第三章

昭和五十五年七月十五日火曜日

   (始まりの日)


 ある市立中学校の二年十九組の教室は、朝からちょっとした騒ぎになっていました。原因はクラス内で悪目立ちしている加藤雄二。悪目立ちしていると言って、彼は不良というわけではありません。大柄で筋肉質な体格に怖い顔つき。それでそう思われているだけ。でも、そう思われて周りから敬遠されがちなので、普段の態度も良いとは言えない。ちょっと怖くて近寄りがたい存在。それでも女子からは少なからず人気がありました。彼自身もなんとなく女子の視線を感じていました。あまり近寄ってはこないものの、自分はモテていると自覚していた。そんな彼は六月に行われたクラス対抗の合唱祭の時に、担任から実行委員に無理矢理指名されました。女子の実行委員には、クラスで唯一合唱部所属の山中かおりが選ばれた。小柄な女子が好みであった彼。背の高いかおりは気になる女子ではなかった。でも、彼を怖がることもなく親しげに接する彼女。実行委員の仕事として頻繁に会話し、一緒に作業していた彼女。なにより練習中、本当に楽しそうに歌う彼女の姿。彼が思いを寄せることになっても不思議はない。だが問題があった。彼女は阿部正善と一年の時から付き合っているという噂だった。二人は小学校からの友達で家も近く、今年は同じクラスになっている。確かに、付き合ってるって感じではないが、この二人は異常に仲がいい。付き合っているのが本当であれば、告白したところでフラれるのが落ち。それはモテていると思っているプライドが許さない。そんなわけで、合唱祭が終わって一か月以上も悩んでいた。それが数日前、阿部は八組の水野と付き合っているという話が耳に入った。同じ学年に千人もいる同級生、名前と顔が一致する方が珍しい。でも八組の水野聡子は知っていた。なぜなら、阿部を訪ねてこのクラスによく来る女子だったから。小柄でかわいい女子。周りの友達に名前を教えてもらい知っていた。加藤の中で問題は解決した。ただし、聡子が正善と話していることも多いというだけで、訪ねている相手はほとんどかおりの方だという認識は抜けていた。

 そして期末テストも終わり、夏休みまであと数日という昨日。加藤は昼休みに、かおりが周りに人がいないところを歩いているのを見つけ(後をつけていた)、ついに交際を申し込む。結果は断られてしまったが⋯。でもその事実は、放課後になってもクラス内で話題にも上らず、彼のプライドは保たれた。

 しかし、今朝来てみるとクラスのみんなが知っている。彼は彼女がしゃべったんだと思った。実際は昨夕、彼が親友だと信じているクラスメイトの友達に、フラれたことを話していたのだ。その友達が朝からクラス中に言いふらしていたのである。そんなことは知らず、悪目立ち仲間からからかわれたりの攻撃を受け、イライラが溜まりに溜まったところへかおりが登校してきた。彼女が席に向かうのについて行き、彼女が座ろうとした椅子を横から蹴り飛ばした。

「きゃ!」と床に尻もちをつく彼女に、

「山中!、お前最低の女やなぁ、なに言いふらしてんねん!」

怒鳴りつけました。かおりは訳が分からず、「か、加藤君なんで?」と、怯え気味。他のクラスメイトも一瞬のことに皆な固まっていました。でも一人の女子が加藤に怒鳴り返します。

「言いふらしてんのは尾崎や! 加藤最低! かおりに謝れ!」

彼は顔を真っ赤にし、その女子やかおりには何も言わず、

「尾崎! お前なにさらしとんねん!」

と、昨日自分から暴露した友達に向かっていきます。

「えー、だって加藤君、皆に内緒って言わんかったやん」

尾崎君は後ずさりますが、すぐに胸倉を締め上げられました。しかし、加藤の悪目立ち仲間が「誰にも言うなとかって言わんかったお前が悪い」などとおかしそうに言って止めに入ったので、それ以上のことはなし。ところが加藤の怒りが溜まったままのこのタイミングで、部活の朝練を終えた正善が教室に入ってきました。昨日交際を申し込んだ際、「他に好きな人がいるから」と、断られていた加藤。好きな人イコール正善と結び付け、

