第二章

平成十七年五月十一日


 夜の九時頃だったでしょうか、マー兄が家に来ました。まな姉は夕方出て行ったきり、連絡もないようです。私はその時、自分の部屋のベッドの上で、ただ天井を見上げていました。

 

 先日の母の入院は、治療と言うよりは検査でした。内視鏡やCT等の検査をいくつも受けていました。原因となった腹痛はすぐに処置され治まっていましたが、経過観察、各種の検査の後、五日目に退院しました。

 そして今日、MRIの検査と、この前の検査の結果を聞きに行ったのでした。私は学校があったので母とまな姉の二人で行きました。

 内視鏡で、食道、胃にポリープ様のものが確認されたと言うのは、入院中に聞いていました。その時にその部位を採取しての検査結果を知らされたのです。

⋯⋯母は、癌でした。

しかも、今日のMRIの結果を検討しないと正確には判断できないそうですが、先日のCT等の結果を合わせると、食道、胃だけではなく、膵臓周辺、大腸にも認められるようです。

 私の祖父、母たちのお父さんは癌で亡くなりました。当然、母たちには癌の知識が普通の人よりあります。そう、膵臓は難しいということも。祖父は肺癌と言われていますが、多臓器で癌が見つかったそうです。発覚した経緯は腹痛です。多臓器で進行した癌の一般的な症状だと言われたそうです。また、膵臓周辺の進行が著しく、膵管が狭くなることにより黄疸も出始めていたとのこと。運命というか、巡り会わせというか、母も同じ状況です。まな姉はすぐに手術して欲しいと、医師に懇願したそうです。医師は今日の検査結果も含めて判定をしないと最終的なことは言えないが、膵臓周辺の分布、広がりが大きいようなので、このままでは手術出来ない。抗癌剤で手術可能なところまで癌が小さくなるのを待つ必要があると言ったそうです。また、小さくなっても非常に多くの個所を切除ということになるので、そういうことが可能なのかどうかも慎重に考えなければならないと。最初に全て告げて欲しいと強く念を押していたので、かなり正直に教えてくれたそうです。四十歳くらいでここまで進行した膵臓癌はかなり稀であること。症状が出ないこの手の癌は、初期段階ではほとんど見つからない。初期段階で見つかるのは糖尿病などの治療過程でがほとんど。そして初期段階でも非常に根治が難しい癌であること。故に今後の推移が判断しかねると。多臓器疾患によると思われる腹痛を引き起こしたのに、最初の鎮痛剤の処置と、その後二回の点滴だけで治まっているのを不思議に思っていること等。母は癌だと告げられてからは無言だったようです。ですが、まな姉がすぐにでも抗癌剤などでの治療を始めるように医師に話し始めると、その時になって母は、

「父は同じ癌で九年前に亡くなりました。癌と診断されたときに、薬と放射線を併用して進行を遅らせれば、一年くらいは生きると言われました。でも、それから四ヶ月の命でした。私はどうですか? どのくらい生きられますか?」

まな姉がびっくりするくらい冷静な口調で医師に尋ねたそうです。医師は父親が膵臓癌だったと聞いて、答えずに質問しました。他に膵臓を患った親類がいないかと。すると、父方の祖母が膵炎からと思われる心不全で急死していること。母方の祖父も長年に渡って腎臓を患っていたことを母は告げたそうです。まな姉は知らなかった様子。すると医師は、膵臓の病気は遺伝的な要因も多いということが分かってきているのでそうかもしれないと。もっと若い時から膵臓は蝕まれていて、それが癌になっていったのかもと。余談的に、妹であるまな姉も普通の人よりはリスクが高いので、膵臓に負担をかけない生活を心掛けるように、一通りの指導をしてくれたそうです。そして母の質問に対して、治療を始めてからの病状や個人差で大きく違ってくるからなんとも言えない。などと言いながら、治療を受け続けても一年ないであろうと告げたそうです。MRIの結果を含めた判定で、各部分での組織への浸潤状況の詳細を確定させると、もっと悪いかもしれないと。ただ、我々がそう診断しても、三年、四年と生存された方もいると付け加えながら。でも母は、

「父の姿を見ていて、私には抗癌剤も放射線も、拷問にしか見えませんでした。それに今のお話を聞いた限りでは、治療を受けても大差ないように思いました。ですから、治療は受けません」

