第二章 10月30日 渋谷

 10月30日、12時50分。私は渋谷駅前のハチ公の銅像前にいた。

 群馬県から始まった異常気象は、あっという間に日本中へと広がった。東京も例外ではなく大粒の雨が激しい音を立てて私の傘を叩きつけてくる。うるさい。

 今日の天気のせいか、続く異常気象のせいか、それともまだ人々の心に根付く都心への外出への恐怖のせいか、普段なら人でごった返す渋谷ハチ公前もほとんど人がいない。立ち止まっているのは、私と同じく待ち合わせをしているらしい男性が1人と、少し前まで青ガエルがあったあたりにカメラを構えるインターネット動画マンらしい数人組がいるだけだ。

 待ち人はまだいないらしい。

 眉國サヱコがネカマで、待っている男性が中の人である可能性もあるが、男は本らしいものは持っていない。まだ待ち合わせまで10分ある。焦る必要もない。

 傘を持つ手に雨が当たる。雨がうるさい、寒い、冷たい。

 私は何をしに来たんだろう。

 あの本のヘンテコな儀式がこの異常気象の原因だなんて、心の隅でも真実だと思っているんだろうか。いや、私は――

 その時、駅改札の方から花柄な傘を差した1人の少女がこちらへやってくるのが視界の端に映った。紺色のセーラー服に、紺色のセーターを重ね着している。それなのにくるぶしまでしかないソックスの上の膝は丸出しで、寒そうに真っ赤に染まっている。傘を持っていない方の手で、一見洋書のような、大きなハードカバーの本を胸に抱えている。

 あれは、「偽書MacGuffin」だ。

 傘を持ち上げ、彼女がこちらを見た。

「あなたが、眉國サヱコさん?」

 わたしはそう尋ねたが、雨の音で声が聞こえたかはわからない。それでも彼女はうなずき、「行きましょう」と視線で示した。


 駅前から数分の位置にある、2階建てのチェーンの喫茶店。

 私はホットコーヒー、彼女はアイスのカフェラテを頼み、2階へ向かう。1階には数組客がいたが、2階には私達以外は誰もいない。

 遠くからせっかく上京していた若い女の子が相手なのだから、もっと洒落た店にでも連れて行くべきなのだろうが、あいにく私にはその手のエスコートセンスはない。向かい合って座って、改めて落ち着いて彼女を眺める。

 雨で少し濡れてしまっている髪は肩のあたりで切りそろえられている。こういう言い方はどうかと思うが、オカルト趣味がありそうないわゆる陰キャには見えない。友達が多く、吹奏楽部にでも入ってそうな、普通の女の子といった印象だ。

「あの、ジロジロ見ないでください」

 あまりに見つめすぎていたのか、彼女にそう言われる。あわてて視線を下に向け、コーヒーに口をつける。

「ご、ごめんなさい」

「……あなたも、持ってるんですか? これ」

 そう言うと、彼女は大事に抱えたままのハードカバーの本をテーブルに置く。なんだか古めかしい洋書のような外見だ。表紙には、気取ったフォントで「MacGuffin」と書かれている。彼女は疑わしいような視線を私に向ける。

「あー、そうだね、今は持ってない。昔持っていたけど、手放しちゃって」

「……」

 あからさまに疑っている顔の彼女。それはそうだろう。

「実は、それが本当でも嘘でも、どちらでもいいんです」

「いや、嘘じゃなくて……」

 彼女は、窓の方に視線を向ける。雨はやまず、激しさを増しているようだ。大粒の雨は水どころか氷の塊何じゃないかと錯覚するくらい、強い音を立てて窓にぶつかっている。

 家を出る前にネットニュースで確認したところ、日本全国どこもかしこもこの調子のようだ。それどころか、まあまあ大きめな地震が起きた地域もあれば、日本では珍しい竜巻が吹き荒れた地域もあるらしい。

「自分でも信じてないんです。この本に書いてある内容が真実なんて。

 でも、どういうわけか最初の儀式を試したらどんどんおかしくなっていったんです」

「最初の儀式」

「はい。最初の儀式――


 新月の夜に必要なものをまとめて月の明かりがない夜の闇の中に置く

 深夜から夜明けまで1時間毎に呪文を唱える

 世界は崩壊への前奏を奏でだす」

 彼女は偽書MacGuffinをペラペラとめくりながら、すっかり暗記しているらしく儀式の要項を語る。Twitterで言及していた儀式だろうか。確か彼女があれをやるとつぶやいていたのが、10月17日。約2週間前だ。

 あるページで手を止める。そこには、彼女が語ったのと一字一句違わぬ「最初の儀式」が書いてあった。

「本の中では「世界は崩壊への前奏を奏でだす」とあります。この崩壊への前奏というのが何を示しているかは明記されていません。でも、儀式をした何日か後から、私が住むあたりからどんどん天気がおかしくなったんです」

