第一章 緋色のギター 最終話

早朝5:30


 鼓草駅、私服姿の波田が再びこの場に現れた。ちらほらと駅に人が集まり始める中、波田は救急隊員の小口と共にこの場に立っている。寒い。老い始めた体には負担が大きすぎるこの暗闇で、彼らは準備を始めた。


「波田さん、本当にするんですね」


 ギターケースを背負っている小口は、準備運動を始めている波田に問いかける。


「君がギターを持ってきてくれた。だったら、俺がすることができるのは一つだけだ。全身全霊を込めて、ここで歌う。君こそ、何も話さなくていいんだな」


「ええ、仕上げなので。さ、これを」


 一本のギターがケースから取り出された。緋色に光るその躯体にはかつての波田のサインが光る。ためらいも無く、波田はギターを受け取った。


 軽く音を鳴らすと、手入れがされていることが伝わってきた。ギター本体はあまり高価なものではない。弦もプロが使うようなものではない。弦高も中途半端で、弾き語りとソロギターのどちらかに適しているということでもない。だが、そんなギターも波田の手に掛かれば、煌めく音色を生み出す魔法を引き起こすのだ。


 駅の大広間。ここでの路上ライブが何を意味するのかは、熱狂的なファンである木梨なら知っているだろう。初めてライブを行ったこの場所で、上京していなかったあの頃と同じ場所に立っている。両手をグッパグッパ動かして指先を暖めた。


「故郷って、何で戻ってきてしまうんだろうな」


 小口が固定してあるスマートフォンの録画ボタンを押す。街灯も光を失う。雲の切れ目からスポットライトのように光が漏れだして、波田を照らす。そしてぞろぞろと人が集まる中、波田の一人きりのコンサートが開演した。


 椅子に座ったかと思うと、弦が両手によって愛で始められた。天然水の如く透き通った音が、時間に余裕がある者、無い者の全ての足を止める。作業中のコンビニ店員は商品を手に持ったまま耳を澄ます。掃除をしているおじいちゃんは、集まった落ち葉が飛ぶのも知らないふり。やがて全てを包み込む音色が、様々な場所に優しい便りを届ける。


 誰もが目を離せない。波田に向いているスマートフォンはたった一台だけで、皆が目で焼き付けるべく視線を集中させた。音の中心の男は目をつぶっている。微笑みを崩さずに、自分が世界を止めているということも気がつかないまま、ただ彼の時間を使い続けた。


 ソロのギターを終えると、波田はピックを取り出してストラップを首にかける。拍手が起こりそうな中、ピックが舞踏を始めた。そして最初にこの場所で歌った歌を、波田は叫ぶ。青年時代に才能に恵まれながらも、人間関係の構築が上手くいかずに体を崩し続けた日々。胸の中に残る気持ちを書き連ねた純粋なテクニックなんか無い、思いだけを書き殴った歌を、年月が経ったに波田が歌う。これが歌だ。己の内をさらけ出す輝き、熱、願いが突き刺さる。


「あ、雨だ」


 通行人の一人が呟いた。通り雨が聴衆を、波田を濡らしていく。構わない。構わないんだ。雨だろうが何だろうが、今の歌を止めるものは何もない。人が魂を揺らすのは芸術だ。魂を込めた芸術こそが、人の心の支えとなりうる。ならばこそ!歌が、たった一曲が人を救うことだってある。波田は叫び続ける。雨もかき消すような大きな声で、人々の心を解いていった。雨も降っている。だが、雲の隙間から照らす光も相まって人々を非日常に連れて行く。


 あの時の自分をこれからも連れて行くために、この歌を歌う。日の光に照らされていたと誰もが思ったが、やがて人々は波田から光が溢れているのではないかと錯覚した。この歌は人に贈る歌ではない。いつか願った空に、波田はギターを弾いて喉で歌う。過去の思いを、未来の思いを、今この瞬間で取り戻すために。















 曲はいずれ終わる。最終コードを弾き切って、波田は肺をはち切れんばかりに膨らます。体が叫ばんとしていた。歌詞でもなんでもない。今の気持ちが自然と溢れて止められない。最高の笑顔を連れて、ピックを掲げる。


「本当にくだらねぇ。何もかも、くそくらえだ!!!」









 曲を届け切った。拍手が大きく鳴り始めるが、波田は世界から音が無くなった気がした。雨足も速くなっているのに音が消えた。そして最後のコードを弾き切った姿のまま、目をつぶって彼は硬直する。熱の溢れ出していた歌を歌っていたはずなのに、歌い切った後の心は非常に穏やかなもので、息をするのも忘れてしまっていた。このまま眠ってしまいそうな微睡の中で、波田は一人立っていた。

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