きっぱり言いきったと聞きました。

 その後もしばらく医師は、癌の進行を遅らせるだけでも意味があると、坑癌治療を説明し、薦めたそうです。でも母は受け入れず。それではと、今後の病状の説明になったそうです。それは徐々に日常を脅かしてくる具体的な症状と、それに対する対処。主に鎮痛剤や栄養摂取補助目的の薬剤の他、想定される細かな症状に対して都度服用する薬の使用などだそうです。ただ、いずれそう遠くない時期から、点滴等院内での施療に頼らなければならなくなることも告げられました。下された診断は絶望的なものでしたが、担当してくださった医師は、本当にいい方のようでした。

 病院にいる間はまだ何とか平静を装っていたまな姉も、病院を出るなり泣き崩れてしまいました。そのため、落ち着いて車の運転ができるようになるまでかなり時間がかかったそうです。家に帰ってくるとまな姉は平静を取り戻して、治療を受けるように母を説得したそうです。でも、何を言っても無駄でした。母は口数こそ減ったようですが、いつもと変わらぬ様子。遅めのお昼ご飯を作ってまな姉と食べました。まな姉は食事にほとんど手をつけずに、自分の部屋にこもってしまったようです。母は食べ終わると、朝は時間がなくて途中で終わらせていた家事を済ませます。

 まな姉は部屋にこもった後、マー兄に電話しました。結果を知らせるためでした。いいえ、本当はマー兄から母へ、治療を受けるように説得してもらいたかったのでした。でもマー兄の声を聞くと、また泣き崩れてしまい、話になりませんでした。それでも、マー兄には思いが通じたようです。マー兄からは、母が平静を装っているのであれば、まな姉も普段通りでいるように言われたそうです。泣いてる妹を見て辛くなるのは母だからと。


 私は学校が終わってすぐに家に電話しました。母が普通に出ました。私は結果を聞きましたが、心配しないでちゃんと塾に行くように言われました。本当にいつもと同じ口調で。それを聞いて私は、なんでもなかったんだと解釈していました。水曜日は塾も一時間だけなので、六時で終わりです。七時過ぎには帰宅しました。

「どうだったの?」

私はすぐにそう聞きます。

「いいから、先にご飯食べよ。わたしおなかペコペコ」

いつもの調子で母はそう言って、食事をテーブルに並べ始めました。私もいつも通り手伝いながら、

「まな姉は?」と聞きました。

「夕方出掛けちゃった。晩ご飯どうするつもりだろ?」

まったくいつもと変わらぬやり取りでした。食事の間も、私のこの前の模試の話題等。やっぱり習っていないところが出たので、散々だった話をすると、第一志望は夢で終わるのか、などと普通の会話をしていました。食事が終わると、母はいつも通りすぐに洗い物を始めます。私は改めて母に、

「ねえ、検査の結果どうだったの? なんともなかったの?」

と、聞きました。少しの間があった後、

「あたし、癌だったみたい」

母は他人事のようにさらっと言いました。洗い物を続けながら。

「えっ?、・・・癌? どこの? すぐ手術するの?」

私は、癌と聞いてもピンときませんでした。母の口調が他人事みたいだったのもあるし、癌と言っても今の医療だと、すぐに手術すれば治ると思い込んでいたのもありました。また少し間があってから母が答えました。

「隠してもすぐ知れちゃうだろうから正直に言うね、手術できないところなの」

母はまだ洗い物を続けています。

「⋯なにそれ」

「⋯⋯」

母は何も言いません。私は意味が理解できませんでした。言葉の意味するところと、母の態度にギャップがありすぎる。手術できないところ。それってどういうこと? 薬だけで治るってこと? 母は平然としている。どういうことなのか分からない。でも、なんというか、漠然とした不安が広がります。気付くと私は母の手を掴み、居間まで引っ張っていました。

「ねえ、どういうこと? 手術できないって、薬で治るってこと?」

母は私の顔を見ますが、口を開きません。

「ねえ、どういうことなの? 説明してよ!」

私は強い口調で問い詰めました。母はエプロンを外して傍らの椅子に掛けます。

「ごめんね。綾」

そう言うと、私をそっと抱きしめました。

「お母さん、だめみたい・・・。ごめんね」

「だめってなんで? 手術できへんの?」

「手術しても治らないとこやの。おじいちゃんと同じやの」

おじいちゃんと同じ。子供ながらに覚えていました。母に連れられて行った祖父の病室。母は時々、医師と問答を繰り返していました。いろいろなことをお願いしていました。時には感情的な姿も見せ、泣いてもいました。その頃の祖父はいつ行っても眠っていました。でもある時目覚めていたようで、そんな母の姿を見て祖父が言った言葉。