「阿部! お前水野と付き合ってんやろ! 付き合ってるってはっきり言えや!」

怒りの咆哮を今度は正善に浴びせました。部活ばかりの正善は、どっちかというとクラス内での付き合いが少ない。加藤とはおそらくほとんどしゃべったことがないと思われる。正善はちらっと加藤を見て「ちがうよ」と、自分の席に向かおうとします。その正善を加藤は、

「嘘言うな!」

と、思い切り突き飛ばしました。阿部は机四、五台を巻き添えにして床を転がります。皆は加藤周辺から離れていたので、他の人に被害はなし。ちょうど机たちが賑やかな音を立てていたころに、始業の予鈴が鳴っていました。故に、担任も教室に現れる時でした。音にびっくりしながらも担任は状況を見極め、

「加藤、阿部、何してるんや。前に来い」

そう言って二人を教室の前に立たせます。その時正善の額からは血が流れていました。クラスメイト達は乱れた机を直して席に着きます。簡単にホームルームを終わらせると、担任は二人を連れて出て行ってしまいました。

 一時間目が終わるころ、加藤だけが帰ってきました。休み時間に「阿部は?」とか「どんなふうに怒られた?」等と悪目立ち仲間が話しかけましたが何も答えず。ずっと不機嫌な顔で沈黙していました。

 三時間目は担任の授業。授業の初めに、

「阿部はおでこを切ったみたいだったから、他の先生が病院に連れて行った。三針縫う怪我だったので今日は家に帰らせたけど、他は何ともないようなので心配しないように」

と説明がありました。これでとりあえず一旦落着かと、みんなが思っていました。でもまだ大きなイベントが昼休みにありました。

 八組の水野聡子は十九組での騒ぎを、昼休みまでに伝え聞いていました。本当は休み時間に十九組まで出向いて、かおりと直接話したかったのです。でも違う校舎にある十九組まで、休み時間での往復は無理でした。そして中途半端に聞こえてくる情報で怒っていました。もう目的はかおりに事情を聞くことではなく、正善に怪我をさせた相手と話すことになっていました。昼休みになり、お弁当を最速で食べ終える。そして、親友の一人である松嶋純子の制止も聞かずに十九組へと向かいます。

「加藤君っている?」

十九組の教室の後ろのドアから大きな声で呼びかける聡子。誰も反応しません。加藤自身も戸口の方を見て、聡子を確認しましたが返事をしません。かおりは聡子の姿を見て立ち上がり掛けます。でも戸口に近いところにいた男子、聡子と目が合ったので加藤を指さして教えました。「失礼します」と控えめに言ってから教室に入ってくる聡子。加藤のそばまで来て、

