第10話


 やがて薬が効くと、気分が落ち着いてきた。やっぱり外は寒い。身も震えて暖かい鍋でも囲むことができれば最高なのだ。ただあいにくそんな準備は無い。


 中々輪塚は車から戻って来なかったが、やっと姿が見えたかと思うとあるものを波田に放り投げた。何か暖かくなるものだったら良かったのだが、それは輪が4つ重なった金属の塊だった。


「何だ、知恵の輪か?」


「解いてみろ」


 理由はわからない。しかし、波田はガレージの奥に行き、空いていた椅子に座って知恵の輪を解き始めた。生まれてこの方、知恵の輪を解いたことが無い彼にとっては新鮮な時間だ。持ち前の集中力が存分に発揮され、知恵の輪はあっという間に…解けるわけが無かった。気がつけば最初と同じ形であり、何度挑戦してもうんともすんとも言わない金属の輪は波田を嘲笑っている。


 ガチャガチャと指を動かし続け、どうにか導かれる一つの答えに辿り着こうと試みる。額に汗が流れ始め、ガレージ内には金属を擦り続ける音が響き続けた。知恵の輪は、外すというシンプルな目的のために思考を使う。ある種芸術の域まで高まったそれは波田の頭を悩ませ続けた。


 どんな音も彼の耳には届かない。たとえ大声で叫ばれても、背中を叩かれようとも、彼の集中力が止まることは無い。止めることができるのは己だけ。そして波田は知恵の輪を握りしめ、肘を膝の上についた。拳は握ったまま知恵の輪を離さず、仰向けになった。こんなに頭を使ったのは一体いつ以来だろうか。


「解けない…」


 再び拳を開く。中に入っていた知恵の輪を見つめていると、輪塚が横からヒョイと取り上げた。顔を見上げると彼は呆れた表情を向けていた。


「集中し過ぎだ。2時間半ぐらい解こうと奮闘していたぞ。全く、勘弁してくれよー」


 ポケットに入っているスマホで時間を確認するともう夜の10時で、輪塚が言いたくなる気持ちは当然だ。輪塚は隣でずっとバイクのメンテナンスを行っていたみたいで、埃をかぶっていたハズのバイクは綺麗に磨かれていた。そして、バイクを愛おしそうに眺めていたかと思うと、波田から奪った知恵の輪をちらつかせる。


「お前はこれを解けなかった。だが2時間も集中していた。この意味が分かるか?」


「いや、わからない」


「集中できるというのも一つの才能だ。数年間、お前と一緒の職場にいたが集中力が切れやすいと思っていた。現役時代の取材では集中力の高さが露見してたからな。どうにもおかしいと思っていたんだ」


「何が言いたい」


 子供がいたずらをするみたいに輪塚は笑った。


「ずっと停滞していたと思っていたら、いつの間にか前に歩いていたってことさ。静かに、少しずつ。それも本人ですら気がつかないほどだ」


 そう言い残し、輪塚は再び車へと歩み始める。少しの間、波田は放心状態となっていた。ハッと我に返り、波田は輪塚の背中を追いかけた。輪塚は車の外で待っており、体をその車体にもたれかけてタバコを吸っていた。


 その様子を見て、波田はずっと胸に引っ掛かっていたものを吐き出したくなった。口に出してはいけないかもしれない。ただ、ずっと気にかかっていたのだ。なぜ、自分にここまで構うのか。輪塚はバンドを組みたい以外にも、何か俺に隠し事をしているのではないか。それこそ、彼の行動理念に関わるものだ。それは俺が…俺が抱えているものと近いものだ。


 ダメだ。波田は頭の疑念を振り払った。いつか聞けばいい。少なくとも今ではない。知るべきことは周りで何が起きているのか。ずっと何かが自分の周りでうごめいているのは気味が悪く、得体の知れないおぞましさがあった。



 輪塚ならどう言えば教えてくれるのだろうか。上本さんは教えてくれない。善意だと言われたとしても、それが正しいとは限らない。どうすればいい。ごちゃごちゃした頭のまま、波田は輪塚に近づいた。顔を見ることができない。


「輪塚、俺は音楽を…ギターを弾いてもいいのか。俺が音楽をやっていなければ、あの騒動は起きなかった。何人も、怪我をせずに済んだ。上本さんも、一生治らない体にさせずに済んだ。傷つけたんだ。俺は音楽で人を殺しかけたようなもんだ」



 輪塚はその刹那に考えた。『いいよ』そう答えれば波田はどう考えるだろう。『そんなことないよ』何がそんなことだ。『今は暗くてもきっと明るくなる』こんな下手に前向きな言葉なんて輪塚は嫌いだった。『好きにしたら』これでは見放しているだけだ。


「悩めばいい、他人に選択を委ねてもいい。心の負担にならない方法を選べ。もう十分お前は自分に向き合ったんだ。少しくらい甘く生きてくれ。お前が甘く生きることによって、救われる人物もいるんだ」


 咥えていた煙草を輪塚は手に持ち、ライターで火をつけた。炎が燻ぶり始める。やがて手を離して混凝土に落としたが、煙草はまだ煌々と燃え続けている。そして波田が何かに気がついた表情を輪塚は見逃さない。彼が一番欲しい言葉をぶつけるのだ。


「お前の音楽で、心の中に癒えない傷をつけてやれ。鮮烈なあの音色を、人々が皆お前に焦がれたあの声を轟かせ。人々を罵倒し、失望を見せ、お前たちが嫌いだと叫んだあの歌詞を並べろ。波田、お前はギターを弾いてもいいのかと聞いたがその考え方は間違っている」