『どうしようもないことで泣くな』

しかっているような強さを持った、優しい言葉。その言葉ははっきり覚えています。私も母に、同じ言葉を言われてしまうのか。

「でも、それってだいぶ前やん。今なら医学もめっちゃ進歩してるし、大丈夫やないの?」

私も母の背に手を添えながらそう言いました。また少し間があります。

「ううん、今でもまだ治せない癌なの」

母の口調が少し湿ったように感じます。

「薬は? 抗癌剤ってやつ。それを飲み続けたら、治らなくても悪くならないとかって言わない?」

私のその言葉に母は答えませんでした。小さく首を横に振った後、私の頭の後ろを撫でます。そしてこう言いました。

「綾、大きくなったね」

「何言ってんの?」

私は母から体を離そうとしました。でも母はそんな私の体をもう一度抱き寄せます。

「だめ。もう少しこのまま」

さっきより強く抱きしめてきます。私の中になんだか分からない、不吉な思いが湧いてきました。

「ちょ、ちょっと、こんなこといつでも出来るから」

私は再び体を離そうとしますが、母は離してくれません。

「うん、いつでも出来る。⋯でも、いつまで出来るか分からないから」

母のその言葉に不吉な思いが、強く濃くなります。

「だから、さっきから何言ってんの」

「⋯⋯」

母は何も答えず、私の髪に顔を埋めます。

「ねえ、教えてよ。詳しく話してよ」

「⋯⋯」

「なんで黙ってるの?、教えてよ」

「⋯⋯」

何も理解できませんが、怖くなってきました。

「やだ、⋯やだよ」

それしか言葉になりませんでした。私は母を突き放すと、一目散に自分の部屋に逃げ込みました。そうすれば、今の会話がなかったことになるかと信じて。


 マー兄が「こんばんは」と、玄関を入ってきたのに気付いて私は部屋を出ました。でも、なぜか忍び足で階段を下りました。居間の硝子障子は開いていました。私は居間が覗けるところで止まって、階段に座ります。マー兄は、仕事が終わってすぐに車を走らせたようです。皺だらけになった背広の上着を脱ぎながら、

「まなみから聞いた」

と言いました。母はソファーに座ってテレビを見ていました。

「わざわざ来なくてもよかったのに。明日も仕事でしょ?」

母は立ち上がって、マー兄の背広を受け取ろうと手を伸ばしました。でもその手はマー兄に掴まれます。

「どうやったんや?」

「⋯聞いたんでしょ、まなみから」

母は自分の手を握るマー兄の手を見ながらそう言います。

「聞いた」

「だったら、もう聞かんでもいいやん」

母はマー兄の顔を見ながら言います。

「⋯」

「なに?」

少し落ち着きがなくなったように見える母。

「あいつは泣きながらやったから、よう分らんかったんや」

「分かるように聞いても一緒」

そう言って母は俯きます。

「そうなんか、やっぱり」

「⋯そうよ」

母は俯いたまま答えます。

「ほんまになんか?」

マー兄のその言葉が怖く聞こえました。私は少し体を強張らせます。母も同様に見えました。いえ、母の体が小さくなったように見えました。でも母は顔を上げて、マー兄の顔を見て言います。

「そうよ」

少し怖い声です。

「⋯⋯」

「だからわざわざ来ることないって言ったやん」

母がそう言った後、マー兄が少し表情を和らげます。

「ほんまにそうやったら、久々に誰かさんの泣き顔が見れるかと思ったんや」

マー兄は母の目を見ながらそう言いました。そう言われて母はマー兄から視線を外します。

「な、なにそれ、私が泣くわけないやん」

「そうなんか?」

「⋯⋯」

母は答えずマー兄から離れようとします。そんな母の手をマー兄は引っ張り、自分の方を向かせます。そしてゆっくり優しい口調で言いました。

「泣きたきゃ泣け」

母がゆっくり顔を上げ、マー兄の顔を見ます。何か込み上げる物がある様子。

「もう、悪趣味なんやから・・・」

そう言う途中から母は涙を流し始め、俯きながらマー兄の肩に顔をうずめます。

「わたし⋯、わたし駄目かも」

そう言うと、少し声に出しながら泣き始めました。マー兄は母の背中を、優しく撫でるように叩きます。

「まなみはワァワァ泣くんやけど、お前は笑顔だって言うから、本当は泣くに泣けずに困ってんやないかと思ったんや」

母はマー兄に顔を摺り寄せて何度も頷いていました。思えば夕食後もそうだったのでは。私の問いに答えず、ただ抱きついてきた母。本当は泣きたかったのかも。本当に泣かなければならないようなことになっているのか、私にはまだ分かりません。私も階段の影で、声に出さずにとうとう泣いてしまいました。


