第8話


 実行日が来た。まずは木梨が指示通りに波田の状況を探った。評価値は3で、今が一番不安定な時であるということがわかった。上本剛一郎かみもとごういちろうにそのことを伝えると、波田側から何かしらのアクションが来るだろうとの見解だった。


 波田からの連絡はすぐに来た。手筈通り、繋はいかつい自慢のバイクにまたがって上本剛一郎の家へと向かった。


 近くのコンビニにバイクを停め、そこからは歩いて上本の家へと向かう。綺麗な場所だった。人があまりいないこともあってか、音は自然が発する音ばかりであった。ススキが揺れ、鳥が鳴き、川のせせらぎが耳を撫でていく。


「いいね」


 この件が終われば、引っ越すのもいいかもしれない。どこか誰も知らない場所でただ一人、創作活動を続ける。そうだな。それがいい。きっと幸せだろう。繋は自身の中に安らぎの感情があったことに気がついた。珍しい。もしかしたら初めてかもしれない。自身が変わっていくことを感じる。これか。最近、得体のしれない何かが体で渦巻いていたのはこれだ。


―本当に、気持ち悪い


「ライブは絶対に成功させる。私が進化し続け、私が私であるために」


 停滞していた足を再び動かす。目線の先には、目標が捉えられていた。


 上本家はそこまで大きくはない。時代に合った普通の一軒家だった。チャイムを押すと父親ではなく、創吾が出迎える。靴箱に靴を隠した後、繋は二階に案内された。かつて奥さんが使っていたのだろうか、男性があまり使わない化粧品や鏡台が置かれてある部屋だった。


 部屋の真ん中、一人の老人が鎮座している。彼こそが上本剛一郎。元敏腕弁護士であり、各界において多大なる影響を与えてきた人物。彼が居なければ、日本の衰退はもう10年早かっただろうとも言われている。そんな化け物が今、私の目の前に座っている。老人はゆっくりと繋の方向を見た。優しく微笑み、口を開いた。


「繋水那君、君が私を調べたように私も君を調べた。とんだ化け物じゃないか」


 上本の後ろには繋の情報がまとめられたデータが表示されていた。


「化け物に化け物と言われるのは光栄です。まぁ、それはいいです。本題に入りましょう。単刀直入聞きます。あなたは本当に波田洋介の復活に協力してくれますか。悩んでいる何かがあるんじゃないですか」


 当然と言わんばかりの顔で上本は繋を睨む。二人のそばにいた創吾はその空気の悪さから部屋を出ようとする。しかし―


「創吾、お前もここに居なさい。一つのことを始めたのだ。男としてその責任を取るのが筋じゃないのか」


 創吾の扉を閉め、邪魔にならぬよう部屋の隅に移動した。親子のやり取りの間にも、繋は老人の方向から目を離さない。彼が考えている何か、すでに彼女には理解できていた。だからこそ、波田を利用しようとしている繋を招き入れた理由を知りたかった。上本にとって、波田は言葉で表すような関係ではない。そう、繋はただの敵だ。



 上本剛一郎の敵として、繋は向き合わなければならない。だが考えることなど、何もなかった。この人の年代、価値観から思うのだ。この時代の人達はどうして、下手に策を弄するよりも本音をぶつけ合った方が心に響く人ばかりなのだろう。策を考え、手繰るように人生を生きてきた繋は、その事実がどうしても嫌だった。


『本当に、羨ましいよ』


口には出さない。出すのは、ただの本心だ。


「改めて聞きます。上本剛一郎さん、あなたが首を縦にも横にも振らない理由を教えてください。こんな中途半端なことをするなんて、あなたの経歴からは考えることができない。一体何が、あなたを引き留めているんですか」


 上本は右手を見つめる。あの日から思うように動かすことができなくなった、自身の利き腕。思い出をなぞるように愛おしく、今の利き腕で撫でた。


「あの日に失ったものは多い。この右手もそうだ。しかし、残ったのは麻痺だけじゃないのだ。私が知らなかった、優しさがこの体に残ったのだ。病院で目覚めた時に、自分はいかに自分勝手に振る舞っていたのか。これは波田君が私に知らしてくれたのだ」


 上本はぎこちなく繋の目を見つめた。


「だから私は後悔など無い。今は黄色い旗を振りながら、小学生の下校を見守るのが楽しみなんだ。息子とも向き合う機会ができた。そんな彼を救うのに、文句など全く思いつかない」


「だったら、なぜ回りくどいことを。あなたの徹底深さなら、どちらかに首を振ったはずでは」


「回りくどいのは君も同じだろう。私が徹底的に物事を行うことは知っているようだね。そう、もうすでに全て終わっている。彼の本音を引き出すことができるのは私ではない。ただの友人である輪塚君だ。そして彼は今日、もう一度追いかけられる存在となる」


 人を動かすことに関しては、やはり上本の方が上手だと繋は思った。そしてさらに、妻夫木義男に丸投げしてやはり正解だったことも。何でもできるとは思っているが、自身の足りない部分を正確に理解している。目的遂行のために何が必要なのかを繋は取捨選択することができるのだ。そして、上本もそれに気がついていた。


