第5話

 ぐらついた環境は好きで嫌い。安定というものをこの世に求めるのなら、震えながら過去を生きてい行けと心に刻んでいる。ぐらついたというのは物理的にも精神的にも当てはまる。


 今のこのホテル内で繋は自身の考えを開こうとはしなかった。今の状態では、彼に届く言葉も届かない。なぜなら、彼は終始反応を薄く取り繕っているがまだまだ粗が多い。これを解決するためには、外に木梨を連れ出す必要があるか。ふぅん。ただ、下手に策を弄する必要などない。


「どこに行かれるんですか?」


「ん?散歩だよ。あんたも来るでしょ?」


 ホテルのフロントに向かう道中を繋は先導した。後に木梨が続く形だ。


「歩きながら話そうか、あんたにも協力してもらいたいし」


 町の風はまだ温いが、すぐに冬が来る気配がした。寒空の下にライブは行う。あまり時間が無いのかもしれない。


「話とは、何でしょうか」


 せっかちな奴だ。随分しつけがなってなさそうだ。だが、こちらとしても早く話を終わらせたいし、要件をさっさと済ませるか。彼に向けてUSBを放り投げる。


「あんたには波田洋介がどれほど寛解したのかを探って欲しいんだ。5段階評価で私に知らせてくれ。準備しておくこととかは全部そのファイル内にまとめてあるから。じゃあ後はよろしく」


 繋はそのまま木梨の元を立ち去ろうとした。こんなやり取りは楽しさもあるが疲れる。彼の事など視線に入っておらず、彼女の目は昼間っから開店しているとある居酒屋に向けられていた。


 店先では、おっちゃん二人が何か話しながら飲んでいた。瓶ビールが入っていてであろう箱を椅子と、手作りの木製テーブルが店先の雰囲気を作っている。あ、椅子は木製もあるな。そして、彼らが晩酌を行っていた場所で、椅子が一つ空いていた。混ぜてもらおうっと。


「繋さん、あまりそばから離れないでくださいよ。僕はこのファイルの中身を確認しますので」


 木梨の忠告も聞かずに、酒盛りの席に繋は向かった。二人の酒飲みは突如現れたルックスが良い女性を凝視した。彼女は何もしなければ美人。姿を出して活動しないのがもったいないぐらい。そして、ルックスの中で満面の笑みを携え、繋はドカッと椅子に座って手を上げた。


「すみません!ビール三つ大至急で!」


 店内へ向かって、通りの良い声が響く。


「若者が昼間っから酒とは、世間は大丈夫なんか」

「儂らが言えることじゃないだろ」


 突然の珍客に二人の酒飲みは寛容な態度を見せた。店内と言うか店外と言うか、微妙な位置に彼らは座っていた。そして、大きなローテーブルを占拠し、彼らは木製のベンチのような低い椅子に腰を下ろす。そして、食事は焼き鳥や柿の種のような酒のつまみが並んでいた。


 ビールは綺麗な泡を抱きながら、大ジョッキで運ばれてきた。店員に貰ったと同時に一気に飲み干し、勢いよくジョッキをテーブルに叩きつける。そして、指で追加数を示した。


 店員も、先にお酒を楽しんでいた二人の男性も魂を抜かれたような顔を浮かべた。繋はひどくリラックスしており、この光景をさも当たり前なのかのように振る舞っていた。


「くぅう…ビール、最高…」


「ねぇちゃん、いい飲みっぷりだな!こりゃ俺も負けてられんな!」

「おいおい、そんなに飛ばして大丈夫か?と、言いたいところだが儂も張り合うぞ!」

「お、お、お待たせいたしました!追加の大ジョッキです!」


 ついさっきまでこの場にいなかった繋の振る舞い方は称賛されるものではなかった。しかし、この一瞬で場を制した、盛り上げた様子は物陰から見ていた木梨にとってはひどく異質に見えた。繋は、どこか狼狽えている彼を横目に酒を飲む。どこの誰かもわからない、素性も全く知らない。しかし、繋はまるで旧知の中のように楽しむ。


「そうだ!ねぇちゃん、俺の武勇伝を聞いてくれよ」

「うわ、また始まったよ…」


 二人の男の内、顔を真っ赤にしている人物は自身が積み上げてきたものを語ろうとし始めた。ジョッキを高く上げて準備万端。辺りに紙吹雪で吹いて喝采を受けていると錯覚している。繋の視線が急に冷ややかなものとなるが、二人は気がつかない。


 もう一人の男性は呆れた表情を浮かべる。しかし、繋はそのジョッキを掴んだと思うと机へと引きずりおろした。そして勢いのままローテーブルに足をかけ、男を見下ろす。蛇に睨まれたカエルは目を開けたまま放心状態になった。