「あんたが加藤君? 会ったことある?」

と切り出した。加藤は無視して、食べ終えた弁当箱を片付けています。

「会ったことないよねぇ?」

たたみかける聡子。

「会うたことなかったらなんやねん」

朝以来初めてしゃべる加藤。すると聡子は、

「会ったこともないのに何で私とマー坊が付き合ってるとかってヤキモチやいてんねん」

と、あんまり見せない怒った顔で言います。

「挙句にマー坊殴って怪我さしたって? アホちゃう? あれでもマー坊喧嘩強いんやで、あんた後どうなっても知らんで」

「誰が妬いてんねん?」

加藤もとうとう立ち上がって、小柄な聡子を見下ろして言い返します。

「だいたい、私に告ってフラれてから妬くもんやろ? 順番もおかしいやん」

でも聡子はお構いなし。ちょっと言ってることは変だけど、怒りの中にある聡子は思ったまま言葉にしている。

「だから誰が妬いてんねん!」

と、加藤は返します。

「どっちにしろ、マー坊と付き合ってるんはそこのかおりや! 勝手に人の名前出して学校中に広めんといて」

聡子はとんでもない発言。真っ赤になって何か言い返そうとした加藤ですが、聡子が話し終わったと同時に起こった、

「うっそ~!」

「かおりそうやったん?」

等と言う他の声に抑えられ、何も言えませんでした。

 とんでもないところで事実無根の交際を公表されたかおりは、聡子に走り寄って隅に連れて行くと、

「何言うてんの、ひどいよ」

と、怒った顔をしました。聡子はその顔を見て少し困惑。そして何かを悟ると、

「⋯ごめん、付き合ってること内緒やったんやね。ほんとにごめん」

申し訳なさ気な表情になり、そう言いました。

「ちがうよ、付き合ってへんよ私たち」

かおりは真っ赤になって言います。それに対して聡子は、

「あれ? なんで? 付き合うんやなかったっけ?」

と、不思議そうな顔です。

「もう、ちゃうって言うてんのに」

かおりは赤い顔をしたまま、また少し怒ったように答えます。二人の周りには数人のクラスの女子が囲むように来ており、それに困っているようにも見えました。聡子は少し間を開けてから真面目な顔で、

「付き合う気ないの?」と、尋ねます。

「⋯ないよ」

「ほんまに?」

「⋯ほんま」

「私が付き合うって言うたらどうする?」

「⋯ええんちゃう?」

「ほんまにええの?」

「⋯ええよ」

聡子は少し考えてから、

「じゃあ、私がマー坊と付き合うね」

と、言い出しました。途端に周りの女子から

「お~すご~い!」

「頑張って~!」

等の声が上がり、なぜか拍手まで。ちょうどそのタイミングで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、聡子を含めみんな解散となりました。

 こうして加藤は、一瞬にして騒動の中心人物から降ろされ、心の傷はわかりませんが、これ以上深くプライドを傷付けられることはなくなりました。一方正善は、本人の意思を確認されることもなく、さらに不在の状態で、今日中には二人を知るほぼすべての人が公認とする、カップルの相方にされてしまいました。

 廊下まで様子を見に来ていた純子は、正善が怪我させられたことに怒った聡子が、相手の男子と喧嘩を始めないかと心配していました。その心配は無用となりましたが、意外な展開に別の心配が生まれて気が重くなりました。純子は見ていました。予鈴とともに席に戻るかおりの、泣きそうな顔を。




昭和六十一年十月七日火曜日

   (終わりの日)


 かおりと純子は、子供のころからの友達何人かと並んで泣いていました。いいえ、五十人ほどでしょうか、並んでいるほとんどの人が、程度の差こそあれ泣いているようでした。クラクションの音が響き渡ると、聡子を乗せた大きな黒い車が、ゆっくりゆっくり、動き出しました。見送る人たちの思いを、長く細く引いていくように、そして断ち切るように。

 この二日間、激しく泣き続けていた純子。今日の葬儀が始まるころには、泣き疲れて少し落ち着きを取り戻していました。でも、車列が遠ざかっていくと再び泣き崩れてしまいました。

「聡子、聡子、聡子ごめん」

地面に額をこすりつけるように泣き続けます。かおりが隣にしゃがんで、寄り添うように泣きながら純子を起こそうとしますが、

「私のせいで⋯、聡子ごめん」

と、この二日間繰り返していた言葉を続けるのみ。かおりは聡子を亡くした悲しみより、純子が壊れてしまわないかという心配の方も大きくなってくるぐらいでした。しかし、もっと心配な人物がいました。今朝早くに姿を消し、葬儀に参列しなかった人。正善でした。


 「本格的に寒くなる前に、もう一度海を見に行こう。」

その日曜日、純子、聡子と、もう一人の女子三人でツーリングに出ました。三人はオートバイ仲間。こうやって出かけるのはよくあること。その日は和歌山の千畳敷が目的地。千畳敷の岩の上を歩きながら、

「夏にまた来るからね~」などと、海に叫んだりして遊んだ後の帰り道。海沿いの国道で、何にもないところにある信号が赤に。大きなトラックの後ろに三台並んで停まりました。その時左側に停まった一人が後ろからのトラックの動きに気付いて、

「危ない! うしろ!」と、叫びました。

 彼女は咄嗟に左側によけ、右側にいた純子は右によけました。中央にいた聡子はどちらにも動けず⋯。前方不注意でブレーキの遅れたトラックは、前のトラックにぶつかるまでには停まりました。しかし、聡子のオートバイと、聡子の体を跳ね飛ばしたあと。路上に転がった聡子の体はピクリとも動かない。対向で走ってきた乗用車が横に止まります。運転手が、「この先に家かなんかあったから、そこから救急車呼んでもらう」と、急発進していく。純子たちはぐったりした聡子の体を動かしていいかどうかも分からず、傍らでおろおろしていました。でも、聡子がまだ呼吸しているのは分かり、その点は安心していました。

