第11話
鼓草駅から離れた海に面した鼓草病院は、深夜の緊急搬送にも対応できるように何人かの救救急隊員が待機している。今も緊急の患者が搬送されてきていた。患者は手術室に運ばれ、一旦仕事は一区切り。救急隊員の小口は病院の外、ベンチに座ってココアを飲んでいた。一方の繋はその様子を見ながらタピっていた。
双眼鏡で遠くから見る小口は、普通に仕事をして普通に疲れている印象だった。飲み干したコップをバイクに置き、繋は彼の下へと向かった。
「小口さん、こんばんはー」
病院関係者ではない人間、しかも繋水那が目の前に立っている状況。小口は疲れも相まって深いため息をついた。
「繋さん、こっちは勤務時間内なんだ。時間をずらしてもらえますか」
小口とは反対に繋は終始ニッコニコで近づいて、彼の言葉など聞こえなかったかのように隣に座る。真っ暗闇の中、ベンチを照らしている街灯は世界から二人を隔絶しているよう。この暗闇と光の狭間を、簡単に繋は超えてくる。
「小口さん、時間が無くても時間を奪います」
ベンチの背に思いっきりもたれ掛かって、左腕を背もたれに乗せる。街灯を見上げても、今の季節に虫は飛んでいない。
「準備は整いました。後は、明日に小口さんがギターを波田洋介に渡すだけです」
「そうか」
「それだけならメールでも良かったんですが、どうしても話したかったことがあったんで、こうして病院にお邪魔しました」
小口は先日、彼女と話した時の印象と違って見えた。
「聞きたい。あなたにとって波田洋介とは何?」
冷めたココアの缶を見下ろしながら、小口は白い息と共に口を開いた。
「思春期の頃に憧れた、自分に多くの影響を与えた人物だよ」
あまりにありきたりな夢。ありきたりな、夢破れた人。やっぱり普通だ。あいつらと比較したら、この人はあまりにも普通だ。
「私はまだあなたを道具としか思っていない。けど、一つだけ考え方が変わった」
あれだけ見開いていた目が細く、暗闇に溶けていた。
「あなたも十分、波田洋介に対する思いを持っていた。他の2人の思いが飛びぬけていたから私の物差しがバグってしまった」
繋と波田が見届けた、歩道橋で歌っていたあの人物。名前こそ彼らは聞かなかったが、多くの影響を受けていることが伝わってきた。上本剛一郎も、木梨圭斗だってそう。世代が違っても、波田洋介の輝きは届いていた。そのあまりにも鮮烈な光が繋の間隔を狂わせていた。
「だから、小口さん。あなたが憧れた波田洋介に、あの時の気持ちのままギターを渡してほしいんです」
寒さで凍えた体でも、小口の頬は緩んだ。
「とんでもない。自分はただ憧れていた波田洋介に会えるだけでも十分。ギターは最高の思いで渡します」
小口は時計を確認する。休憩時間の終わりまで、まだもう少しある。そして何か思い出したように、小口は呟いた。
「不思議ですね。一度堕ちたスターがこうして色々な人から励まされるなんて。なんで、優しい人ばっかり集まるんでしょう」
「さぁね、私も知らない。けど―」
ゴールが見えてくると、足が竦むことがある。波田洋介の復活という一つのゴールを目の前にした繋も同じだった。つい、彼女の口は戻らない道を歩き始めた。
「私は、音楽の作り方だとか、病気の人間が奇跡的に治っただとか、突然の脅威が現れて世界を救わなくちゃならないだとか、死んだあとの話だとか、全部どうでもいい」
見上げていた顔を正面に向ける。
「現実の奇怪さには誰も敵わない。それだけは確か」
「そうかも、しれませんね」
休憩中の老けた様子はどこに行ったのやら、小口の表情は一人の医療関係者の顔になっていた。
「この前、初めて会った時よりも随分しおらしく見えます。…けど、あなたも多くの事を抱えている。今の語りがきっとそうだ。ま、自分は別に何もない人間ですから、話してもいいんですよ」
小口の心外な言葉は、繋自身が疲労していることを気がつかせるのには十分な判断材料だった。木梨圭斗とのやり取りを行うために多くの仕込みをした。そして自身よりも多くの経験を持っている上本剛一郎との知恵比べ。それらは思った以上に繋のエネルギーを消費していた。自分の事を話したくなるのも当然。心労を抱えたダムが決壊してもおかしくなかった。
しかし、繋はベンチから勢いをつけて立つ。
