第9話

 車で大体1時間かかると伝えられたため、波田は輪塚の車内で寝ていた。輪塚は軽い性格の割には丁寧な運転で揺れる振動が心地よい。月曜からずっと張りつめていた緊張の糸が若干ほぐれていたのか、波田はすぐに無意識の海へ落ちてしまった。ほんのわずかな時間の睡眠だが最近の中では最も熟睡することができ、店に到着して輪塚に起こされるまで起きる様子は無い。そして、夢を見ることも無かった。


 到着した店の近くに街や漁港は無い。しかし、ひと際大きな駐車場を持つ鮮魚店だった。大きなトラックが仲良く並んで、この店が持つ流れを想起させる。店内では生け簀が多く並んでおり、その間を買い物客が自由に見ることができるという構造をしていた。小さい子供連れなら、大人たちは食事を楽しみにし、子供は小スケールの水族館として来たがるだろう。


 大人である波田と輪塚は魚売り場に隣接されている食事処へと向かった。魚売り場の色合いは全体的に暗い色が目立っていたが、食事処の店内では木材がふんだんに使われているために優しく落ち着ける雰囲気を醸し出している。


 メニュー表を開く。昨夜訪れたファミレスとは打って変わって、こちらのメニューは漢字が多めで波田たちの目に親切な設計である。鮪や鯛を筆頭に多くのお造りが並んでいる。しかし、波田の目に留まったのは一度に多くの魚を味わうことができる海鮮丼だった。日替わりであるが、8種類の刺身を選ぶことができるカスタマイズ性は海鮮好きの波田にとって魅力でしかない。輪塚も同意見なのか、二人は海鮮丼のセットを頼むことにした。食事を待つ間、輪塚は手持ち無沙汰でおしぼりで折り紙を作り始めた。そんな彼に、波田は疑問をぶつける。


「あそこの川に居た理由は、上本さんに知らされていたからか?」


 一旦折るのを止め、輪塚は声真似を混ぜながら答える。妙に似ているのが腹立たしい。


「あぁ、そうさ。上本さんに頼まれてよー”波田君は友達がいないから遊んでやってくれ。職場で一番、仲がいいのは輪塚君だと聞いている”って言われたの。妻夫木社長と上本さんは同じ高校だったんだって。それで、この日にできればってことで、えーっと何だっけあの橋の名前」


「温平橋」


「そうそう、温平橋で待ってた。でも、いつまでも波田が現れないからさー暇で暇で川に降りて水切りしながら時間潰してたってわけ」


「水切りって、それなら俺も混ざるべきだったかもな」


 今度やるか!とニコニコ顔を絶やさない輪塚を見ていると、考えていることに波田は馬鹿らしくなって窓を見つめる。視線を遮るように輪塚はあるスマホの画面を波田に見せた。映像はニュースであった。波田を探してる人が沢山いるということが取り上げられていた。しかし、波田は見なくてもいいと輪塚にスマホを戻すように伝える。すぐにスマホを戻し、輪塚はコップの水を飲んで再び口を開いた。


「なぁ、なんか逃亡者みたいで楽しくないか?」


 頭の中になかった発言に、波田は自分の耳を疑った。だとしたら現役時代も逃亡者ではないか。数だけで言えば輪塚の数百倍は逃亡している。波田の考えをよそに、輪塚は手で挑発するように答えを待っている。呆れた口調で答える。


「今なら楽しめるかもな」


「おいおい、どうしたんだ?大人になるのを辞めたんじゃないのか。今の波田は大人っぽく見えるぞ?」


「ま、戻っちまったかもな。輪塚に子供の心は譲るよ」


 何故かグッドのポーズを見せ、波田も彼を真似てグッドで答えた。男子高校生でありそうなやり取りを中年になってすることで、羞恥心か何なのか、完全に考えていたことが頭から消し飛んだ。


 会話の途切れに、ちょうど良く海鮮丼が運ばれてきた。運んできた職人気質の男性は、小皿に入った調味料を説明して立ち去っていく。二人は暗くなったばかりの店内で、海鮮丼に向き合った。極厚に切られた数々の刺身は二人をどんぶりに夢中にさせた。鮪の赤みは身が良く引き締まっており、タコやイカは嚙むと非常に心地の良い触感だ。有名どころの刺身だけではない。新鮮であるが故のハゼの刺身も絶品だった。人生で初めて食べたその味が印象に残りすぎて、これだけでもお造りを頼んでおけば良かったと後悔した。セットで付いてきた味噌汁や漬物達も、口の中を一度リセットして海鮮丼の一口目の衝撃を何回でも体験させてくれる。全体的にバランスの取れた一連の攻撃の連鎖は、終始二人を無言にして胃袋を完全に満たした。


「ご馳走様。いやー美味かったな!今度また来ようぜ」


「俺は別にいいが、家族を一度連れてきたらどうだ?秘密にしておくにはあんまりだろ」


「じゃあ一度連れてくるぜ。じゃあまた今度は波田のおすすめの店を教えてくれ。俺からのリクエストは、えーっと肉だ」


 外食をほとんどしないため、波田は返答に困ったが了承しておくことにした。次、いつ輪塚と食事をするのかは未定だが、ゆっくり探せばいいと思ったのだ。



「じゃあこれからどうするよ」


 車に乗り込み、輪塚は波田に尋ねる。街にはまだ帰れない。少なくとも大勢の人が帰宅するぐらいまではどこかで身をひそめる必要があった。しかし、夜の6時ぐらいに何かすることができるのかと聞かれても波田は全く思いつかなかった。