「だから、あなたは首を縦にも横にも振らなかった。私がどのような人物か、自分の見方で判断したかった。そのための、あえて曖昧な選択。で、どうですか。私はまだ邪魔ですか?」


「いいや、大したものだ。その年齢でここまで駆け引きができるとは…期待以上だったよ」


「私も楽しかったです。創吾じゃどうも張り合いが無くって、物足りなかったんです。やはり、多くの修羅場をくぐってきたあなたの方が上手ですね」


 短い時間の中での充実な時間。繋は本当に楽しんだ顔を上本に向けた。一方、なんとも呆れたと言わんばかりの目で上本は返す。そして同じ眼差しを息子に向けた。


「おい創吾、言われてるぞ。何か言い返さなくてもいいのか」


「…図星なので」


「いっそのこと私の会社で働いてみる?グループ会社の内で、もっと刺激のある場所が空いているんだ」


「そりゃいい!芸能界とは、また違った面白さがあると思うぞ!」


 おかしかった。息の詰まるようなやり取りをしていた二人は非常に生き生きとしている。反対に、この場にいた中で一番疲れていたのは創吾だった。




 時間が来て、上本家に波田が訪れる。繋と創吾の二人は家の二階にいた。波田が滞在している間、何も話さず、何も聞かずに息を殺していた。やることも無いので、繋は久方ぶりに寝転がった。古びたコンクリートの匂いがいい。窓のサッシに少し埃が積もっていた。


 彼らが何か話している。いったい何を話しているのだろうか。きっと過去のことを振り返っているに違いない。思い出話か?目をつぶって想像してみる。私にできないことは無いのだ。彼らがどんな話をしているのか、簡単に想像することができる。


 声が聞こえてきた。実際に彼らの声なのか、それとも私の想像なのか。映画のワンシーンのように切り取られて脳内に再生される。彼らの暖かい会話は、繋の胸の中に突き刺さっていく。想像する。私のこれまでに、これからに彼らのような見えない関係が生まれるのだろうか。頭を振り、思考をリセットする。


 これがもし、想像ではなく創造ならどうだろう。この会話を歌詞に落とし込むことで、生まれる表現は何なのか。寝返りを打つと、ちょうど顔の目の前に窓ガラスが現れた。暇でボーっと眺めていると歩井口橋が視界に入った。


『人が集まっている』


 スマホを取り出してSNSを覗くと、トップトレンドに波田洋介のハッシュタグがあった。波田洋介を見たコメントや、当時の事を思い出した書き込み、そして彼の音楽をまた聴きたいなという声も多かった。人に望まれている…私とは大違いだ。ハハッどうでもいいか。


 断片的な情報から、繋は今の民衆の状況を整理した。歩井口橋周辺で波田洋介を見つけたという書き込みから、地元の住民が集まり始めていたのだ。この家に辿り着くのも時間の問題だろう。さて、波田洋介だけではなくmizunaがここにいることがバレてしまったら、まぁ大変!きっと根掘り葉掘り聞かれてしまう!とりあえず波田洋介をここから追い出さなければならない。スマホを取り出した。


 木梨から入手しておいた電話番号を探る。寝転がりながら波田洋介に電話を掛けるが、この時の声はmizunaを意識した。私の声はきっと聞いたことがある。電話を受けた彼は明らかな敵意を持っていたが、冷静に私の指示に従ってくれるようだ。昔の彼なら、きっと指示には従わなかっただろう。木梨が結果を見せたレベル3は非常に不安定であることの証明であり、彼が自信を無くしてしまっていることの表れだ。彼は、一体どれほど自身の事を責めたのだろうか。知るものは誰もいない。



 慌ただしく誰かが家を出ていく音がした。カーテンの閉まる音も聞こえる。しばらく経つと一階から私たちを呼ぶ声がした。私たちは終始無言のまま階段を降りていく。スマホで中継を確認すると、近所の住人たちを巻き込んで取材陣たちが上本家に入っていた。波田洋介はうまく逃げることができたのか、これほどの人数ならどこかで捕まってもおかしくないだろう。


「創吾、そこに将棋が置いてある。一局打ちたいから準備してくれんか。腕が鈍って仕方ない。あと、菓子と波田君が淹れたお茶もある。食べてくれていい。お茶はかなり薄いが、将棋と時間つぶしのお供には丁度いいだろう。」


 創吾は指示通り将棋の準備をし始めた。彼らが指す将棋とは一体どんなものなのだろうか。物事の考え方を見る良い機会だ。駒を並べる段階でも性格が出る。剛一郎は非常に綺麗に駒を並べる。一方、創吾はあまり整列していない。将棋を指している様子をジッと見ていると、剛一郎は繋に話しかけた。


「繋君、すまんが対局の写真を撮ってくれんか。波田君が逃げていれば、きっと私の事を心配するはずだ。彼にこの様子を伝えたいのだ」


 創吾と同じように剛一郎の指示を聞く。波田にメールを送り、繋は茶菓子を頬張る。中途半端に乾いており、お世辞にもあまり美味しいとは言えない代物だった。

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