 救急車とパトカーがほとんど同時に到着しました。友人一人が事情聴取で残り、純子は救急車に同乗しました。そして、その救急車の中で、聡子の心臓は止まり、二度と動くことはありませんでした。

 聡子の家はかおりや純子の家がある町内から、田んぼを何枚か挟んだ向こうにある市営住宅。その敷地内にある集会所に、聡子の身体は帰ってきました。駆け付けた正善の姿を見るなり、純子は走り寄り、彼の足に縋りつくように跪きました。

「マーごめん。わたしのせい、わたしのせいなんや」

泣きながら告げます。正善は純子に構わず、奥に置かれた棺の方にフラフラと歩きだします。

「私が聡子の逃げ道塞いだんや。私がもっと早く動いてたら⋯。聡子ごめん、ごめんなさい」

正善を目で追いながらそう言っていた純子は、途中から床に伏せて泣きじゃくりました。正善は棺に手をついたあと、近くにいた葬儀屋の人に声を掛けます。

「顔を見れますか?」

葬儀屋の人は棺の蓋の顔の位置についた扉を開けてくれました。すました顔で寝ているような恋人の顔をしばらく見つめたあと、

「聡子」と、小さな声で一言。

潤んだ眼をしていますが泣いてはいないようでした。

「純子、お前のせいやない。俺がバイクに乗るようになったから、こいつはバイクの免許取ったんや。⋯俺のせいや」

棺の中の顔を見つめたまま正善は言いました。

 棺の反対側の椅子に座り、棺に頭を預けていた小柄な女性が、正善の声に立ち上がって正善の隣に来ました。聡子の母親でした。聡子の母親はもう、精も根も尽き果てたような姿。顔は泣き続けているままのよう。彼女は正善の手を取って何か言おうとしましたが、言葉が出ず、棺にもう一方の手をついて、娘の顔を見ながら更に泣いていました。


 かおりも純子と一緒に、通夜の前からずっと泣き続けていました。通夜が始まると少し落ち着かせていた心の中。でも焼香の際に正面から見てしまった遺影の写真。酷なくらいに優しく微笑んだ聡子の顔。もう立ってられず、座り込んで泣き崩れてしまいました。これも隣に並んでいた純子と一緒に。正善はかなり長い間遺影の顔を見つめたあと、焼香を済ませました。

 通夜の後、かおりたちはそのまま家族と一緒に残りました。みんな子供のころからの付き合い。親同士もみんな見知った間柄です。それが一層深く大きな悲しみ、寂しさを、ここに現出させていたかも知れません。純子は聡子の家族以上に、ずっと棺に寄り添い泣いていました。聡子の母親は通夜が終わった後とうとう倒れてしまい、別室で寝かされていました。正善も泣きはしていなかったものの、棺の横に置いた椅子に座り、棺に手を置いたままうつむいていました。かおりは会場の後ろの戸口でその姿を見ています。その正善の姿は本当に痛々しいもの。気付くと父親が隣に来ていて小声で言いました。

「〇〇君、明日の葬儀に来るって?」

〇〇君というのはかおりの交際相手。つい最近のことですが、来春かおりが短大を卒業したらすぐに結婚することになっています。なので、婚約者と言えます。

「うん。仕事抜けて来るって」

「そこまでして来んでもええのに」

「⋯聡子に結婚するって言ってなかったから、二人で報告したいの」

「わかった。⋯マー坊は大丈夫か?」

父親も正善の姿を見て心配そうに言いました。

「うん、私見てるから」

「お前もだいぶまいってるやろ、無理するなよ」

そう言って、まなみを連れて帰っていきました。入れ替わるように後ろから東が横に来ます。彼はかおりたちの二つ上で、かつてかおりたちをいじめていたガキ大将のひとりです。彼は聡子のお兄さんと同い年で、親友とも言える付き合い。それで聡子とも親しかったのです。本当にこのあたりのコミュニティーは親密で狭い世界です。

