第9話

 上本の名を冠する親子二人は盤上の戦争を始めた。将棋は性格が現れる。創吾の果敢な攻めに対して、剛一郎は柔らかく一手一手に対処していく。一見、創吾が有利に見えるが将棋というものは甘くはない。剛一郎は創吾の攻撃が緩んだ瞬間、置いていた伏兵を起点に一気に畳みかけて勝負がついた。創吾はなすすべがなく、王の首を取られてしまった。


「創吾、前より腕を上げたな」


「あんまり時間は取れないけど、芸能界には所属しているからね。将棋が強い人が多いんだよ」


 次の対局の準備がされた。繋はこの二人はまだ戦うのかと思って眺めていた。しかし、創吾は席を立ち、繋に座るように促した。


「父さんと戦ってみてよ。繋はこういうの得意だろうからさ」


 お茶を飲んでいる剛一郎の姿は、ただの年老いた男性にしか見えない。創吾と対局していた時に浮かべていた表情は、息子との大切な時間を過ごして、幸せを嚙みしめる父親そのものだった。


「まぁ、いいけど」


 繋は剛一郎の目の前に座る。瞬間、彼がさっきまで浮かべていた表情は跡形も無く消え去った。お茶を飲んでいた時と雰囲気とは異なり、まさに老将軍。左手で頬杖をついていることもあって、いっそう彼の力強さを感じる。


「将棋は得意かね」


「接待でしか対戦したことが無い…かな。今まで本気で戦ったことがある相手はいないけど、プロの棋士相手に接待できるぐらいには戦えます」


 剛一郎は繋の話を聞くと、目をつぶって口角を上げた。彼の放つ覇気は、そばに居た創吾が身震いするほどだった。先手は剛一郎であり、最初の一手を指して繋に言った。


「本気で来てくれ。私を負かして見せろ」


 繋は若干面倒くさいと思っていた。だが、これは勝負事。彼女が持つ、いつもの飄々とした雰囲気は消え去り、脳内のスイッチを切り替えた。こうして面と向かって誰かの前に座ったのはいつ以来だろうか。全く思い出せない。繋自身はあまり年を取っていないが、これまでの、激動的で細孔に愉快な人生のために記憶が擦り切れてしまっていた。呼吸を整えて相手を見据える。


「こういうのを、待っていました」


 繋は一手を繰り出す。動かした駒は、光り輝く金だった。


 盤上での戦いはまさに接戦、共に守りの布陣だが気を抜くことができない状態が続いている。どこに何手先の伏兵が潜んでいるか、無限にある道筋の中から死角を消していく必要がある。わずかなミスで一気に場面はひっくり返る。細心の注意を払いつつ相手の様子を伺う。余裕なのか、それとも相手の心を乱したいのか。


 繋が一手を考えているのをよそに、剛一郎はもはや独り言のような話を始めた。


「息子とはあまり関わってこなかったが、将棋だけはよく戦っていた。創吾には何もしてやれなかったことはわかっている。いい父親でないことを、今更悔やんでも仕方がないがな」


 話しながらも、剛一郎の一手一手は静かに戦況を見据えている。


「それでも、創吾が私との将棋を楽しんでいたと知った時は嬉しかった。創吾には恨まれているかもしれないが、少しだけ安心することができた」


 しばらく二人は黙り込み、互いの手を打ち合った。そして、繋の一手が剛一郎の布陣を崩し始める。正面から繋は殴りこんでいたのだ。伏兵を気にしていた剛一郎は、突如の猛攻で戦況が一変したことを確信した。剛一郎は再び話を始める。


「きっと、波田君がいなければ私は気がつかなかった。彼が窮地に陥ったと聞いて、すぐに私は協力を申し出た。これが最後の仕事になるかもしれないということも踏まえてだ。だが、彼も守れなかった」


 繋の駒はついに、王の首元に刀を突き立てていた。後はもう刀を真っすぐ下ろすだけ。意志を一回、貫けばそれで終わる。


「時が経って、君のような存在が現れた。波田君をライブに立たせようと動いている君だ。どんな思惑なのかは知らなかったが、願っても無いことだった。だが、首は縦に振れなかった。それが彼の望んでいることなのか、わからなかった。だから静かに事を進めていたのだ」