「私は、別に他人の思いを背負うつもりは無い。これからも、私は私の道を行くだけ。紗枝っていう愚痴を言える友人もいるんで」
「それは良かった。話せる人がいるのは強い」
あなたは役に立たないと言ったのに、小口は今も笑顔を浮かべている。彼が持つ器の大きさは、もはや気味悪い。繋がため息をつくと息が白かった。そして、そっぽを向いて再び暗闇へと足を運ぶ。一つだけ、言葉を残して。
「じゃあ、手筈通りで」
小口が時計を見ると、丁度休憩時間が終わる時間の3時頃だった。冷め切ったココアを飲み干して彼は病院へと向かう。もうすぐ、朝日が昇る。
バイクを走らせていると、いつもテンションが上がる。真っ暗闇の中を突っ切っていく感覚が好きだった。今の時間帯だったら、信号でさえ静かに黄色の鼓動を鳴らしている。夜は嫌いだ。情緒が溢れてきて、過去を思い出しそうになる。振り返ってはならないのに、振り返りそうになる。だから嫌いだ。
カーブを曲がると、黄色と赤の光が残像として残った。
彼らは過去を生きている。なぜ、そこまで過去にすがりつく。過去を忘却した繋は理解できなかった。所詮、過去は過去。自分が積み上げていたとしても、希望なんてない。それに未来への希望もなぜもてるのだろう。明日にも希望は無い。希望があるのは今だ。今、こうしてバイクを走らせているのが最高だ。
『…だけど、彼らみたいに過去を振り返ったら?』
フッと沸いた。まるで自分の体じゃない。考え方が全く異なる人々の気持ちが、今回の件で体に流れて来たのが気持ち悪かった。
いつも住んでいるボロアパートに着いてしまう。駐車場には紗枝の車が止まったまま。バイクを停めて中を確認すると、紗枝の姿は無かった。彼女の家はこの付近には無い。きっと、私の家に居るはずだ。
「うぅー寒い寒い」
階段を昇る金属音は自らが楽譜の一部となっている。アメリカにいた頃からそんな感覚だった。このアパートを選んだのも、ステップを踏むたびに鳴る音が一番肌に合っていたから。二階の一番端っこの部屋。繋の部屋は階段から一番遠い。ここに紗枝がいるはず。扉を開けると、紗枝が畳に突っ伏して倒れていた。ま、ここからサスペンスが始まることなんか無いけどね。
「まさか、酒飲んだの?」
「うぇ?あ、繋だー帰って来たんだねー」
紗枝は自分が酔っぱらいやすいって、知っていたはず。しかし、部屋中に酒の匂いが充満していた。酒の匂いは気にしないが、紗枝がこの状況なのはどうにも気がかりだった。
「酒飲むなんて珍しいね」
「仕事が終わったんだよ?あんたが無茶振りした仕事をしたんだ。飲まずにやってりゃれりゅかー!」
「呂律回ってないじゃん。てか、終わったんだ。お疲れ様、ありがとうね」
途端に紗枝の顔が不機嫌になる。何か失言でもしたつもりは無かったので顔をしかめていると、ひと際大きなため息と共に紗枝は話し始めた。
「繋が謝るなんて初めて見たなぁ。感謝の言葉も言ってた?いつもこんな風にしおらしかったら、あたしは楽になるんだけどなー」
目をショボショボさせ、紗枝は手に持っていたビールを流し込んだ。
「寝る!なんか波田洋介にも会ったし、つーかーれーたー」
「紗枝、波田洋介に会ったの?」
紗枝のことだ。余計なことは話していないはずだが、一体何があったのか。波田洋介が行ったその場での対応で、彼の心象が今と繋がる。知りたい。もし、そこで感情の分岐点があるのなら、私の知識欲を満たしてくれる。紗枝を必死に揺するが、彼女は反応しない。
「スーッスーッスー」
「えぇー寝たのー?勘弁してよーねぇ、紗枝。起きてー」
部屋の奥から毛布を取り出し、紗枝に向かって雑に放り投げる。宙に漂った毛布は綺麗に広がって紗枝を包み込んだ。気持ちよさそうに寝息を立てている紗枝を一瞥し、繋は防音室に戻っていった。仕事はまだ残っている。まだ、休むことができない。
「はぁ、良くない影響を受けたかな」
防音室の扉を閉め、繋は閉じこもる。顔を上げると、全てのモニターに見知った顔が映っていた。彼女を待っていたのは、世界中のアーティスト達。描いた物語は、音を立て次々に捲られていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます