第11話

 波田は一曲を世界に伝えた。駅の歩道橋で行われた小さなライブは、ただ一人の観客の言葉を奪う。血が沸騰していくような、狂気的な感覚。まさに音楽にとりつかれたようだった。一方、波田は歌詞を語り終わる。そして最後のコードを弾くと黒い空を仰いだ。


 燐光は7年前に書いていた途中の曲だった。上本にそのデータを受け取り、ガレージで輪塚が持っていたパソコンを借りて車に乗っていた1時間ほどで完成させた。音はほぼ完成しており、わずかに修正を加えただけ。しかし2番の歌詞は丸ごと作り替えた。前半は昔の波田が作ったままの歌詞で、後半は今の波田が7年間で気がついたことを書き連ねた。


「どうだった?」


 一人の観客は頷き続ける。そして、波田はストラップを外し、ギターを返却して耳打ちをした。


「早くこの場を去りな。向こうの相手は俺がしておく」


 波田が視線を駅の外に向けると、誰かが通報した証拠のパトカーが停まっていた。夜遅くに大声で叫んでいたのだから当然だろう。彼の言葉の言う通り、ギターの持ち主はそそくさと片付けをして駅を去ろうとする。


「ありがとうございました!」


「今度会った時には色々と教えてやるよ。達者でな」


 駅の裏から出ていく影を眺めて、波田は歩道橋の真ん中に移動して煙草を吸い始めた。煙が溶けていく。感傷に浸りたい波田の耳には、警察官らしき歩道橋に登ってくる足音が聞こえた。カツンカツンと一定のリズムで規則正しく音は聞こえる。


「タバコ、ポイ捨てしないでくださいよ。波田さん」


 警察官は木梨だった。ファミレスの時とは違い、青色の制服を着たお巡りさんとしてこの場に来ていた。警察官の制服があまりにも似合っていない。スーツが似合い過ぎていたのもあるが、ギャップに波田は静かに笑った。


「本当に警察官だったんだな」


「えぇ、深夜に大音量で誰かが演奏しているという通報を受けましてね。一番近かった僕が来たんです」


 ゆっくりと近づく木梨に波田は煙草を差し出す。躊躇もせずに木梨は受け取り、波田にライターを借りて一緒に吸い始めた。煙は高く昇って行く。


「おいおい、警察官が受け取っていいのか?なんだっけ、収賄罪とかにならないのか」


「気がついているでしょう?僕は普通の警察官じゃないんです。別にこれくらい大丈夫ですよ。あ、そうだ。ちょっと連絡するので話さないでください」


 少し波田から離れ、木梨はどこかに連絡して戻ってきた。


「これで大丈夫です。駆けつけた警察官が僕で良かったですね。そういえば波田さん何か楽器を弾いていたんですか?通報内容は演奏がうるさいということだったんですが、今は何も持っていませんよね」


 短くなった煙草を灰皿に入れ、歩道橋の手すりにもたれ掛かる。長かった。自分がどれだけ恵まれているのか、ようやく気がつくことができた。あれだけ怖かった楽器は、とっくの昔に捨てたと思っていた。だが、その心を周りの人々が拾い上げてくれた。


 妻夫木さん、上本さん、そして輪塚。他にも俺の周りには色んな人物が居たのだろう。過去も、今も。ずっと、俺は気がついていなかっただけだった。周りのこと、自分のことを蔑ろにし過ぎたんだ。やっと言葉にすることができる。


「いいや、持っているよ。俺は持っていることに気がついたんだ」


 木梨も彼を真似て、もたれ掛かる。心地よい。夏を忘れた風は時の移ろいを与え、次の世界を見せ始める。木梨は言葉の意味を悟った。変に話す気も起きなかったようだ。


「気がつくことができたなんて、波田さんは幸せ者ですね」


 波田は胸ポケットを探る。中には空になった煙草の箱が入っていた。中身が無くなったことを確認して握りつぶす。もう、煙草はいらない。今必要なのはこの箱じゃない。


 空いた手はもう一つの小さな箱に伸びていく。自分から電話をするなんて何年ぶりだろうか。手が震えるようなことも無く、連絡帳から該当する連絡相手を探す。スクロールを繰り返して、最後のページに辿り着いた。発信中の画面が表示され、その声を聞くために耳に当てると暖かい何かが胸の奥にこみあげてきた。直接伝えるべきだとは思う。だが、この瞬間しかない。電話がつながった。


 通話の相手は波田が何かを話すのを待っている。瞳を閉じ、彼はただ一言呟いた。


「輪塚、俺とバンドを組んでくれ」


 電話の主はしばらくの間、沈黙を貫いた。次に口を開いた時の声は嗚咽交りで、これまで聞いたことのない何かをかみ殺した声だった。


「…いいに決まってるだろ。今度、バンド名でも考えようぜ。じゃあ、俺はこれから仕事だ。もう…切るぞ」


 通話が途切れた。横を見ると木梨が煙草を吸い終わった所だった。灰皿を渡して波田は座り込む。何かの力が抜けていき、立っていられなかった。もたれ掛かると鉄の冷たさが心地いい。冬がもう、すぐそこまで迫っていた。


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