「じゃ、俺の隠れ家にでも行こうぜ。隠れ家とは言ってもただのガレージだがな。時間を潰すのには丁度いいだろう」


「は?ガレージ?そんなもの持ってたのか。俺はまだ輪塚が家のローンを支払い終わっていないと思っていたが、また買ったのか。どうせ奥さんに怒られただろう?」


「いや、そこまで馬鹿じゃないぞ。ガレージは元々親父のだ。だから古いんだが、ローンほど支払うものは無いんだ」


「で、ガレージには何があるんだ?」


 輪塚は答えない。また大事なことは話さない。輪塚はこれがサプライズだと言わんばかりの仕草で車を発進させた。



 ガレージは時代を感じさせる風貌で周りに特に建物が無い分、なぜここに建てたのか波田は全く見当がつかなかった。


「なぜこんなところにガレージが?と思っているだろう。波田もミュージシャンだったんだからわかるはずだ」


 腑に落ちたところでおおっと感嘆の声を上げる。そして納得した波田をよそに、輪塚はガレージに降りていたシャッターを勢い良く開けた。ガレージ内にはいくつかのベースとバイクが仲良く鎮座していた。いざというときのためなのか、工具と共に非常物品も棚に並んで今すぐにでも生活ができそうだった。


「なぁ、波田。まだお前とバンドをするっていう夢は諦めてないぜ。だからよ、お前にふさわしいレベルに到達したい。今からベースを弾いてみるからどこか足りないのか教えてくれ」


 普段緩やかな顔をしている輪塚が、神妙な顔をしていた。初めて見る表情に波田も真剣にならざるを得ない。ミュージシャンという言葉がなぜか胸につっかえた。しかし、今の波田に断るという選択肢が頭によぎることは無かった。


「厳しくいくぞ」


「そう来なくちゃな!」


 ベースの低い音が辺りに響き渡った。空気の濃度が薄くなるほどの急激な悪寒が波田を襲った。弦は弾かれる。昔からあるようなコードばかりではなく、現代の変化を取り入れた音色は波田が全く聞いたことが無いものであった。一人ベースを弾く続けてきた結果、ベースだけでほぼ成り立つような演奏は輪塚の時代を物語っていた。


 演奏が終わり、波田は静かに拍手を送った。全力で喜びを伝えても良いのだが、感性が通りすぎてしまっていた。指摘するところが無いと波田は伝える。輪塚はこれまで出会ったベーシストの中でもトップクラスの実力を持っていたのだ。一応、輪塚が細かな部分の話をすると波田はそれに答えた。少し苦い顔をし、輪塚はベースをスタンドに立てかけた。


「波田、俺のベースには決定的に足りないものがある」


「ベースとして完成されていると思うぞ、何が不満なんだ?」


 立てかけられたベースをジッと見つめ、輪塚は撫でる。そして、波田の方へ向き合った。


「完成されていることが問題なんだ。だから、俺と組んでくれる人物が居なかったんだ。同世代じゃバンドを組むことを憚れちまった」


「だから、俺にバンドを組んでと言ったのか」


 そうだと輪塚は何度も頷く。輪塚の思いに答えることがまだできない自分がまだ胸中に巣食っている。輪塚自体はは波田がどんな過去を持っているのかは知らない。だが、音楽にトラウマを覚えているのは誰の目で見てもわかる。


 波田を救えるのは、同じく音楽に何かしらのトラウマを抱える人物が波田を励ます必要があった。しかし、輪塚は痛感した。自分だけでは波田のトラウマを払拭することはできない。このトラウマは波田が自分を許さなければ前に進むことができない。彼を助け出す人物が必要なのだ。その気持ちは波田にも伝わっていた。


「あぁ、だが無理強いはしないさ。波田は俺と違って、音楽で人を傷つけたと思っているんだろう。そんな奴に押し付けることは間違ってる」


 ベースに見向きもせず、輪塚はガレージを後にする。波田の横を黙って通り過ぎ、自身の車に向かった。波田は足元の石を蹴り飛ばす。石は跳ねては転がり、やがて誰かのガレージのシャッターにぶつかった。


「冗談にしては、無邪気すぎだ」


 波田のため息は言葉と共にこぼれる。暖かくなると思っていた秋は冬に直行した。寒い。芯から震えるように寒い。凍えてしまいそうな感覚は間違いではないが勘違いだ。バタバタしていたせいで薬を飲んでいなかったことを思い出し、波田は急いで服用した。まだ、付き合っていく必要があるのだろう。これも、人間関係も。


 本当に治るのだろうか、周りの人々には恵まれている。ただ、自分はどうなるのだろうか。おーい、と遠くから輪塚の声が聞こえる。ただ、薬が効いていない。自分の体なのに、自分の意志で動かすことができなかった。

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