「武勇伝を語るんじゃない。あんたの功績は後世に語らせろよ。自分で話すのは、ただの自分が立派だという妄想だ」


 捕食されるのかと思いきや、まさかの一言。顔を真っ赤にしていた男はポカンと口を開けて呆けた。すると、相方の突っ込みが入る。


「おい!こりゃ一本取られたな!お前もまだまだだな!」

「こんなこと言われたの、いつ以来だろうな!はっはっは!」


 三人は笑顔を浮かべ、そのままドイツ式の乾杯で喉を消毒した。しかし、三人が楽しんで飲んでいる頃、様子を見ていた木梨はあまり良い気分ではなかった。


「はぁ」


 酒を楽しむのはいいが、木梨としてはあまり目立って欲しくない。しかし、何もできない。重要人物であるが、それと同時に絶対に逆らってはいけないのだ。彼としては歯がゆいだろうが、下手に刺激することもできないだろう。


『頃合いか』


 繋は万人受けしそうな笑顔を浮かべて店員を呼んだ。


「じゃあな!また会ったら飲んでくれ!店員さん、この人たちの分もこれで払っといてもらえるかな。あ、そうだ。余ったものはチップとして受け取って」


 店員の手の中に札を数枚忍ばせて、そのまま木梨の方向へと進んだ。彼が心底不服そうな顔を浮かべている様子は本当に犬っぽいと感じつつ、あの店で一番おいしかった焼き鳥が大量に入った袋を渡した。居酒屋だけにしておくのはもったいないほどの上手さだ。思わず共有したくなるのはダメな考え方だと思う。


「不満でーすか?」


「いいえ」


「嘘つけ!さっきまでと違って挙動が若干不安定。背広も変になっているよ?」


 着ていた背広を立て直して、木梨は深呼吸をした。


「嘘だよ。それだと波田洋介も同じことを思うはず。接触するときは気を付けてねー」


「え?」


 ジョッキ三杯、日本酒一升だと少し足りないな。あれぐらいじゃ酔う気配は微塵も見られない。用も済んだし帰るか。木梨から背を向けて、繋は駅の方向へ歩き出した。しかし、声を荒げて木梨は叫んだ。


「ちょっと待ってください!確かにデータは見ましたよ。ですが、僕は波田洋介に合わせる顔が無い!他の人物を当たるべきです」


 言わないとわからないか。言葉にしないと伝わらないよな。気楽であることを、大した問題ではない何も知らないような人物を、脳内に設定した。


「そうだ!波田洋介に仕掛けよう。これで彼の状態がわかる」


「…何をするんでしょうか?」


 繋は、これが当たり前なのかのように淡々と語った。


「いけ好かない詐欺師まがいだよ」


 木梨の目つきが変わったと思えば、すぐに考えている素振りを見せる。本当によく考える人物だ。とっさの判断もできるが、冷静に物事の目的を判別しようとしている。やはり、この役は彼にしか任せることができない。


 あの日の出来事を今もまだ熱を持って許さないのは、彼ともう一人だけなのだ。世間も、自分自身も全てを許していない。許すということも一つの形だが、許さないことも間違っているわけじゃない。仕事に殉ずるほどの意志。さっきまでのやりとり、繋は確信を持って答える。初めて本気同士の視線がかち合った。


「あんたは別に過去を乗り越える必要は無い。これは波田洋介だってそうだ。似た者同士、何か通じるところが、あるんじゃない?」


 やっと諦めて、木梨はため息をついた。表情も仕事の顔ではなくなる。仕事顔じゃなければ警察犬のような顔じゃなく、おっとりとした人当たりの良さそうな人物に見える。


「わかりましたよ。ファンとしての意地、たっぷり披露させて頂きます」


 それでいい。今度こそ帰ろう、そろそろ紗枝から連絡が来る頃だ。背を向けて歩き出そうとした。しかし、繋の足は木梨の声によって再度止められた。


「一つ教えてください。今日のやり取りの全ては、繋さんの計画通りだったのでしょうか?」


 背中越しに一度だけ手を振り、繋は何も語らずに去っていく。夕日に照らされる彼女の姿が街中に消えていく。木梨よりも二回りも小さいはずの彼女の存在が、木梨にとってはあまりにも巨大な壁に見えた。


「怖い人だ」


 木梨の退路はすでに断たれていた。しかし、木梨はやり遂げてみるかという気持ちに不思議となることができた。波田洋介のやり方で、彼と相対するための人物像を作り出す。もし見抜かれたのなら、彼は良き方向に向かっている証拠である。


部下へと指示を送る無線機は起動したまま。取り残された木梨は呟いた。


「敵がいつも先を行くのは当たり前か」


もうじき夜が来る。彼らの輝きが道しるべとなる、暗い世界だ。

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