離れやったもんね」
まなみの言葉に、
「ほんまやねぇ、今まで気付かんかった」
と、かおり。少し考えにふけっていた正善がそこで口を開きます。
「よし、二十日は仕事休む。あいつの墓前で直接文句言いたいから、かおり付き合え」
「だから急すぎやって、私も仕事あるのに。明日も昼から休むし」
と、かおり。そして、
「せめて土曜とかにしよよ」
と、そう言うかおりに正善は、
「思い立ったらってやつで早よ行きたいんやけど、来週の土日は仕事抜けれんねん」
と、言います。かおりは、壁に掛かったカレンダーに目をやって考えます。
「う~ん、休めるか頼んでみよか。話してたら私も聡子に会いたくなってきた」
かおりは笑って言いました。
「ちょっと待って、その日、私はあかん」
そう言うまなみに、かおりと正善は言いました。
「あんたは来んでええよ」
「おまえは来んでええよ」
まなみは少し怒った顔で、
「なんかデートのお邪魔虫にされた気分」
と言い、三人で笑いあいました。
平成十七年五月十六日
私が塾を終えて家に帰ったのは午後九時すぎ。学校が終わったときに、母に電話しましたが出ず。まだ病院かなと思い、塾に行ってから休憩時間に再度電話。帰ってきたら話すからと言われて終わり。帰宅するとすぐに食事。まな姉と三人で食事を始めると、母が口を開きました。
「特に話すようなことはないよ」
私が無言で母を見ていると、
「先週と同じこと言われただけ。で、これからお世話になるお薬の説明をず~と聞いてたの。普段飲むお薬や、こう言う症状が出たらこれを飲んで、とか」
と、母が食べながら話してくれました。
「説明長すぎて、居眠りしそうやった」
と、まな姉。
「そんなにたくさんお薬あんの?」
私が聞くと、ソファーの前のテーブルをお箸で指し示して、
「あの袋の中、全部薬やよ」
と、まな姉が言います。テーブルには大きめの白いビニール袋が二つありました。箱のようなものも入っています。見たこともないくらいの量の薬。
「あれ、全部飲むの?」
私の問いに、
「半分くらいは普段飲む薬やけど、残りは何かの症状が出た時とか用よ」
母が答えます。
「種類多すぎて飲み間違えそう」と、私。
「ソファーの上見て、あの半透明のケースに種類ごとに仕分けして、入れていこうと整理してるところ」
と、まな姉が言います。ソファーの上には、何かの部品とかねじとかを小分けして入れておくような、中がたくさん仕切られたケースが二つ置いてありました。結構大きなものです。
「あんなんも病院でくれるの?」
「ちゃうちゃう、帰ってきてから姉さんと薬の仕分け始めたんやけど、なんか入れ物用意せな分らんようになりそうって、ホームセンターまで買いに行ったの」
私の問いにまな姉が答えてくれます。
「先生がいろんな人と相談して、癌のお薬も入ってるけど、日常生活に影響が出ないように選んでくれたものやの」
母が言います。二人の雰囲気を見て私は少し安心していました。
「整理したら私にも教えてね」
という私に、まな姉が言います。
「整理するのを手伝ってよ。取説みたいな紙だって何枚もあって大変なんやから」
「今日は宿題たくさんあって無理」
と、断る私にまな姉が突っ込んできたりしながら、笑顔のうちに食事は進みました。
私はこの時隠し事をされていました。いえ、厳密には母も。まな姉は、母の余命は長くて3か月と告げられていたようです。
平成十七年五月二十日
阿部家の家の前でマー兄の車に母の荷物を積みました。と言っても、日帰り予定なのでトートバック一つだけ。まな姉が眠そうにしながら、私も行きたいとまだ言ってます。うちの向かいの家の玄関が開く音がしてそちらを見ると、人影が出てきます。純子さんでした。自転車を押して近寄ってきます。
「おはよ、純子」
母が声を掛けます。それに続いて、みんなも朝の挨拶。
「おはよ」と、純子さんも答えます。
「早いな、いつもこんな時間に出勤なんか?」
とマー兄が言います。時間は六時。
「始業1時間前出社って決めてるから。⋯最近かおりのとこによく来てるみたいやけど、まさか今更付き合い始めたん?」
と、純子さん。
「ちゃうわ」と、マー兄。
「今から聡子のお墓参り行くの」
母がそう言うと、聡子の? と呟いてから少し変な顔をする純子さん。でも、
「あっそう、行ってらっしゃい」
と言って、自転車をこぎ出そうとします。マー兄が、