 マー兄はしばらくそのまま母に付き合っていました。やがて母の泣き方が少し落ち着くと、

「かおり、座ろう」

と母をソファーに座らせ、自分も母の横に座りました。ソファーは私のいる階段からは、硝子障子越しではっきり見えません。でも、母がマー兄に寄りかかっているように見えました。

「あたし、まだ死ねない。⋯まだまだやらなきゃいけないこと、一杯ある」

母はまだ少し泣いているようです。

「まなみは泣いてばかりで、詳しいことが聞けんかったんや。ほんまに癌やったんか?」

マー兄は言いました。

「お父さんと同じところ、膵臓」

しばらく沈黙がありました。

「そっか、あれから十年くらい経つのに、まだ膵臓はあかんのか⋯」

やがてマー兄は独り言のように言いました。

「病期だっけ? それは?」

「今日の検査結果が出ないと正式にはわからないんだけど、最終段階みたい。膵臓だけじゃなくて、食道にも、胃にも、大腸にも⋯。いったいいつからだったんだろう」

母も独り言のように言います。

「恵聖会病院でそう言うんなら間違いないんやろうけど、一応、東條んとこにも相談してみるか?」

東條さんというのは、母たちの中学校からの同級生です。

「東條君? 彼ってお医者さんになってたっけ?」

「あいつは違うけど、あいつの親父さんは市大病院の外科の教授やから。知らんかった? あいつも市大病院で事務やってるよ」

「そっか、医者の息子って言うてたね。⋯でもいい、結果はたいして変わらへんやろうから。知り合いのとこにいくと、あとの治療とか断り辛くなるでしょ。私、治らないんなら、治療は受けたくないんだ⋯。辛そうなお父さんを長いこと見続けてたから」

そう言ってから母は、少し姿勢を正したように見えました。

「勝手だよね。お父さんに少しでも長く生きててもらえるならって、少しでも回復するかもって、ずっと治療を受けさせて、⋯後悔してる」

しばらく沈黙が続きました。母はまた泣いているようでした。

「連休の初日、病室でお前に会ったとき、⋯あの時もう覚悟してたんか? 分かってたんか?」

マー兄の問いに、少し間を開けてから母が答えます。

「お父さんと同じやったから、少し前からお腹になんかつっかかるような感覚があったり、時々眩暈がしてふらついたり、体に力が入らなかったり、だから、もしかしたらって思ってた。思ってたところにマー坊の顔を見たら、⋯思ったとおりなら、もう会えなくなるんだなって⋯。やっぱりマー坊には気付かれてたんやね」

「ちょっとぶりっ子が過ぎたやろ。見てて恥ずかしかったで」

私には分かりませんでした。病室で何かあったの? 聞きたかった。でも、母がそういう覚悟をしていたなんて、今まで全然気付きませんでした。だって、さっき打ち明けられるまで、母はそれまでとまったく同じ母だったから。いえ、打ち明けてくれたときも、取り乱したのは私だけ。母が感情の変化を見せたのはほんの少し前、マー兄が来てから。マー兄の前で始めて、素になったようでした。