「親友の葬式で彼氏といちゃつくんはあかんのとちゃうか」と、東。

「聞いてたんなら、違うってわかってますよねぇ」

子供のころとは違い、今では近所の昔から知ってる先輩。普通に親しい会話が成立します。

「しっかり報告して、安心させてからいかしたれよ」

と、言ってくれました。

「でもマーはあの様か。いっそのこと思いっ切り泣けばええんや。俺が泣かしにいったろか、一発どついたら泣くやろ」

「やめとってください。もう子供やないんやから」

そのあと少し話した後こう言います。

「明日は用事で来れんから、俺の分もちゃんとお別れ言っといてくれ」

「妊娠しちゃった彼女の用事ですか?」

かおりは少し意地悪に言いました。もう町内中が知っていること。月末には慌てて挙式することになっていました。

「仕事や。おまえなぁ、この場でそんなこと言うか?」

「冗談です。ちゃんとお別れ言っときますから」

かおりがそう言うと東は帰って行きました。でもかおりは東との会話で一つ決めたことがありました。「マー坊を泣かす」これです。かおりが見ている限り、正善はここまでほとんど泣いていません。多分泣きたいはず。何かがあってかなくてか知らないですが、泣けないだけだと思いました。


 もうそろそろ外が白み始めるかなってころ。棺に寄りかかって泣き続けていた純子は、事故以来ほとんど寝ていなかった無理もあり限界を迎えました。両親に抱えられるようにして畳の部屋に行きます。式場には棺の横に座る正善のみ。かおりは棺のところまで行き、通夜の時に閉じられたままの棺の扉を開けました。そして正善にささやきます。

「聡子の顔見て」

正善はうつむいたまま反応しません。

「マー坊、聡子の顔見て」

少し強く言いました。今度はのそのそと立ち上がり、正善は棺の中を覗きます。

「聡子の顔、しっかり焼き付けて。マー坊の中に」

かおりは泣きそうになるのをこらえて言いました。正善の目が潤んでいきます。かおりは泣くのを我慢しながら、精一杯優しい声で言いました。

「もう、泣いていいよ」

途端に正善の目から涙が溢れだします。正善は恋人の顔から眼を放さず、大きな声で泣きました。恋人の名を呼びながら泣きました。かおりは正善の泣声を聞きながら聡子の顔を見ます。なぜだか、かおりの涙は止まりました。聡子の父親と他に数人が、何事かと式場に姿を現しました。でも、二人の姿を見ると静かに戻って行きます。

 どのくらい経ったか分かりませんが、外がだいぶ明るくなっていました。正善ももう泣いてはいませんが、二人は聡子の顔をずっと見下ろしたままです。お線香の様子を見に来た葬儀屋の女性に正善が言いました。

「顔に触れたいんですが、ダメですか?」

葬儀屋の女性は、

「少しお待ちください」

と、離れていきました。しばらくすると先程の女性が、他に二人の男性を連れて戻ってきて言います。

「ご遺族のご了解が頂けましたので蓋を開けますね。もう少しお待ちください」

男性二人は棺の蓋を顔が触れるくらいにずらすと下がっていきました。

「そっと触れてあげてくださいね」

そう言って女性も下がっていきます。正善は右の掌で聡子の左頬にそっと触れました。触れたまま動きません。泣きもしません。じっと恋人の顔を見ています。かおりは棺の頭の方に回って、聡子の右頬にそっと手を添えました。聡子の肌の感触に、かおりの中で何かが弾けました。また涙が溢れてきました。幼馴染との、親友との、いいえもっと大切な何かとの永遠の別れを、この時一番実感しました。かおりは聡子から手を離すと、床に座り込み泣きました。声を出して泣きました。


 かおりの泣く声が治まったころ、

「聡子⋯、ありがとう」

正善はそう言って、そっと手を離します。そして正善の声に顔を上げたかおりと、少しの間目を合わせたあと式場から出ていきました。かおりは立ち上がって正善を見送ります。正善の姿が見えなくなってから、かおりはもう一度聡子の死に顔を見ました。そして再びその頬に手を添えて、

「さよなら、聡子。また会おうね」

と、二人だけの別れを告げました。


正善はそれから何日か戻りませんでした。

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