 その目は、腹を空かせた肉食獣のようだった。


「お前はミュージシャンだ。今はギターを手放していたとしても、目の前にあれば弾くさ。頭の中では悩んでいたとしても、奏でずにはいられない。そうだろ?」


 波田は輪塚の言葉に対して、何も答えることができなかった。俯いて、何度も何度も頷き続ける。わかっていたことをやっと理解した。表面上に乗った言葉ではない輝きが、暖かく包み込んでいくのを感じた。


「そうだな、俺は波田洋介だ。きっと、ギターがあれば弾く。曲を轟かせるさ」


「わかったのなら、駅に向かうぞ。時間が惜しい」


 輪塚はさっさと車に戻っていった。足元にある煙草の火はまだ燻ぶっている。ハッ、もういい。靴で踏み消し、波田は彼の背を追いかけた。あれだけ燃えていた煙草の後に、熱い炎は微塵も感じられなかった。




 終電後であれば、報道陣はともかく一般の人は少なくなっていると考えた。車中での会話は無い。二人は考え込み過ぎている。彼らの間に交わされていた言葉は遠くなっていた。やがて二人は駅である菊井出駅に着いてしまう。だが挨拶ぐらい彼らは可能だ。感情を深く込めることはできないが、最低限の言葉は並べることができる。


「着いたぞ」


「あぁ、今日はありがとう。色々な意味で助かったよ。また明後日には現場に行くよ」


「そうか。ま、話は聞いているが体に気を付けろよ。じゃあな」


 輪塚はいつものような軽い姿を見せて走り去っていく。見送った後、波田はあたりを見渡した。あまり使われていない駅では無いはずだが人通りは少ない。駅が静まり返っているような感覚を覚える。人は予想通りに少なくなっていたのだ。吐く息は白い。波田の耳に残る音は車が時々走っていく音だけ。このまま帰れば、誰かに追いかけられることも無さそうだと胸を撫でおろした。


「なんだ、この音」


 突如、静かだった世界を破る音が聞こえ始めた。聞き覚えのあるどころか波田がずっと封印していた思い出、ギターを奏でる音だった。それも下手な弾き方だ。FやBのコードがきちんと弾けておらず、曲全体のバランスが悪くなってしまっていた。波田はあれだけ避けていたその楽器の持ち主のところへ向かっていた。放りだせば良いものの、どんな人物が弾いているのか気になってしまったのだ。


 菊井出駅はホームがあるだけの簡素な駅だ。しかし朝や夕方は通勤、通学する人々でそれなりに利用される駅でもある。上りと下りを繋ぐのは緑色の塗装が失われつつある歩道橋。そして歌い手はギターを片手に歩道橋の真ん中で歌っていた。波田は演奏者に気がつかれないよう、音をできる限り立てないように歩道橋を登った。身長は175cmほどの波田より頭二つほど小さい。歩道橋の端から聞いていたのもあるが、フードも被っていたために波田は顔を確認することができなかった。


 歌い手は波田の存在に気がつかずにもう一曲を響かせた。熱のこもった中性的な声は魅力的だ。しかし、ギターの拙さや音も若干外れていたため素材を生かし切れていない。歌っていた曲が終わると、歌い手は波田の存在に気がついた。暗がりであったが歩道橋に設置されていた明かりに照らされていたため、波田はスポットライトの下に佇んでいるようにも見える。


「あの、もしかして波田洋介さんですか?」


「そうだ」


 歌い手は委縮しているようにも見えた。突然、目の前に今日話題になって騒がれている有名人が目の前に立っており、さらに自身の曲を聞いていたのだ。歌い手は状況の情報量の多さに戸惑い、顔を見られないようにフードを深くかぶった。そして小走りで波田に近づき、ギターを目の前に差し出した。


「お手本…見せてください」


 そりゃ、そうなるよな。ギターか。もう何年触っていないのだろう。


 波田はギターに手を伸ばす。しかし、伸ばした手は熱い物を触った時のようにギターに触れると弾かれた。休符という音が二人の間に響く。波田の手はひどく汗まみれで、とても他人の物を触るような状態ではない。


 考える。ここで取らなければ次に取れる機会がいつあるんだ?目をつぶっててもいい。触るんだ。ズボンに手を擦り付け、ギターを手に取った。絶妙な重さを両手で支える。


 あれだけ避けていたギターが、今手元にある。波田は何だか馬鹿らしくなって、ギターを手に持ったまま腹を抱えて笑った。きっかけは偶然。しかし数多くの偶然が重なり合い、波田の数年間のトラウマを乗り越えさせたのだ。ただ、過程は決して激動的なものでは無い。


 目の前のギターの持ち主は急に笑い出した波田を見つめている。漫画の構図ならきっと頭の上にはハテナマークが浮かんでいるだろう。


「あーごめんな!えっとお手本だったな」


 ストラップを首から掛けて、ギターの重さを知る。楽器の中ではそこまで重くないが存在感があるこの楽器は主旋律として多くのソロアーティストが利用してきた。このギターも目の前の歌い手が使い込んできた代物である。多くの傷跡がどれだけ練習してきたのかを語るには十分だ。だからこそ、声をかけずにはいられなかった。


 ピックを差し出されたが受け取らなかった。ピックなんていらない。必要が無い。決してピックを使うのが嫌いだとかダサいだとか、そんな考えは持たない。ギターを体で感じたかった。その振動を、弾くときの感覚を全身で受け取りたかっただけだ。


 ギターを構え、肩の力を抜く。全身がリラックスし、曲を最大限弾くための準備に入る。歌い手は空気が変わった瞬間を感じ取った。一歩下がり、自分の体を抱きしめるように腕を回した。そして、波田は微笑む。唯一の観客を一瞥し、大きく息を吸い込んだ。


「燐光」


 曲名が語られる。ギターは弾かれる。そして世界が波田の歌声を迎い入れた。

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