「あの時はまだ、悪い予感がしてただけなんやけど」

母が少し普段の口調に戻って言いました。

「もっと早く病院行けばよかったのに」

「うん、でもね、眩暈とかはほんとに最近。この一、二か月くらいのことやし。それにすぐ治るから意識してへんかった。こうやって病気や言われたから、そう言えばって感じ」

「そんなもんかもな。二か月くらいなら早く見つかっても同じやったか」

「多分ね」

そこでしばらく話が途切れました。私には夕食後の母の話と、今の二人の話が同じものに思えません。治らない癌の話をしているようには聞こえませんでした。

「これからどうするつもりや?」

「まだわかんない。でも、病院のベッドで寝たきりになるのはいや」

マー兄の問いに母はそう答えました。

 母が続けて何か話そうとしたとき、「ただいま」の声。いきなり玄関が開いて、まな姉が帰ってきました。なんだか思い詰めた顔。まな姉は階段に座っている私に気付いて、

「綾、⋯何やってんの?」と言います。

「まなみ、お帰り」

居間から母の声がします。

「親子の会話は済んだ?」

と言いながら、まな姉は居間に入っていきました。

「マー兄、来てくれてたんや」

そう言うと一瞬立ち止まりましたが、そのまま台所まで行っていすに座りました。私はまな姉に続いて居間に入りました。でも、入ったところで立ち止まったままでした。

「綾ちゃん。⋯お母さんも泣いちゃった」

母は私に微笑んで言いました。普通に笑顔でした。でも、その笑顔に近づくのが怖かったです。理由は分かりません。私は何故かその場で座り込みました。

「マー兄も来てくれた事だし、もう一度姉さんに聞くね」

まな姉が話し始めました。

「本当に、治療は受けへんのね?」

マー兄も母の顔を見ました。

「癌治療としては受けない。受けたくない。でも、それ以外のことは何でもやる」

母はまな姉の顔をまっすぐ見て言いました。

「それ以外のこと?」

まな姉が聞きます。

「一日でも長く、みんなと普通の生活をするためのこと」

「でも、それは逆だと私は思う。ちゃんと治療しないと、普通に過ごせる一日がどんどん減ってくだけだって」

まな姉はそう返します。

「まなみ、治療受けても長くなるのは病室での時間だけ。私は普通の日常が過ごしたいの。少しでも長く」

母はまな姉の方を向いたまま言いました。しばらく二人は目を合わせています。やがてまな姉は、一瞬私と目を合わすとすぐに視線を外してから口を開きます。

「何でそんなに平気でいられんの? 死んじゃうんやよ、自分のことなんやよ」

最後のほうは涙声でした。

 母は立ち上がるとまな姉の横に座りました。まな姉の背中を優しく撫でます。まな姉は母に縋りついて静かに泣き出しました。母は私の方を見て言います。

「綾、急にこんな話になって混乱してるよね? ごめんね。でも、さっきも言ったけど、そんなに長く隠せることじゃないから、話すね」

私は無言のままでした。さっきからの会話をなんとなく、納得させられてしまっている感覚がありました。到底受け入れられる物事ではないはずなのに。

「姉さん?」

まな姉は母から体を少し離すと、顔を見て言います。構わず母は話します。

「お母さんは膵臓って臓器と、その周辺にたくさん癌ができてたの」

「姉さん!」

まな姉がさっきより大きな声で遮ります。

「隠してもしょうがないこと。変に隠した方が、いろいろ想像させて苦しめるだけだから」

母は続けます。

「膵臓からたくさん転移してしまってる人の、五年生存率っていうのは0%。九年前のおじいちゃんの時に聞かされた数字だから、今は少しは良くなっているかも知れないけど。ネットで調べたら分かると思う」

私は頭も心も内容に追いつけません。

「今日、お医者さんから一年はもたないって言われたの。おじいちゃんの時は同じように一年って言われて⋯」

「やめて!」まな姉がまた遮ります。

「わざわざ言わなくていい」

まな姉のその言葉は、私に聞かせたくないと言う思いでしょう。でも、まな姉自身が姉の口から聞きたくない、と言う風にも聞こえました。母は少し間をおいて続けます。

「おじいちゃんは一年って言われて、四か月だった。お母さんはおじいちゃんより若いから、ひょっとしたらもう少し長いかもしれない。今はそういう状態」

「もう諦めてるってこと? お母さんは」

私もまた涙が溢れてきました。

「何でそんな簡単に諦められるの?」

母は私を見たまま少し考えている様子。やがて視線を上にあげて口を開きます。

「諦めてるって言いたくはないけど。どうしようもないこととは受け止めてる。⋯ううん、まだ受け止められてない。でも、受け止めるしかないと思ってる」

「やだよ、⋯何とかしてよ」

そんなことしか私は言えません。母はまた私に視線を戻します。

「何ともならないけど、最後まで精一杯、普通に暮らすってことは諦めてないよ。みんなそうでしょ。死ぬまでの時間が、他の人よりははっきり分かったってだけ」

 次の言葉は誰からも出ませんでした。私も何を言ったらいいか分かりません。言いたいことは沢山あります。どう言ったら母の気持ちを変えられるのか、思いつきませんでした。でも、うまい台詞を思いついて母の気を変えたところで、結末が同じであることは分かっていました。母が死ぬという結末。そんな結末、分かっても受け入れられるわけも、理解できるわけもありません。治療を受けさせて、何日かでも母と過ごせる日々を増やしたい。いえ、ひょっとしたら薬で母だけは治るかも。治らないとしてもこれ以上悪くならないかも。それは、母にとっては苦しい時間を過ごさせることになるかもしれない。祖父がどれくらい辛い思いをしていたのか、幼かった私には感じ取れなかった。でも、母はその辛さが分かっていたのでしょう。母は以前、何かの時に洩らした事がありました。