 王は悔いの無い笑顔を浮かべる。それを見届けた道化師は、刀を王の喉元に突き刺した。


「勝負はつきました。私の勝ちです」


 戦場は動きを止め、繋は剛一郎の顔を見た。穏やかな顔だ。彼の言葉を聞いて、繋は一言呟いた。


「あなたは私と同じタイプで、もっとエゴの塊のような動機を期待していました」


 剛一郎の笑顔は崩れ、いつしか盤上を諦観していた。


「はぁ、もう目の前で人の心が壊れるのを見たくなかっただけだ。あれは堪える」


 対局を終え、繋は立つ。見下ろすと力尽きたような剛一郎の姿があった。


「波田君を頼む。私ができるのはここまでだ。彼に最高の舞台を踏ませてやってくれ」


 繋はいつもの自信に満ちた顔に戻った。耳にかかっていた髪を外して、見下ろすように剛一郎を認識する。


「私が通る道は、生半可な物にはしない。それは私が許さない」


「安心したよ。じゃあ、王は退場とするかね。後は道化に任しておいた方が賢明だ」


 凍り付いていた空気が一気に溶け始める。道化は、風船を子供に配るように笑った。




 階段を降り、繋は真っすぐ玄関へと向かう。今も玄関の外には大勢の人々がひしめいており、そのまま出るにはあまりにも危険だ。何も言わずに外に出て行こうとするものだったため、二階から駆け下りてきた創吾が止めに入った。


「水那!これからどうするつもりだ?外には多くの人がいる。今、水那が出て行けば大騒動は間違いないだろ」


「それが私に関係ある?私の心配よりも創吾、あんた自分の心配をした方がいいんじゃない?」


 繋の言葉に創吾は黙り込んでしまった。完全に図星であり、この状況を記事にされては一体どんなことが書かれるのかは予想ができた。何もできない創吾をよそに、すでに繋は靴を履き終わって、冷ややかな目線で創吾を見つめていた。


 冷ややかな目線はやがて無関心な目へと移り変わっていった。全てを飲み込みそうな目で見つめられた創吾は一歩後ろに下がる。つばを飲み、瞬きをすればもう繋はドアノブに手をかけていた。


「創吾、私が出て行ったらすぐに鍵を閉めて。命令以上のことはあんたに求めない。私がドアの前で話す言葉を聞くかどうかも勝手にすればいい」


 彼の返事も聞かず、繋は飛び出した。そして繋がドアを開けた瞬間、多くの人々が家から出てきた女性にざわめきを抑えられない。波田洋介とは違う、現代のインフルエンサーの相貌の人物はあまりに異質な雰囲気を纏っていたのだ。等の本人は興味も無さそうにあくびを一つした。そして、繋は右手を掲げ、オーケストラの指揮のような仕草を行う。全員が息をのむ。そして雑音は静まった。


 一歩前に足を置く。その場にいた人々は自然と彼女から距離を空ける。何も語らない。突如現れた美貌を携えた女性に、皆が釘付けとなるが何もできない。繋が歩く度、人々は道を空けていく。繋が通る道を自ずと空けてしまっていたのだ。そんな中、一人の女性リポーターが口を開いた。


「私たちは波田洋介を探しているのですが、あなたは一体?」


待っていたかのように、繋は丁寧に息を吸う。


「波田洋介はここにはいませんよ」


 なぜそんなことも知らないのかと、取られるような言い方。そして、繋は何台か向けられているカメラの内、一番近かったカメラに目線を向けた。


「…自己紹介ですか。私は繋水那。mizunaって言った方がわかりやすい?」


 初めて世間にさらす自身の素顔。初めて知ったmizunaの顔。後者は理解が追い付かず、再び歩き始めた繋の道を空けるしかなかった。民衆の群れを繋は抜ける。後ろに興味も示さず、繋は上本家から離れていく。一部の者は留まり、ある者は彼女の背中を追いかけた。先ほど質問したリポーターも繋を追いかけており、さらに質問を重ねる。



「波田洋介さんとは一体どんな関係ですか?」


 繋はポケットからスマホを取り出して、自分のSNSの画面を表示する。


「全ての答えはここに書いてある。わざわざ丁寧に用意しておいたんだ。詳細はそっちを見てくれると助かるよ。ただ、これだけは言っておこうか」


 記者の何人かは繋のSNSを確認する。彼女のSNSの最新の呟き、そこにはある催しの情報が記載されていた。繋は彼らを振り切ろうともせずに歩き、バイクを置いていた近くのコンビニに辿り着く。そして寒さを防ぐための黒いスーツに着替え、真っ黒に輝くヘルメットをかぶる。バイクに乗る準備を終えれば、今すぐにでも出発することができる。目の前のおもちゃにじゃれ合うつもりだった、取材陣達は散々待たされた彼女の言葉を待った。


「精々、曲解してくれると助かるよ」


 豪快な音を鳴らしながらバイクは走り出した。ヘルメットで覆われた繋の顔は誰も見ることができない。人々を置き去りにして風は切られていく。彼女が向かうのは鼓草駅。波田洋介が現れる1時間前だった。

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