第10話

 鼓草駅には誰もいなかった。予定通りなら輪塚浩がここに波田を連れてくるはず。最後に波田洋介の表情や動き、仕草を観察して繋自身の目で彼がどうなったのかを確かめる。考えの答え合わせをしなくちゃいけないのだ。


 繋は考える。SNSは開いていないが、きっとどうでも良いことが書かれているのだろう。繋の力ではないと書かれているかもしれない。だが上手く誘導することもできた。資金源だって全て己の懐からだ。


 突如、フードを被った人物が繋の目の前を横切った。ギターを背負っており、駅構内の歩道橋へと足を進めた。一体何をするのか。時刻を確認すると波田洋介が来る30分前。時間はある。今はまだ静観しておいてもいいだろうか。だが、波田が早くここに到着する可能性もある。考えている彼女をよそに歌い手はギターを響かせ始めた。


「あんまり上手くないな。初めてそこまで経っていないのかな」


 歌い手の姿を見ようとはしなかった。芸術であればそこに姿などいらない。あるべき表現を見つけれればそれでいい。彼女がアバターを使って曲を出していたのは自分の姿を介入させ、勝手なイメージを定着させたくなかったからだ。


 歌を聞いていると時間が経つのが早い。今日は頭もそれなりに使ったし、体も疲れていた。音楽が体に染みこんでいくのが実感できる。FとBのコード以外はかなり綺麗に音が出ている。良いな。何曲か聞いていると、もういつ波田洋介が到着してもおかしくない時間となっていた。


「一応、手は打っておこうか」


 繋は木梨に連絡を取り、鼓草駅周辺でパトロールしておくように指示を行った。これで、誰かが通報したとしても現場に向かうのは木梨だ。波田の邪魔になることは無いだろう。


 そして何曲か聞いた後、繋は歌い手の様子を伺っていた。というのも、こんな時間に曲を弾きに来る人物がどんななのかを知りたかった。芸術に人の良し悪しなど知ったことではない。ただ、作品の創造主がどんな境遇でどんな性格なのかを知ると、理解度がぐっと深まる。観察していて思ったのは、あの人物はきっと普段は真面目な性格。常日頃、何かに抑圧されているために鬱憤を晴らしているようにも見えた。


 観察も良いが、歌い手の曲がまた一つ始まる。繋の目つきが変わった。歩道橋の下、コートを着た男が歌い手を見つめていたのだ。


「来た…あれが、今の波田洋介」


 波田洋介は歌い手の近くへ向かった。何かを話しているようだが、繋の場所までは聞こえないかった。もやもやする。繋は彼らに気がつかれないよう、反対方向の歩道橋の陰に隠れた。そして、駅に歌が再び響く。波田洋介の”燐光”が、繋の体を貫いた。



 “燐光”の曲が終わる頃、警察官の木梨が駅に到着していた。繋が到着したパトカーを注視していると、カツンカンカツンと歌い手が歩道橋を降りてくる音が聞こえてきた。繋は木梨が到着していた方向から、反対側の歩道橋に構えていた。つまり、パトカーを避けるためにこちら側に来ていることは間違いないだろう。息が上がり、かなり急いでいるようにも聞こえる。


 歌い手は繋の目の前を再び横切ろうとする。しかし、繋はその手を取った。汗まみれの手は非常に滑りやすく、とっさに歌い手が振りほどこうとすると簡単に外れてしまった。汗まみれだったのは二人共だった。波田の曲を聞いてから、体から震えている感情が汗となって放出されていた。


 息切れを起こしている歌い手に繋は迫る。逃げられないように、震えている体を逃さぬように、肩をがっしりと掴んでその瞳を見ようとした。歌い手は視線を合わせようとしない。感情が溢れたまま、繋は止められない。


「ごめん、だけど聞かせて。君は波田洋介に何を言った?ねぇ教えて!」


 震えていた肩が止まった。ようやく、その瞳を見ることができる。半ば放心状態の歌い手は自分の置かれている状況が今だ理解できず、疑問がこぼれた。


「も、もしかして、mizunaさん…ですか?」


「そう、私はmizuna。お願い、彼に何を言ったの?」


 親友である輪塚に説得されても、波田はすぐに了承はしなかった。ならこの子は何を言った?楽器を避けていた波田洋介に、何を吹き込んだ?彼を動かす言葉は一体何だった?知りたい。知りたくてたまらない。作品を作るストレージにこの記憶を加えたい。


「お手本…見せてください…です」


 肩を握る力が強くなる。お手本を見せてください…。何気ない言葉が人を傷つけるように、何でもない言葉が人を救うこともあるのか。繋は歌い手から一歩下がった。俯いたままフードを深くかぶる、目の前の人物の頭に手を置いた。身長はほとんど変わらないが、繋の方が大きく見えた。


「そう、わかったよ。ありがとうね。あ、そうだ!」


 繋は懐から一枚のチケットを取り出した。


「これ、今度のライブのチケット。普通の人じゃ入れない特等席なんだ。絶対来て。きっと君にも最高のパフォーマンスを見せるから」


 反射的に歌い手はチケットを受け取った。波田洋介に会って生演奏を聞いたと思えば、mizunaが自分にライブチケットを渡してきた。今日、一生分の運を使っていると錯覚するように、自我が吹き飛んでいた。


「あ、ありがとうございます。失礼します…」


 重くない足取りで、歌い手は駅から離れていく。丸まって小さな背中。


「あんな頃、私には無かったな」


 ブーッブーッ、バイブ音は着信が届いていることを知らせる。そろそろ彼から連絡が来てもおかしくない時間だった。ズボンのポケットからスマホを取り出して、耳に当てる。向こうから話すことは何もない。木梨が繋いだ電話は、彼と波田の会話を聞くための物であった。


 二人の話し声は非常に穏やかだった。関係性が良い職場の上司と部下という具合で二人が非常にリラックスしていることが繋にも伝わってくる。適度な緊張感も寒い気温も、電話から流れてくる音によって心地よさすら感じる。


 波田が誰かに電話しているようだった。ずっと待っていたこの時が、ようやく訪れる。


『輪塚、俺とバンドを組んでくれ』


 波田が、波田洋介が輪塚にバンドを組んでくれと言ったのか。スマホがミシミシと音を立てる。ここまで来た。ついに、波田洋介が歌う場に立つ。一つの大舞台を迎えるための、基礎の舞台が整ったことを今は喜ぼう。


「さぁ、仕上げだ」


 通話を切り、繋は駅を後にした。駐車していたバイクは暗闇に混じり、遠くからは全く見えなくなっていた。そして深夜、凄まじいエンジン音を轟かせて繋はバイクを走らせる。向かう先は病院。心臓の高鳴りは、まだ止まない。

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