「駅まで乗ってくか?」と、言うと、
「帰り自転車なくなるからいい」
と、行ってしまいました。母の体のことは知っているはずですが何も言いません。母とは親しいので私もよく知っていますが、よくわからない人です。二人が車に乗り込んだころ、阿部のおじさん、おばさんが出てきました。おじさんはスーツ姿で、そのまま出勤のようです。おばさんの、
「事故しないように。気を付けてね」
の言葉で出発していきました。
「着くのはお昼ごろ?」
と、私が言うと、マー坊はナビの画面を見て、
「到着予定、九時十五分」
と言いました。すでにナビをセット済みのようでした。
「はや、前の時って半日くらい掛からんかった?」
そう思って、私が早朝の出発にしたのでした。
「今は宮津までほとんど高速で行けるから。でも、朝の渋滞があるやろうから、もう少し掛かるやろな」
その後はしばらく他愛のないことを話していました。マー坊の言う通り、一時間以上渋滞気味の高速を走った後、スイスイ走るようになった頃は兵庫の山の中。到着予定も十時に変わっていました。周りの車が減って、快適な走りになった頃合いで私は言いました。
「なんか私に話あるの?」
マー坊は私の方をチラッと見て、
「なんで?」と。
「今日の予定は結構強引やったから」
「そっか?」
「まなみに今日、予定があるの知ってたでしょ?」
「⋯⋯」
「だから、私と二人きりで話があるのかなって」
「⋯話があるってわけでもないんやけど、なんとなくお前と二人で出掛けたいなって気はあった」
と、マー坊。
「まさか、朝の純子の言葉、図星やった?」
私はわざと引き気味に言います。
「純子? ⋯あほか。そんなんちゃうわ」
マー坊は朝の会話を思い出したように笑います。
「あいつは背も、言うことも、中学ぐらいから全然変わらんなぁ」
と、マー坊が続けます。
「背のことは言ったらあかんって、この年になっても気にしてるんやから」
私も笑いながら言います。
「でも、優しいところも、友達思いなところも、純子は中学時代と変わってへんよ」
私は遠くの山を眺めながら言います。
「ちょっと言葉足らずやから、誤解されて損してるところも変わらへん」
「言葉足らんくせに、いらん一言が多いよな、あいつ」
私の言葉を受けてマー坊がそう言います。
「この前の話、教えてくれよ」
しばらくしてマー坊がそう聞いてきます。
「⋯なんの話?」
「いや、聡子のこと話してた時に、これは言わんとこって教えてくれんかったことがあったやろ」
私は思い当たりましたが、少し考えてから、
「そんなこと言ったっけ?」
と、とぼけました。
「⋯ま、別にええけど」と、マー坊。
トイレ休憩でサービスエリアに寄りました。私がトイレを出るとマー坊が車にいません。まだトイレかと思いながら見回すと、建物横にドッグランがあり、一匹の犬が飼い主らしき人の周りを走り回っていました。その傍のベンチでマー坊がその様子を見ています。私は歩いて行き、隣に座りました。私に気付いて、
「行くか?」と言いますが、
「休憩。しばらく見てていいよ」
と、言いながら、私は足をのばして伸びをしました。
「シェットランド欲しいって、昔言ったことがあるんや。世話出来んやろって却下されたけど」
マー坊が言います。
「あの犬、シェットランドって言うん?」
「ちがう。あれは多分コーギーや。似てるって言えば似てるけど」
二人でしばらくコーギーを見ていました。いい天気で少し暑いくらい。でも風が吹くと気持ちいいというよりは、少し涼しいかなって感じ。しばらく無言でいると、マー坊が口を開きました。
「今日は⋯、まなみや綾と離れたところでお前の気持を聞きたかったんや、本当は」
「⋯⋯?」
「この前親父がこう言ったんや、かおりはあの二人が傍におるから気持ちを吐き出せないんとちゃうかって」
「気持ちを吐き出す? 吐き出させてどうすんの?」
私は聞きました。
「いや、色々吐き出したいことがあるんやないかと⋯」
言わんとすることは分かりました。
「⋯別にないよ、吐き出すことなんて」
私は言います。
「だって、なんだかんだ言っても、自分でもまだ信じてないもん。自分の寿命」
「⋯⋯」
マー坊は少し驚いたような顔で私を見ます。
「検査の結果やお医者さんの言葉。お父さんの事。そんなあれこれで、なんとなく覚悟って言うか、よくわかんないところで納得しちゃってるとこがあるけど⋯」
「⋯⋯」