『私は最後の最後まで、お父さんに酷い事をしてしまった』

もしかしたら私にはそんな思いをさせたくない、そう考えているのかも。でも娘の心はそれを経験した母が一番知っているはず。少しでも長く生きていてほしい。違う、本音は治療すれば奇跡的にでも、母だけは治ることがあるかもって思い。その思いは当然のこと。まな姉も同じ気持ちのはず。両親を亡くし、今また姉までも失おうとしている。最後の肉親を。私と同じ。私はふと思いました。マー兄はどう思ってる? マー兄は何も言っていません。そのことが無性に気になり、腹立たしく思えてきました。母がマー兄に対して、本当に心を開いているのはよく分かりました。でも、マー兄は何も核心に触れません。格好つけて母の機嫌を伺っているだけ、そう思えてきました。

「マー兄はどうやの? それでええの?」

まな姉が沈黙を破りました。私と同じことを感じていたようです。私とまな姉の視線がマー兄に向きます。マー兄は天上の方を見続けていました。その眼は複雑でした。私にはまだ分からない何かを思い巡らしている様でした。そのうち、涙があふれそうに見えました。あっ、と思った瞬間、マー兄は母の方を向いて優しい笑顔で言いました。

「俺は、かおりが望む通りでええよ。かおりが望むことを応援する」

母は目で頷いています。私はまた言葉が出ませんでしたが、まな姉は身を乗り出しました。

「なにそれ? 格好つけてないでマー兄の本音を言うてよ! 本音は違うでしょ!」

「本音か⋯。自分でも分からんよ」

マー兄は少し苦しそうな顔で言いました。

「いろんなことが俺の中でも整理されてへんのや、まだ」

それに少し気おされて、まな姉は椅子に座りなおします。

「でも、一つだけどうしてもって思いがある」

「なに?」

穏やかな口調に戻ったマー兄に、まな姉が聞きます。

「さっき言うたこと。かおりが普通の一日を続けたいと願ってるんなら、それが少しでも長く続くように協力して、応援する」

マー兄は、私とまな姉の顔を交互に見ながら続けます。

「それが数か月しか続かんのか、十年でも続いてくれるんかは分らん」

皆な黙ったままでした。

「一日でも長く続けるためには、ある程度の治療は必要なんやろうけど、それが普通の一線を越える程度が分らん」

マー兄はゆっくり続けます、自分の思いを確認するように。

「かおりと一日でも長く過ごしたい俺たちの思いは、知らん間にその一線を越えて、かおりの普通を平気で壊してまうかも知れん」

「⋯⋯」

「それが俺は嫌や。だから、かおりの望む通りのことをしたい⋯」

「私たちの気持ちは?」と、まな姉。

「結局は一緒やないか? まなみは覚えてるやろ、お父さんの事。ほとんど意識もなく、衰弱していく姿を見守りたいんか? 俺は御免や。今のかおりとの時間をしっかり過ごしたい」

 まな姉は黙ってしまいましたが、マー兄の言葉を理解したようでした。私は割り切れない思いの方が強かったです。どんなにいいことを言われても、母が死んでしまうという事実自体が、そもそも受け入れられない。私は母を見ました。母はマー兄を見つめて微笑んでいるように見えます。その姿を見て、私の中の何かがまた、はじけました。

「見守るとか何とかって、死んじゃうことを前提にしないでよ!」

立ち上がって三人と視線を合わせもせず、吐き捨てるようにそう言いました。そしてここにいるのが辛くなり、外に飛び出しました。


 家を飛び出した私は、しばらく歩き回った末に涙もおさまったので、家のほうに戻りました。でも、どうしても帰る気にはならず、町内の幼馴染であり親友の、東優美の家に泊めてもらうことにしました。

 時々泊りあいっこをしているので、時間が遅いこと等で優美の両親から変な顔はされましたが許してくれました。母のことを話すつもりはありません。優美の部屋で二人になっても、ほとんど口を開かない私。膝を抱えて座り込んでいました。そんな私に最初は色々と質問してきた優美ですが、そのうち黙ってテレビを見始めます。

 気付くと優美が隣にいました。肩が付く距離に。私が優美の方に顔を向けると、

「あや、臭うよ」と、言います。

そう言われて自分の匂いを嗅ぐ私。

「お風呂入ってきなよ」

「⋯着替え持ってきてない」

「寝るだけなんだからそれでいいやん。しょうがないからパンツは私のおニューを一枚あげる」

そう言ってタンスを開ける優美。私は部屋着のままでした。

「ありがと。今度私のあげる」

そう言う私に下着を手渡しながら、

「あやのはいらない」と、優美。

「ちゃんと新しいのをあげるよ」

「そうやなくて、あやのは大きいからいらないってこと」

女子の中では大きい方の私と反対に、小柄な方の優美。確かにサイズは違うんだろうけど、そんなに厳密なものじゃないでしょ、と思う私。そんな私に優美は続けて言います。

「だからそれ履くと、あやのお尻ははみ出すと思うよ」

「ひどい」

 そんな会話の後、お風呂を借りてシャワーを浴びました。優美との会話とシャワーで少しスッキリした気分。優美の部屋に戻り、どうでもいいことを少し話しました。優美は私が来た時のことに触れません。そして、いつものように優美と同じ布団に入ります。でも、優美の体温を感じると涙があふれて、母のことを話してしまいました。驚きながら聞いていた優美も一緒に泣き出したものだから、悪いことをしていると感じました。しかし涙は止まってくれず、二人で遅くまで泣いたまま眠りました。