「えっと。眉國さんの住んでいるのって、G県って書いてたけど、群馬のこと?」

 彼女はコクリとうなずく。

 異常気象の発信源は群馬県だということは、ネットでも盛んに言われている。いつもの群馬ジョークで笑い飛ばそうにも、笑えない状況すぎてそういうわけにもいかない。

「たまたまだ、ってわかってるんです。でも、もしかして、万に一つ、あの儀式のせいなら。せっかくなら、儀式を最後までやろうと思ったんです」

「それで、あの、ハロウィンの儀式?だっけ」

「そうです」

 彼女は手を伸ばし、パラパラと本のページをめくる。

「あ、ハロウィンの儀式というのは私が勝手にそう呼んでいるだけです。この中では「本儀式」と書かれているんですが、なんか味気なくて勝手にハロウィンの儀式って呼んでいるうちに、自分の中でそっちが定着しちゃって」

 手を止めたページはには、たしかに「本儀式」と書かれていた。


「本儀式


 世界の破滅の本奏

 ケルト人たちの冬が始まる日

 ウァレンティヌスの殉教を重ねる

 重ねしちょう18守る神

 3つの言葉を捧げよ 」


 さきほどの「最初の儀式」と比べると、なんというか、暗号っぽい。わかりそうでわからない言葉が連なっている。

「眉國さんは、この意味がわかったの?」

「なんとなく、ですけど……

 最初の「ケルト人の冬が始まる日」はハロウィンのことで間違いないと思います。ハロウィンは、もともとはケルト人のお祭りで、秋が終わって冬が始まる日に霊たちが返ってくるのを迎えるお祭りだったと言われています」

「なるほど、それでハロウィンの儀式って呼んでるんだね」

 確かに、ハロウィンの由来については私も聞いたことがある。

「ウァレンティヌスはキリスト教の聖人で、バレンタインといえばわかると思います。聖ウァレンティヌスの殉教した日が、色々会って今は恋人たちのとなっています。つまりは「ウァレンティヌスの殉教」は2月14日のことです」

「それも間違いなさそうだね」

 彼女はうなずくと、カフェラテを一口飲む。よく喋っている、すごい、若さだ。

「ここからはおそらくですが、「殉教を重ねる」を純粋に数字のことだと考えると、214×2で「428」になるんです。428って、つまり「し」「ぶ」「や」――【渋谷】のことじゃないかなって思ったんです」

 ……なるほど?

「残りの2文はいわゆる儀式の生贄というか、捧げもののことだと思うんですけど……」

 そういうと、彼女は黙ってしまった。

 きっと、私が本儀式についてなにか知っているかもしれないと思ったのだろう。DMの返信が来たのも、そういうわけに違いない。そう思うと、なんというか健気というか、真っ直ぐというか。

 これくらいの思春期の女の子は、思い込んだらこう、視野が狭くなってしまう傾向があるが、彼女は更にそんな傾向があるのかもしれない。


「こんなこと言うと、アレなんですけど」

「なに?」

「実は、この本を手に入れたのは中学生の頃なんです。たまたま通りかかったフリーマーケットで売っていて、面白そうだと思って買ったんです。

 で、高校生1年生のハロウィンの日、この本儀式をしてみたくて、1人で渋谷まで来たことがあるんです」

「ハロウィンの日に、高校1年生の女の子が、1人で渋谷に……?」

「はい……あれはひどかったです。昼間でしたけど」

 ニュースなどで盛んに報道されているので、ご存じの方も多いだろう。本来ハロウィンの日の渋谷駅近辺は、端的に言って地獄だ。コスプレをしたパリピたちがアルコール飲料片手に練り歩き、ナンパ、痴漢、ウェイウェイパーティーを繰り広げまくっている。本番は夜だが、昼であっても地方でぬくぬく育っている女の子にはなかなか厳しいものがあるのは、想像に難くない。

「それは……何もなかった?」

「あっ、はい。変なこととかは、なかったんですけど。

 あー、これはあの本の儀式は実際やるのは無理だなあって思ってたんです。それが今年、あれじゃないですか。外出自粛とかで、人も少ないし。今年なら、できるのかなと思って。それで久しぶりにこの本を出してきて、前回は抜かした最初の儀式から準備してやってみたんです」

 考えながら一生懸命話す姿が、なんだか可愛らしい。

 確かに、儀式を行うべき場所がハロウィンの渋谷であれば、例年に比べて今年はかなりチャンス度が高い。

 眠らない街東京。そのなかでも喧騒が激しい街である渋谷も、最近はめっきり大人しくなっている。それに、渋谷の街なら多少変なことをしている女の子がいても「YoutubeかTik Tokの撮影かな?」くらいにしか思われず、違和感を覚える人も少なかろう。

「でも、わかってないことも多いし、無理かなあ。3つの言葉って何? そもそも、渋谷のどこに行けばいいのかも。あなたがなにか知ってたらいいなと思ったんですけど」

 こちらを恨みがましい目で見てくる。

「あはは、それは、ごめんね」

 彼女はため息をつき、アイスカフェラテを飲み進める。

 こうして見ると、本当に普通の女の子だ。オカルト趣味なんてありそうにもない。世界を滅ぼす儀式をするよりも、片思いを実らせる恋占いのジンクスでも担ぐのが似合いそうだ。