「でもどこか本音では、私は大丈夫、そんなに悪くならない。とかって思ってる」
「かおり」
「だって、絶対信じたくないもん、自分の本音としては。⋯でも、そんなこと言えないでしょ、綾には。まなみにもだけど」
「⋯⋯」
「言えば、そんな私の本音を知ったら、あの二人は苦しんじゃう。それだけはしたくない」
マー坊は私の顔から眼をそらさずじっと見つめています。なんだか私の方が目をそらしてしまう。
「何と言えばいいか俺には言葉がない、情けないけど。でも、お前の本音がそこにあるってのは分かった」
「うん」
「ちょっと安心した。いや、安心すべきことやないんか⋯」
「何が?」
「本音はまだ死にたくないってことやろ」
「あっ、そだね」
「それが聞けて良かった」
「⋯当然でしょ」
「当然や」
「あっ、これって吐き出したってことになるんかな」
私は空を見上げて言いました。
「なるなる」と、マー坊。
「そっか~、吐き出さされちゃった」
「出さされたって⋯」
「じゃあついでにもう一つ吐き出すか」
「まだあるんか」
「さっきの話。⋯知りたいでしょ?」
私はマー坊の目を覗き込むようにして言いました。マー坊は前を向いたまま沈黙。何のことか考えている様子。やがて思いついたような顔をした後こう言います。
「別に、話したくないことならええよ」
「なにそれ、聞きたかったんとちゃうの?」
と、少し睨むように私は言います。
「こっちこそなにそれや、話したくなかったんとちゃうんか?」
「も~素直やないなぁ。せっかく教えたる気になってるのに、教えてって一言が言えんかなぁ」
私は少し口を尖らせて言います。
「そう言うなら教えて欲しいけど、言いにくい何かがあったんとちゃうんか?」
と、マー坊。
「言いにくいと言うか、言ったら聡子が怒りそうと言うか⋯そんな感じ」
言ってから私はフフと笑います。
「聡子が? 分かった、後で聡子に会ったら一緒に怒られたるから教えてくれ」
マー坊も笑顔で言います。
「えっとねぇ、もったいぶった割に大した話やないんやけど」
「⋯」
「高校入ったころに、聡子が子供向けの学習机から、普通の学習机に買い替えてもらったの」
「うん」
「でね、新しい机が来る日に、ついでに部屋の模様替えするから手伝ってって言われて手伝いに行ったの」
「⋯」
マー坊は口を挟みませんが、何か考えている様子。私は続けます。
「その時に押し入れから、引っ越しの時に詰め込んだままの段ボールが出てきて、その中に幼稚園の頃の聡子の物がいっぱい入ってたの」
「うん」
「その中の物にはね、あべさとこって、みんな名前が書いてあったの」
「うん」
「それを見て聡子が、マー坊と結婚したら、また、あべさとこって書けるって言ってたの。それだけ」
私は言い終えてマー坊の顔を見ました。でも何の変化もなし。むしろちょっと不思議そうな顔をしてこう言います。
「その話、その直後くらいにお前から聞いたよなぁ」
「うそ~、言ったっけ?」
私は少し恥ずかしくなりました。
「正直に言うと、この前まで完全に忘れてた。けど、当時はそう言われて少し照れたことも思い出した」
「この前?」
「聡子の前の名字が安部って教えてくれた時」
「ああ」
「それまでは完全に忘れてた。聡子の前の名字も」
気付くとコーギーはいなくなっていて、私たちもそこで出発しました。
その後はすんなり走り、十時過ぎに到着。と言っても、それはお墓のあるお寺まで。お寺の墓苑で迷いました。墓苑が整備拡張されていて、私やマー坊の記憶と一致しません。しばらくうろうろ探し歩いてから、
「前からあるお墓やから、下の石畳が新しいところは違うんとちゃう?」
と、言う私の意見に、
「それ正解や。石の古いところ探そ」
と、マー坊も賛成。またしばらく二人で下ばかり見て歩きました。するとマー坊が立ち止まり、
「かおり、このお墓、どう見てもむっちゃ古いよなぁ」
と、横の墓石を示します。確かに十年二十年と言った感じではない墓石。いつからあるの? って感じです。
「通路の石は全部新しくなってるんやねぇ」と、私。
「よし、古そうなお墓が多いところやな」