 次の日、私の曇った心の中まで晴らそうとするかのように、おせっかいな光溢れるきれいな朝でした。明るすぎて現実味を感じられなかった私の心は、なんだか空っぽのようでした。優美の家で朝食を頂いてから、優美のお母さんに連れられて帰りました。優美のお母さんはいつの間にか、優美から事情を聞いたようです。でも私の母に挨拶代わりの話を少しだけして帰っていきました。「おかえり」とだけ言って迎えてくれた母に、学校を休みたいと言ったら、何も聞かずに了解してくれました。母は近くの小さな工場で事務をしています。今日は社長さんに昨日の検査の結果を告げるとのこと。そして仕事がいつまで続けられるかわからないので、迷惑をかけないうちに早々に辞めさせてもらえるようにお願いする。そう言って、出勤していきました。

 

 時間は十時少し前。私は自分の部屋でベッドに寝そべって、また天井を見上げていました。何も考えていませんでした。空っぽになったまま、ただ、見上げていました。玄関の開く音が聞こえてきます。

「まなみ、どう?」

戸口でマー兄が呼びかけていました。

「うん、十一時半に会えることになったよ」

まな姉が居間から出て来て言います。

「十一時半ならちょっと早いかな」

「いいやん、早いけど行って待っとこ」

まな姉は靴を出して履こうとしています。

私は階段を下りながら、

「どこ行くの?」と声をかけました。

二人とも昨夜のことには触れません。

「病院。マー兄が姉さんの担当の先生と話したいって言うから」

「私も行きたい。だめ?」

そういう私にまな姉は少し考えて、頷くマー兄の顔を見てから、

「いいけど、その格好で?」

ニコッと笑いながら言いました。私は寝なおすつもりだったのでパジャマ姿でした。

「ご、五分待ってて、すぐ着替えるから」

階段を駆け上がる私に、

「マー兄の車のとこにいるからね!」

まな姉の声が追いかけてきました。


 家を出てしばらくすると、まな姉が隣で運転しているマー兄に話しかけました。

「本当はどう思ってるの?」

マー兄は答えませんでした。

「姉さん死んじゃうんだよ。いいの?」

「いいわけないけど、あいつの選択が変われば病気が治るってわけやないやろ」

マー兄の返事に、今度はまな姉が答えませんでした。

「一番辛いのは、何をどうしても結果が変わらへんってことや。俺だって、どんな姿でも生きてるあいつに少しでも長くいてほしい。でも、あいつがおじさんのような姿を最後に見せたくないと言うんなら、俺はその通りさせてやりたい」

「⋯お父さん、最後の何週間か、瘦せ細った姿で寝てるだけやったもんね。そう言われると、私も姉さんの考えが分かるんやけど、残されるんは私たちやよ。割り切れへんよ」

まな姉はまた涙交じりの声になりました。

「まなみ。お前がもし、あと半年や一年やと言われたらどうする?」

マー兄の問いに少し考えてからまな姉が答えます。

「そんなん、わからへんよ」

「そやろ、あいつだって今、自分の気持ちなんてわからへんのや。絶対に混乱しとるはずや。怖くて怖くてしゃあないはずや。だからクールやねん。精一杯強がってんねん。でも、おまえや綾ちゃんの前では強がり通すやろな。自分が乱れて泣いてまうと、お前らまで泣いてまうって分かっとるから。お前らに泣かれるのが一番辛いんやろな。だから出来るだけ、あいつの強がりに合わせたってくれよ。辛いやろうけど」

マー兄はまな姉の肩に手を置きました。

「でも、姉さんも泣きたいはずでしょ? 自分のことなんやから」

まな姉は完全に泣いてしまっていました。私は、不思議と何も感じていませんでした。自分とは無関係の会話のように聞いていました。

「だから、あいつを泣かすのは俺の役目や。俺の前では泣きたいだけ泣かせてやろうと思ってる」

「昨日も思ったんやけど、何で姉さん、マー兄の前だと泣くんやろ。昨日も泣いてたんでしょ? 姉さん」

車は大きな通りの交差点を右折するところで止まりました。マー兄は対向車の流れを見ていて無言です。この通りの先には大学があります。そこの学生だと思われる大勢の男女の集団が、新緑の並木の下を楽しげにしゃべりながら歩いていました。その楽しげな雰囲気が現実のことではないように感じる私。右折用の矢印信号が出て、車は動き出しました。

