第8話
波田のポケットが揺れる。振動の主はスマホであり、誰かから呼び出しを受けているようだった。発信元は知らない番号。波田は間違い電話なのだろうかと電話を取った。波田はその声をどこかで聞いたことがあった。すぐに思い出すことはできないが、声から女性だとすぐにわかった。
「波田洋介さんのお電話でしょうか」
知らない相手に自分の番号を知られている。波田が急に浮かべた表情は、まさに人間の防衛機能が働く瞬間だ。気がついた上本は何事かと立とうとするが、波田は口に人差し指を当てた後に座るように促す。上本にも聞こえるように通話をスピーカーに波田は切り替えた。
「あぁ、波田だ」
女は電話の相手が波田だとわかると、一方的に用件を伝えてくる。
「では情報をお伝えします。今、そちらの家に多くの記者や民衆が向かっています。直ちにその家から立ちさって下さい」
淡々と話す内容は不思議と波田の頭の中に留まった。非常に明瞭な声は波田の気持ちを落ち着かせ、冷静に情報を整理させる。また上本さんに迷惑をかけるわけにはいかない。電話の主は初めに名乗らなかった。名乗りたくないだけかもしれないが、それほどまでに事態は急を有するという可能性もある。時間が、無いのか。くそっ!
「奴らはあとどれくらいで来るかわかるか?」
「SNSの呟きによると、10分前に歩井口橋までたどり着いています。おそらく15分後ぐらいにはそちらの家にたどり着いてしまうでしょう」
体は勝手に動き始めていた。波田はコートを手に取り、足音など気にせずに踏みしめて玄関に向かう。革靴を履いていると、上本が何かを波田のそばに置いた。
「上本さん、これは?」
「波田君が歌手を辞める前、最後に書いていた曲のデータだ。機械はよくわからんから息子にデータ化しておいてもらったんだ。中身をどうするのかは君が決めなさい」
拾い上げ、拳で握りこむ。拳を額に寄せて、自分の運命に歯を食いしばった。まだ音楽は波田を離してくれない。忘れたくても、魂に刻み込まれた音楽への思いは後悔と共に付きまとってくるのだ。
「波田君、君は玄関から出たら歩井口橋ではなく、反対方向の温平橋に向かうんだ。赤色の大きな橋だ。あちら側なら別のバス会社のバスで街を出られるはず。時間が無い、急げ!」
「上本さん、ありがとうございます。今度はもっとお茶を上手く淹れられるようになってきます」
上本は頷き、波田の背中を思いっきり叩いた。昭和流の気合の入れかたは、波田には随分効いたようだ。お邪魔しましたとも言わずに、波田は上本の家を出ていく。若い頃から変わらない波田の様子を見て、上本の涙腺は緩み始める。しかし、瞼を擦って彼は呟く。
「一つだけ言っていないことがある。喜んでくれることを祈っているよ」
上本の家には多くの取材陣が到着したようだった。家の周りが非常に騒がしい。民衆も合わせた軍勢は上本の家を押し倒すつもりなのか、というほどの勢いで家の外を蹂躙し始めた。
「どうせ迷惑をかけてはダメと思ったんだろうが、もう別に気にせんよ」
家中の鍵を閉め、上本はお茶をすする。お茶は薄いが、これを乗り切るには丁度いいだろう。テレビの電源を付ける。中継には上本の家が映し出されていた。
温平橋へと波田は急いでいた。明らかに走っていると、目を付けられてしまう可能性があるため、できる限り通常を装う。温平橋へは一本の道しか存在しない。両隣がレンガブロックで挟まれており、車だと地元住民が軽トラでやっと走れるぐらいの道幅だ。この道は周辺に住んでいる学生が通学路の裏道として使うぐらいしか認知されていない。ただ、今の時刻なら学生が下校し始めてもおかしくない時間だ。人通りが少ないことをいいことに波田は早歩きで、目的地へと急ぐ。