と、言うマー坊。周りを見回すと、まさに今いるところがそうでした。でも今まで歩いて来たところにも、そういうところがあったように思います。ここはもともと広い墓苑だったので、それが拡張されて迷路のよう。ところどころにエリア名と思われる、「レンゲ」「スミレ」などと、お花の名前が書いてある小さ目の立札が立っています。おそらく参拝者は、それを目印にお墓を探すのでしょう。ちょっと疲れてきた私は立ち止まって、目だけで周りを探します。すると付近を探し回っていたマー坊が、二列ほど離れたところから呼びます。
「かおり、ここや!」
私はそこまで行って、「水野家」と書かれた墓石を見ます。記憶と一致します。ただ、記憶の中のお墓はきれいに掃除されていて、周りの多くの古いお墓と同じで、敷地には玉砂利が敷き詰められていました。ですが、墓石周りの床はセメントで固められていて、セメントの割れ目や、墓石との隙間からは雑草が生えていました。マー坊が水汲み場から桶と柄杓をもって来ます。
「まずは草取りと、掃除やなぁ。お前疲れたんやろ、休んでてええぞ」
と言ってくれます。顔に疲れの表情が出ていたようです。
「ごめん、ちょっと休むね」
と言って、近くのお墓の端に腰を掛けさせてもらいます。
「よく見つけたねぇ」
「そこの水汲み場に見覚えがあったんや」
と、雑草を引き抜きながらマー坊が言います。
「しっかり根付いとるけど、彼岸のお参りにこの家の人は誰も来んかったんかなぁ」
作業をしながらマー坊が言います。私は腰を掛けているお墓の、きれいに手入れされた玉砂利を掌で触りながら、
「そうやねぇ」
と呟きました。と、不意にマー坊が少し大きな声を出します。
「かおり、こっち、これ見て」
マー坊は墓誌の裏側の雑草を引き抜いたところで手を止めています。少し驚きの表情。私もそちらに行ってマー坊の示すところを覗きます。えっ? 私も驚きました。以前、聡子の没年月日と名前が彫ってあったと思われる一行が、四角いますのようにきれいに削られ消されています。
「なんで? どう言うこと?」
私は墓石を改めて見ます。「水野家」と確かになっています。記憶とも合っています。
「なんで?」
また同じ言葉が口から出ました。マー坊も何とも言えない表情をしています。私たちはとりあえず掃除を済ませて、用意してきたお花とお線香でお参りをしました。
車に戻っても、重い空気が二人を覆っていました。名前の削られた石が私の頭の中に蘇ってきて、胸が苦しくなりました。聡子が完全に、この世界から抹消されたように感じました。悲しいというより、怒りのような感情でした。聡子、どこ行ったの? あんたどこにいるの? 心の中で言います。無性に聡子に会いたくなりました。お墓に行ったところで会えるわけではないとわかっていますが、会いたかったです。海岸沿いの食堂に寄ってお昼にしました。注文を終えてからマー坊が言います。
「おばさんは、自分の家のお墓に入れたがってたよな。ひょっとしたらそっちに遺骨を移したんとちゃうか?」
「あ、そうか、そうかも」
私は少し明るい気持ちになって言いました。
「聡子がおった市営住宅、何年か前に建て替えたやろ。まだあそこに水野さんとこおるんか?」
マー坊が聞きます。
「それが分らんの」と、私。
「⋯⋯?」
「建て替え前、十回忌の時。仏壇にお参りしようと思って行ったら、違う名前の表札やったの。一応そこに住んでた人に聞いたけど、前の人のことは知らんて」
「引っ越したってことか」と、マー坊。
「毎年命日にお参りとかって、さすがに迷惑かなって、五年目のあとは私も行ってなかったから。毎年行ってればよかった」
「引っ越したって教えてくれたらよかったのに。⋯でも、聞いててもなんもできんか」
「ごめん、言ってなかったね。⋯でもねその時、ちょうどお父さんが最後の入院中やったの。その一週間後くらいに亡くなったの。そんな時期やったから忘れてた」
私はそう言いました。その後は他の話題で食事を終えました。食後に私が飲む薬の量に驚いた顔をするマー坊を見て、おかしくなりました。
せっかくだからと天の橋立を歩き、少し散策をしました。帰りの車中も、他の他愛もない話題で楽しく過ごしました。と言っても、私は途中からずっと寝ていましたが⋯。マー坊の家の前まで帰ってきて、車を降りたのは七時前でした。車の横で少し話していると、いつの間にか純子が後ろにいました。
「おかえり」
と、言われてびっくりして振り返ります。
「ただいま、いきなり現れたらびっくりするやん」
と、言う私の言葉を無視して、
「聡子のお墓あった?」と、言う純子。
「名前が消されとったんや、なんか知ってるんか?」と、マー坊。