「思いっきり泣いたところを、お互いに知ってるもん同士やからかな」

マー兄が独り言のように言いました。

「あの時、俺はあいつに思いっきり泣かしてもらったんや。そしてかおりも思いっきり泣いた」

「いつ? なんで?」

まな姉がまた聞きます。

「うん? ⋯聡子が死んだとき」

まな姉は、あっという風な表情を見せただけで、それ以上は何も言いそうにありませんでした。私は車に乗ってから、いえ、昨夜から、どこか現実ではないところにいるような感覚を味わっていました。現実を受け入れたくないからなのかどうかはわかりません。でも今、聡子さんが死んだ時と言う台詞を聞いた途端、頭が現実に戻ってきました。無性に聡子さんのことが聞きたかった。本当は、聡子さんと、母と、マー兄のことが聞きたかった。

「聡子さんって、マー兄の彼女だった人のこと?」

知らぬ間に口から言葉が出ていました。

マー兄は少し驚いたようでした。

「お母さんから聞いた?」

マー兄の問いにまな姉が答えます。

「ごめん、私がしゃべった」

マー兄はミラーで私の方を見てから、

「そうだよ、ずいぶん昔のことやけどね」

そう言いました。

「かおりにとっては一番の仲良しやった」

「どんな風に?」

私はまた質問。

「赤ちゃんの時からって感じかな? 二人は誕生日が二日違うだけで、同じ産婦人科で生まれたんや」

マー兄が言います。

「その産婦人科で母親同士が仲良くなったもんやから、生まれてからもしょっちゅう会ってたらしい」

私もまな姉も先が聞きたくて口をはさみませんでした。

「俺も二人から聞いた話やから正確なことやないけど、幼稚園くらいの時にかおりの母親が入院したんやて。それも結構長い間、入退院を繰り返したらしい。で、かおりの親父さんは数か月単位の出張と言うか、地方勤務みたいな仕事でほとんど家におらんかった。それで聡子の母親が、かおりの母親の入院中はかおりを引き取ってたそうや。三年ぐらいはほとんど聡子と暮らしてたみたいやで」

そこまでマー兄が話したところでまな姉が、

「そんな話、私聞いたことなかった」と、つぶやきます。

「まぁ、初めて友達が出来るころに一緒に暮らしてたんやから、生半可な友達関係やないのは分かるやろ。本人たちにしたら双子の姉妹くらいの感覚があったんちゃうかなぁ」

「そっか、そう言う仲やったんや。なんとなく分かった気がする」

感慨深げにまな姉は言いますが、

「でも、姉さんと聡子さんのお兄さんとはそんなに親しい感じやないよねぇ、なんで?」

と、聞きます。

「その頃は、まだお兄さんがおらんかったみたいや」

「ん? ⋯なんで? お兄さんの方が後から生まれたん?」

「あほか、それやったら弟やろ」

「え~、わけ分らん!」

「聡子のお母さんは未婚で聡子を産んでたんや。で、そのあと子供のおる人と結婚したんや」

「なるほど」

まな姉は納得した様子。でもまた質問します。

「さっきから一つ疑問があるんやけど、なんで阿部家で姉さんのこと預からへんかったんやろ? 家だってすぐ近くやのに」

「うちが引っ越して来たんはもっと後やろ」

「そっかそっか」

「ちなみに、純子の家も小学校入る直前に引っ越して来たらしいから、まだおらんかったんやな」

と言って正善さんは続けます。

「まなみは裏山覚えてるよなぁ?」

「うん」

「裏山の横に二階建てのアパートあったのは?」

「いや、知らん」

「その頃はそこに聡子親子は住んでたらしいよ。そのアパートが取り壊されるとき二人がそれを眺めながら、思い出の場所が一つなくなるね、とかって話してたんや。俺は何のことか分らんかったから聞いたらそう言うてた」

「ふ~ん、昔は家も近かったんや。あれ? じゃあその時は聡子さんって水野じゃなかったってこと?」

「⋯⋯」

マー兄は何かを思い出そうとしているようです。でも、何も思い出せなかった様子。私は知らなかった母のことが少しわかり、なんだか嬉しいような気持ちでした。同い年の姉妹のような関係。私は優美の顔を思い出します。

 

車は病院に着きました。

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