レンガで挟まれた道を抜けた。すると右方向に、風にさらされて赤が色褪せ始めた温平橋が見える。大きな越流川を跨ぐようにかかっており、よくある田舎の鉄橋そのものだ。ここまで人と会わなかったのは不幸中の幸いだが、こうしていられるのも時間の問題である。さっさと橋を渡らなければ。車が通っていないため、波田は赤信号をそのまま渡り切った。
越流川は川遊びには丁度良い水量を誇っており、夏のシーズンでは川岸に多くの人物がバーベキュー等を行っている。今はもう涼しくなってしまったために人はいない。だから波田は気になった。ある人物が川の流れに沿って歩いており、波田を見つけると手を振ったのだ。
「上本さん、相変わらず仕込みが上手いな」
温平橋の反対側を見ると、川の下へと続く階段があった。それなりに長さのある橋を渡る。コンクリートで作られた階段の幅は非常に狭い。注意して降りなければ。さらに、毎シーズン人が多く訪れるのならもう少し、改良した方がいいと誰もが考えるほど劣化していた。川の近くは一段と気温が低くなっている。手に抱えたままだったコートを羽織り、近づいてくる人物と向き合う。こんな時に、いや、こんな時だからこそ彼の存在はありがたかった。
「せっかく休みだってのに、相変わらず辛気臭い顔してんな」
波田は自身の頭を掻きむしり、髪をクシャクシャにする。
「よう、輪塚。川遊びか?」
名前を呼ばれた輪塚は手元に何かのカギをちらつかせた。休日の格好なのか、黒のズボン、黒のシャツで見るからに寒そうな格好だ。しかし、持ち前の元気さで全くその様子を見せない。
「さぁ!遊びに行くぞ!橋の近くに車を停めてある。急がなきゃお前のファンたちに捕まっちまうぞ~」
肩の力が抜けた波田は来た道を戻ろうとする。輪塚は慌てて言葉をかけようとするが、杞憂だった。階段を一段登った波田が振り向き、先に答えた。
「輪塚、どこに連れて行ってくれるんだ?俺は上手い海鮮が食べたいんだが、いい店を知らないか?今度は俺が奢るぞ」
輪塚は少しの間、足元の石を見つめて大きく手を叩く。また、いつもの癖だなと波田は洋画のような肩のすくめ方をした。
「なんだよ、面白くなってきたじゃねぇか。海の幸なら心配するな。海育ちで舌は肥えてる。いい店を期待してくれよ」
「あぁ、楽しみだ」
輪塚がなぜここにいるのか、波田はまだ聞かない。気になるのは上本の現状だ。今頃、家の周りには多くの人が集まっていることだろう。波田には彼をどうにかできる方法は無いに等しい。だが、上本はどうだろうか。ここに輪塚がいるのはおそらく…上本の仕込みならば現状も考慮できたはず。
ダメだ。一度考え出すと止まらない。上本の言っていた通りの自分の性格が、浮き彫りになっていた。階段を登りきり、輪塚の車へと向かう。さっきから足が震えている。追いかけられるという恐怖がまだ体の中に染みついてしまって、少しの衝撃で露出してしまう。だから輪塚に指摘されるまで、自分の携帯が振動しているのに気がつかなかった。
「おい、波田。携帯になんか来てるぞ」
ポケットに突っ込んでいた携帯には、何かメッセージが届いていた。差出人は不明。また、奴か。波田がそのメッセージを開くと、そこには上本が息子の上本創吾と共に将棋をしている写真だった。添付された画像の撮影日時はついさっきになっており、波田は気がつかなかったがあの家に息子が居たということを示している。
『私については気にするな。息子と一緒に遊んでいるよ』
メッセージを見ると、波田は携帯の電源を切った。楽しんでやろう。ここまで揃えられて、家にただ帰るのは愚者のすることだ。足の震えも止まっており、輪塚の車に乗り込む。
「シートベルトしておいてくれよ。普通に警察に捕まるのは嫌だぞ」
「わかっている。色々ありすぎて腹が減った。少し早いが、輪塚の好きな店に連れて行ってくれ」
輪塚はニヤリと波田を一瞥し、アクセルを目一杯踏み込んだ。
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