「おばさんたち離婚したから。今朝、聡子の墓参りって聞いて、まだ前の水野の墓に入ってるんかなぁって思っただけ」
「そう思ったんなら、その時言ってくれよ」
「いや、ひょっとしたら移った新しい墓を知ってるんかなって」
そう言う純子に私が聞きます。
「おばさん離婚してたん? おばさんと今も連絡取れる?」
「ううん、実家に帰るって言ってただけで、実家がどこかまで知らん」
「純子は離婚したこととか、実家帰るとかなんで知ってんの?」
私は重ねて聞きます。
「前に駅でおばさんに会ったの。その時にもうすぐお別れって言われたから、なんでって聞いたらそう言うてた」
「それはいつ頃?」
「⋯確か、かおりのお父さんが亡くなる1年か2年前やったと思う」
「⋯⋯」
私もマー坊も言葉がありませんでした。純子が背を向けて帰ろうとしたのを見て、
「おばさんの実家に心当たりないか?」
マー坊が純子に聞きます。純子は少し考えてから、ついてくるように手招きして歩き出します。「帰ってるかなぁ」と呟きながら。着いたのは東さんの家の前。玄関をノックしながら「こんばんは」と言って待っていると、玄関が開いて優美ちゃんが顔を出しました。
「あ、純子ちゃんこんばんは」
優美の出迎えに純子が返します。
「ちゃんはやめてって。お父さんいる?」
「だって純子ちゃん私と背が一緒くらいやからかわいんやもん。パパ帰って来るの、いつも九時ころやよ」
「そう、また来るね」
そう言って帰ろうとする純子に、
「またね」
と、淡白な対応をする優美ちゃん。私たちがどうしようかと思ったところに、優美ちゃんのお母さんが出て来て言います。
「松嶋さん、こんばんは、何か用?」
「パパに用事みたい」
先に優美ちゃんが答えます。
「ごめんなさい。主人はまだ帰ってないんですよ」
と、優美ちゃんのお母さん。後ろに並んでいる私達にも気付いて、会釈をしながら首をかしげます。
「主人に何かありました?」
と、聞いてきます。
「⋯聞きたいことがあったんですが、伝えてもらえますか?」
純子が言います。
「ええ、何ですか?」
「ご主人の古い友人に、水野直哉と言う人がいるんですが、今でも連絡を取り合っているかどうか」
「⋯連絡を取り合ってると言えるかどうかは分かりませんけど、今も年賀状はやり取りしてますよ」
優美ちゃんのお母さんはそう言います。
「そうですか、その直哉さんに聞いてもらいたいことがあるので、一度連絡を下さいとお伝え願えませんか?」
純子が言います。優美ちゃんのお母さんは、
「分かりました、帰ってきたら伝えますね。遅くてもいいですか?」
と言います。
「構いません。宜しくお願いします」
そう言うと純子は、
「大勢で突然失礼しました」
と言って、玄関を閉めます。閉まっていく玄関の向こうから、
「あ、おやすみなさい」
と言う、優美のお母さんの声が聞こえました。
純子の家の前まで移動してきてから、
「直哉さんを思いついたのはさすがやな」
と、マー坊が言います。
「なんで思いつかんかったかがわからん」
と、純子。そして、連絡来たら伝えると言って、家に入っていきました。私たちはマー坊の車のところに戻って来ました。
「これで聡子のお母さんと連絡取れるかも」
私がそう言うと、
「⋯父親と離婚しても、実の母なら別やけど、継母の実家がわかるかなぁ」
と、マー坊。そう言われて私も考えてしまいました。
「ま、取り合えず考えてもしょうがない。連絡を待とう」
と、マー坊が言います。マー坊は今日中に帰るというので、その場で別れました。
その日の夜遅く。正善が名古屋の自宅に戻りパソコンのメールをチェックすると、純子からメールがありました。
『東さんに聡子のお母さんの連絡先を、直哉さんに聞いてほしいと伝えました。直哉さんにすぐ電話してくれました。直哉さんが言うには実家に帰ればわかるかもとのこと。実家は引っ越して豊中とのこと。直哉さんは現在東京に在住。近いうちに都合をつけて実家に帰って調べてくれるとのこと。父には聞けないと言われたようです。連絡先が分ったら、知りたがっているのはかおりなので、かおりに教えるように東さんに依頼しました。』
正善は、なんで話すよりメールの方が丁寧なんやと思いながら、感謝のメールを返しました。
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