第4話
手元の写真はあと二枚、それぞれ男性の証明写真を拡大したものだ。
街中を歩くと、様々な音が聞こえてくる。人々の雑踏、生き物たちの営み、全ての音が鮮明に聞こえて聴覚を彩る。しかし、視界に映るのは無機質な混凝土ビルばかり。だからこそ、繋水那は東京とは違う普通の街に住んでいた。家からは田んぼや山が見え、10分ぐらい車で進めば海もある。
でも身の回りの物には困らない。近くにスーパー、銀行、コンビニ、ガソリンスタンドが徒歩圏内にあれば別に都会に住む必要は無いのだ。全てを勝ちとったこの自尊心を融和するためにも、この街で繋は過ごしていた。
この街の悪い点を一つ上げるとするのならば、おしゃれは無い。アート的なものも少ない。それだけは本当に不満だ。わざわざ地方都市に出向いて個展とかを見に行かなくちゃならないのが、とてつもなく億劫だ。いっそのことヘリコプターでも買えばいいのだが、全く関心が無かった。
街に漂う空気と一体化していた繋の行く手を、黒い影が遮った。視線を上げずにそのまままっすぐ進むが、黒い影は蜜を譲る気配がない。見上げて顔を見ても深く帽子をかぶり、マスク姿で顔の全体像が確認できなかった。邪魔だなこいつ。
「そこ、どいてくれる?私が通るんだけど」
「フッ」
こいつ、鼻で笑いやがった。
「失敬。あなたが、繋水那さんですね?それともmizunaと呼べば良いですか?」
繋水那がmizunaと知っているのは、紗枝しかいないはず。繋は誰にも教えたことは無い。なら、紗枝が話した?それはないだろう。彼女はそんなことに興味は無いはずだ。
「兄ちゃんは誰だ?」
男はマスクを外し、素顔を見せた。あ、こいつか。繋は写真を再度確認する。証明写真と随分雰囲気が違うが間違いないだろう。オールバックが似合いそうな面構えだった。
「木梨圭斗、警察官…いや今は公安だったっけ」
穏やかな笑顔を浮かべて彼は答える。
「兄ちゃんという年でもないんですが…そうですよ。僕が木梨圭斗です。この度、あなたのそばで監視せよという命令を受けましてね。ここで話は良くないでしょう?」
辺りを見渡してみると、人が居なかった。いくら人が少ないとしても、人っ子一人歩いていないのは珍しい。違う。よく見ると何人かがこちらを見張っている。そういうことね。
「いいけど、一般人相手にこんな回りくどいことする必要ないでしょ」
しかし、穏やかな表情を崩さずに木梨はホルスターにある拳銃をちらつかせた。
「力のある人物が何か行うようでね。こちらとしても黙ってみているわけにはいかないんです。それに、私はこの乾いた音が嫌いなんです。どうか響かせないようにお願いしますね」
一歩近づき、繋はホルスターを突っつこうとした。とっさに木梨は距離を取るが、繋は笑顔を我慢することができていなかった。さらに巣に張った糸に絡まってしまった哀れな昆虫を、ただ見つめる蜘蛛の視線を繋は携える。その様子があまりにも不気味すぎて、木梨はさらにもう一歩後ずさりした。
「いい?無機質な部屋は嫌いだからね」
高圧的な様子を崩さないまま話す繋に対し、木梨は執事のように丁寧に答える。
「承知していますよ」
彼らが来たのはホテルだった。最上階を貸し切り、部下たちは各部屋や廊下で待機していた。会議室でもあるのかと思いきや、繋が案内されたのはホテルの一室だった。
豪華絢爛ではないが適度な装飾、リラックスできるように作られていた。繋は内心感心していた。ただ古臭いセンスは仕方ないとも思っていた。
「私、あなたと恋人でも何でもないけど」
「あなたには興味がありませんので安心してください」
「女性にひどくない?!?」
ネクタイを緩め、木梨は窓に近づく。繋は思った。なるほど、正義感の強い人物なのだろう。背を向けている時でも私に対する警戒を緩めていない。適度にピリついた空気も醸し出しているのも…わざとだな。
「さて、ここにご招待させていただいたのは、あなたを扱うためのマニュアルがそうだったからです。私は気に入っているのですが…繋さん、気に入っていただけましたか?」
ふかふかのベッドに飛び込んだ。この綺麗にベッドメイクされた状態をぐちゃぐちゃにするのが何と楽しいことか!ゴロゴロと転がって、ボンボン飛び跳ねた。布団はもっとぐちゃぐちゃに、あぁ!たまらない!