「眉國さんは、どうしてそんなに世界を滅ぼしたいの?」

「え?」

 きょとんとした表情に、こちらまできょとんとしてしまう。

「あー、そっか。そうですよね、これ世界を滅ぼす儀式ですもんね」

 そう言うと、彼女はハチ公前で出会ってから初めて笑顔を見せた。クスクスと笑う彼女は、本当にどこにでもいそうな女子高生だ。

「理由がないと何かを憎んだり呪ったりしちゃいけないって、古くないですか? 私は別にいじめられてもないし、家庭環境も普通だし、失恋もしてないし――まあ、恋愛もしてないですけど――不治の病でもないし、あとなんだろ。とにかく、どこにでもいる受験生です。ただ、目の前にヘンテコな本が現れて、そこに書かれたことが実際にできそうだからやってみた。それだけです。積極的に世界が滅んでほしいわけじゃないですけど、逆に積極的に世界を守りたいってこともないですし、どっちでもいいんですよね」

 彼女の表情はすっかりリラックスしている。

 外は相変わらずの大雨だ。風も強くなってきている。

「あなたは違うんですか? 万に一つでも、何かが変わるかもしれない可能性を感じて、私にDMをしたんじゃないんですか?」

 そうなのだろうか?

 私はなにかを変えたかったのだろうか?

 万に一つでも、本当に世界が滅ぶ可能性があると思ったのだろうか?

 あの本が、偽書MacGuffinが真に邪神を呼び出す力があるとでも思ったのだろうか?

「まあ、どっちでもいいんですけどね。こうして話ができる人がいるだけで、すごく救われます。

 あ、もしかすると私がこの本をちゃんと読めていない可能性もあるかもですし、もしお時間があれば一緒に偽書MacGuffinを読んで本儀式のわからないところ、考えてもらえませんか?」

 彼女の言葉に、私は一も二もなくうなずいた。


 そして、彼女と楽しい時間を過ごした。

 儀式のことは何も進展しなかった。


 夕方過ぎに彼女と別れた。

「一人で大丈夫? ホテルまで送ろうか?」

「知らない人にホテルまで送られる方がイヤですよ。そういえば、カバンにつているのってAI Dollsのアクキーですか?」

 眉國サヱコの視線が斜めがけしたバッグに向けられている。たしかにユミハのアクリルキーホルダーをつけたままだ。普段おしゃれな街なんていかないから、うっかりいつもどおりのバッグで来てしまった。

「あ、うん、陸兎ユミハが好きで……。ごめんね、オタク丸出しで渋谷に来て。眉國さん、AI Dolls知ってるの?」

「私も好きですよ。弟から薦められて始めたんですけど、なんか楽しくて続けてます」

「えっ、そうなんだ! 推しだれ? てかフレンド登録しようよ!」

「いいですけど……。オタクって好きな話題になると急にぐいぐいきますね」

 うっ、耳が痛い。

 彼女は笑いながらスマホを開き、AI Dollsの画面を見せてくれた。私もゲームを開き、彼女にフレンド申請をする。


 彼女は今日は渋谷のビジネスホテルを予約しているらしく、そのまま渋谷駅前で解散した。



 ***



 騙されました


 最低です。私のことを内心笑っていたんですね

 でもいいです、すべてわかりました



 心臓が止まるかと思った。

 騙されたとは、どういうことだろう。

 いや、誤魔化すのはやめよう。

 彼女にはバレてしまったのだ。

 バレたところでどうだというのだ。何が何だか分からないのは彼女ではなく、私の方だ。


 彼女からDMが追送されてくる。

 開いてみれば、それは深夜の真っ暗などこかの路上の写真のようだ。雨でびしょ濡れになったアスファルトの上に、ハロウィンの仮装姿の男女が三人円を描いて寝かされている。


 ――異形を倣いし3つの体を輪にし唱える、むふぐなん


 覚えているはずのなかった儀式の1つ目が、急に頭に浮かんだ。

 スマホの上部に表示されている時間は、23時59分。

 何秒かはわからない。

 表示が変わった瞬間に、私はどうしてか彼女――眉國サヱコの声を聞いた気がした。「むふぐなん」と。


 瞬間、雷の音が轟いた。

 慌てて窓を開けて外に顔を出す。雨が顔に当たり、部屋の中にまで飛び込んでくるが、それどころではない。空を見あげると、空中を覆っていたはずの真っ黒な雨雲の様子がおかしい。なんだかうねうねと蠢いて、なにか目玉のような突起物が――ひぇっ!?

 空中に目玉が浮かんでいる。雲状の謎の生命体が、ギョロギョロとあたりを見回してい――

 目があった。


 だめだ。

 なんとかできるかはわからない。

 でも、彼女を止めないと。


 私は慌てて家を飛び出した。


 まだギリギリ電車があるだろうか。この際タクシーでもいい。

 彼女はおそらく、【渋谷】で儀式をやっているのだろう。

 さて、私の向かう先は……。

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