第7話
『上本剛一郎。東京大学法学部卒。卒業後は大手の弁護士事務所で経験を積んだ。大企業相手の弁護士として手腕を発揮、様々な事案に対応。独立後は芸能界を中心とする中小企業と関わる事務所として力を伸ばしていった』
手元の資料に書かれてあった上本の経歴は凄まじい。実際の案件でも、いくつかはかなりの根回しを行っていたことも紗枝が行った調査でわかった。ページを捲る。
『2014年、波田洋介における周辺の事態収拾の仕事を請け負う。法的措置、司法取引、資金運用、様々な角度から仕事を行った。しかし、インターネット上で過熱した偏見や嘘の情報に踊らされる人々に注意していなかった。記者会見の当日に集まった暴徒によって頭を殴打され、意識不明の重体。右手に麻痺が残る。その後、請け負っていた仕事を終えて事務所たたむ』
繋がこの情報を眺めていると、思い浮かんでしまうことがあった。マイクに繋の声が通る。
「創吾、波田洋介は嫌い?」
繋は考えていた。創吾が波田を嫌っていたとしても、繋は彼の父も波田も利用するということを曲げるつもりは無かった。ただ、彼が肯定的なら仕事は進めやすい。繋のヘッドホンからは、少し間が空いて彼の声が聞こえてきた。
「嫌いだよ。お父さんの右手に麻痺を残させた。笑えない。波田がいなければ、お父さんは今でも弁護士を続けていたはずだ。波田は積み上げてきた時間を奪ったんだよ。どうして許せる」
解答はノー。創吾は、木梨と同じなのか?確かに、そうなったとしても仕方がない。別の手はある。でも…創吾の職業は何だった?この言葉は本心で間違いない。繋は笑みを浮かべる。
「許せなくても、協力するんでしょ?だから私に連絡した。これがあなたの本心」
大人になって強くなる恨みがあれば、大人になって薄れる呪いもある。私と違って彼は後者のパターン。それがわかる理由は、たった一つだけ。この世に前者の人物は少数派という事実だ。
つまらない駆け引きは嫌いだ。創吾だと、どうしてもこちらの考えが上回ってしまう。さっさと終わらせよう。創吾の動向を伺う。考えていたようだが、彼は父親には敵わない。頭はいいがどうしても修羅場をくぐってきた数が違うのだ。彼は父親が積んできた経験を味わっていない。だから、簡単に折れる。
「お見通しか。水那はやっぱり賢いよね。初めて会った時から何を考えているのかわからなかったけど、切れる頭は凄い。大学…行ってなかったよね?」
行っていない。他にやらなければ、やりたいことがあったから大学には行かなかった。知識など、本、人、動画、日常のありとあらゆるところから学ぶことができる。だが、昔紗枝が言っていた言葉が脳内にへばりついている。『その考えに普通の人間は辿り着かない』と。
話がずれるかもしれないと考え、繋は軌道修正を図る。ヘッドセットマイクを握りしめ、目の前に創吾がいるかのように視線を貫いた。
「行ってないよ。そんなことはいい。私はまだ上本剛一郎から返信を貰っていない。協力してくれるか否か、創吾に聞いて貰うよ」
「いいよ。けど、こっちにも聞きたいことがある」
「何?」
珍しいことだ。創吾から水那に対して、明確に何かを問うことは無かった。繋は耳を研ぎ澄ます。一言たりとも聞き逃さないように。
「勝手な印象だけど、水那は一つをやり遂げると決めたら曲げない性分でしょ。君を変える何かは、この世に無かったのか」
何てつまらない質問何だろう。でも、あるよ。心をバラバラにさせないのは、たった一つだけのものだ。声が自然とハッキリ形を持った。
「音楽が私を変えた。そこにあるのは、並べられた音程達。空虚ばかりのこの世の中を歌う、一つの短編小説が、私を変えた。そして、初めて知った壁。努力するということを知った初めての事柄で、きっと音楽が無ければ私は努力を馬鹿にしていた」
だから、音楽を初めて音楽と知ったきっかけの波田洋介を諦めきれない。過去は…まぁいい。口が止まる様子は一寸たりとも見せない。
「大した努力もしていないのに、人の努力を馬鹿にする者はただのゴミだ。音楽という壁を知らなければ、今頃私は金と力に溺れてゴミ箱の中に入っていた」
ここまで真剣に語るとは、創吾としては予想外だった。嬉しい誤算で、つい表情が緩んでしまう。創吾は孫の成長を見守る老人の気持ちなのだろうかと思った。
「お父さんに伝えておくよ。水那は思ったよりも子供だったって」
「もうーいじわるやめて」
耳元から創吾の笑い声が聞こえた。
「こっちからすると、水那はいつまでたっても子供さ」
モニターに次のモンスター情報が表示される。二人はコントローラーを握った。次の戦いに備える。現実の心情か、ゲームでのアイテムか。次の戦いに二人は自らの刃を研ぎ始めた。
上本剛一郎からの返信は、創吾を通じて行われた。波田洋介に関する事柄には賛成だが、準備自体はこちらで行うとのことだった。出番の日さえわかれば、どうとでもなるということなのだろうか。
しかし、全く引き下がるわけにはいかなかった。計画の内容も提示されていたが、中身はただ家で波田洋介と話すということしか書かれていない。当然、これ以上の案は無いのだが何が行われているのか知りたい。人の心が揺れ動く瞬間は、きっと自身の創作活動の糧にもなる。
何度かやり取りを行って、実行日に繋と創吾が家に潜伏するという約束を取り付けることができた。しかし、上本剛一郎の動きはそれだけに留まらなかった。妻夫木と友人だったこともあり、波田洋介の周辺状況を調べ上げた。彼の状況を知れば知識人から接する方法を学んでいたのだ。
「老人だからと言っても侮れない。でも、いいね。この年でここまでできるのは、やっぱりモンスターだ」
予想はついていた。最後の大仕事と思って、この件に当たるだろうと思っていた。そして私との駆け引きも絶対に無いということも。驚きはない。知識をあまりにも蓄えすぎた者同士だと、そもそも駆け引きが成立しないのだ。お互いに省エネルギーで最適解を導き出す討論を行う。彼ともそのようなやり取りになるだろう。
彼は心が穏やかな人だ。穏やかで、物事を見極める。ここぞというチャンス見れば見抜いて、殴りこむ。私と同じタイプの人間。外側に何を被っているかで印象は違う。でも根本の考え方は同じタイプ。あぁこれから合うのが楽しみ。きっと、今私が鏡を見てみれば恍惚とした表情を浮かべているに違いない。
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