『ブン!』
枕を木梨に投げつけた。木梨は視線を外さずに枕をよける。まるで子供のような無邪気さ、社会性の無さ、これが繋水那ということ。木梨の頭によぎる考えは一瞬にして整理されていく。だが考える様子は微塵も見せず、紳士的な対応は崩さない。
「気に入っていただけたようで何よりです」
「じゃあ話でもしようか。お犬さん?」
繋が座っている様子はまさに女王だ。彼女が足を伸ばしているのは紛れもないただのベッド。しかし、仕草や適度な空気感、声の張りかたが繋水那から視線を外すことを許さない。
これが持つ者、勝ちとった者のなせる業。木梨は記憶を掘り起こした。彼女は7年前に、一度だけ会った波田洋介と近い何かがある。やはりただ者ではない。木梨は胸ポケットから封筒を取り出して繋にちらつかせた。これを読めば少しは大人しくなるだろう。
「飼い犬でも、噛むときは噛みますよ」
封筒の中身は繋の知り合いからの手紙と契約書だった。ご丁寧にパソコンでタイピングされ、きっちりとハンコも押してある。律儀なもんだ。内容もありきたりのお願い方法。うーん100点!こういうの嫌いなんだよな。
「えい!」
契約書も、手紙も、全部びりびりに破いて空中に放り投げた。
「はっはっはっはっはっ!ははっはっはっはっは!!!!」
ベッドの上に仰向けになって破いた紙たちを浴びて、繋は思った。私は雪を降らせることに成功したのだ!それもこの世に存在しない水を含まない雪を!
かき集めては何度も空中に放り投げ、その度に高笑いをする。ふとした切れ間に、彼の様子を見た。木梨は全く表情を変えずに繋を凝視していた。
「怖い顔で見ないでよ。でもさーこれでわかったでしょう?」
彼女の何か、欠落?それとも演技?しているのは誰から見ても同じだった。およそこの年齢では身に着けている常識を、配慮を、倫理をその身に宿していない。
しかし彼女は普通の人なら絶対に行わないような、どんな態度でも取れるという事。表情には出さないが、木梨はとんでもない仕事を任されたと確信する。目の前の化け物に対して精々、首が飛ばないことだけは願っておくしか木梨に残された道は無かった。そう―誰もが考える。
「ねぇお腹空いた。何か食べたいー」
再びベッドでゴロついていると、木梨は袖のボタンに忍ばせた無線機で部下たちを呼ぼうとしていた。
「料理を持ってこさせろ、何でもいい」
ベッドから跳ね起きて視線を木梨に飛ばした。さっきまで無関心の装いから、ジッと静止する。彼が情報通りの人物なら、私の意図を読むことができるだろう。
「はぁ、至急だ。料理のジャンルは問わん。10分で持ってきてくれ」
ベッドの中が非常に気持ちいいな。流石はホテルのベッドということだろう。うーん。一つ大きなあくびをしてまどろみの中に落ちる。どうせすぐにたたき起こされるだろう。
あ、良い匂い。体を半分だけ寝かせていたために、匂いに関しては非常に敏感になっていた。ふんふん、この匂いは…オムライスだ!
部屋に運ばれてくる料理はオムライスだけじゃなく、フライドポテトもオニオンスープも付いていた。10分では上出来じゃあないか。口の中に次々と料理を掻きこんでいく。ふむふふ、とりあえずこの料理は美味い!そうやって繋が料理を食べている様子を木梨はジッと観察していた。
「あなた程の力を持った人が何を思って、表舞台から姿を消したんですか」
「一個人の動向なんて気にしても仕方がないだろう?」
「こちらとしては何を企んでいるのか知らないといけないんですよ。ご協力をお願いします」
ひとまずオムライスを掻きこみ、空腹の腹を満たした。フライドポテトをつまみながら繋は目的を話した。波田洋介を復活させるという事、そして世界を巻き込んで音楽祭を行うことを告げた。
波田洋介についての事柄を話すと、木梨の目の色が変わった。疑心暗鬼を生じた胸中で、事実かどうか探っている。嘘などついていない。上辺だけの綺麗ごとなんざ、ほとほと並べる気など無いのだ。
「木梨圭斗、あんたがここにいる理由は何だ?」
脊髄反射の如く木梨は口を一度開いた。しかし、視線を外してまで言うのを止めた。彼にとっては違和感のある出来事が多すぎたのだ。大きなため息をつき、諦めたように言葉を溢した。
「全部あなたの仕業ですね。全く、してやられましたよ。上層部はまんまと嵌って僕に指令を送った。はぁ…繋さん、ここに僕が来た理由でしたね?」
椅子に座って、木梨はそばにあった水を飲んだ。やはり、飼い犬は飼い犬なのだ。尻尾を振ることしかできない。
「僕はあなたの道具として、ここに来た。さぁ命令してください。お手でもしましょうか?」
満足げに、頬杖をつきながら繋は言った。
「お利口な犬は好きだよ」
女王の歩みは誰も止められない。
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