第7話

 上本の家は庭先に様々な植物が植えられており、丁寧に手入れされている。空になった犬小屋と錆びたチェーンの雰囲気、くすんだ色の家の屋根がこの家の年月を知ることができる。波田は準備することは何もなかった。必要無い。


 インターホンを押すと、波田が来たという知らせが家に響く。家の奥から誰かが歩いてくる音が聞こえる。きっと上本さんだ。波田は一つ深呼吸をする。深呼吸が終わると同時に、目の前のドアが開いた。


「戻って来ました。上本さん」


 老人は涙をこらえている。ドアを開けたまま、訪問者の顔をしばらく眺めて口を開いた。


「あぁ、よく来てくれた。話は中でしようか。上がってくれ、波田君」


 上本の家は随分と寂しいものだった。聞こえる音は二人が動く音と、時計の針が動く軌跡だけ。2階へと続く階段は暗く、おそらく使われていないのだろうと波田は考えた。年季が放つ独特な家の雰囲気ではなく、あったのは誰にも使われていないという現実が、この家の哀愁を増加させる。


 上本はリビングに波田を案内する。リビングに綺麗な動線を描いて繋がるキッチンへと向かい、お湯を沸かし始めた。


「妻が去って、もう2年なんだ。この家も寂しくなった」


「喜美さんが、お亡くなりになったんですか?」


 上本は頷き、戸棚に置いてある茶葉を取ろうとするが、上手く取れない。


「俺が取ります。上本さんは座ってください」


「そうか、体がうまく動かんものだ。すまんがお言葉に甘えて、ここは波田君に任せよう」


 上本はリビングの真ん中に鎮座するちゃぶ台の横に座り、買ってきた団子の封を開け始めた。波田は予め置かれてあった急須に茶葉を入れて、沸いたばかりのお湯を注ぎこむ。そして、食器棚から湯飲みを取り出してお茶を注ぐ。追加で皿を二つずつ取り出して、湯飲みと一緒に上本の目の前へと運んだ。


 お茶をちゃぶ台に置き、波田はずっと言えなかった言葉を吐き出した。長年詰まった思いがついに溢れ出す。彼の中で蠢いていた事件が終わりの鼓動を始める。決して短くない期間、積み重なった思いは言葉以上の重みがあった。


「上本さん。7年前のあの日、本当に申し訳ございませんでした。今更とは思います。力を尽くしてくれたあなたに、一生消えない傷跡を残してしまった。隠れて過ごして、その事実にも向き合わなかったこと、許してほしいとは言いません。ただ、謝罪の言葉を述べさせてください」


 上本は静かに聞いていた。少し間を空けて、お団子を包んでいた包装紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱に向かって投げた。右手で投げられた包装紙はゴミ箱には入らず、見当違いの放物線を描いて窓際を這うように転がっていった。


「これか。そんなこと気にしてんのか?どうせ引き際だったんだ。暴れていたツケが回って、どっかの誰かが私に与えた罰だろう。波田君も同様の罰を受けたようなものだ。共犯者同士に遠慮なんかいらないさ」


 穏やかな顔で笑った。穏やかさの中に含まれる淡い哀愁が、年の甲でさらに深くなる。


「それに、自分を責めすぎているよ。物事を必要以上に悲観することも無いと、私は思うがね。その行為は手首を切るのと何ら変わらない。対象が体か心かの違いなのだ」


 心の中の何かがが、ストンと落ちた。自分の中で、何かの折り合いがつき始めた音だ。波田はすぐに理解できなかった。しかし、前に進んでいたことを自覚した。


 気がつくことができたのも、上本の知識と経験の深さがあったかあだ。そして彼の暖かさは、寒くなったこの季節を忘れてしまいそうだ。


 しかし、上本は波田のお茶を啜ると、かなり強い勢いで湯飲みを置いた。その音に過剰に反応した波田は体を強張らせて委縮する。


 上本の目が笑っていなかった。


「薄い。お湯を入れてすぐに湯飲みに注いだだろう。波田君が気にしている7年前の話はどうでも良いが、このお茶は許せん。次に来るときまでにはお茶の淹れ方を学んでおいてくれ」


 トラウマになりそうな形相から、この人はお茶にうるさい人なんだと波田は初めて知った。長い付き合いだったが、気がつかないことばかりだ。66年の拘りに安心感を覚え、波田は微笑んだ。


「次は上本さんが唸るような美味しいお茶を淹れてきますよ。それまでにポックリ逝かないでください。勝ち逃げは止めてください」


「勝ち負けじゃないだろう?ならば、どちらが長く生きるかでも勝負するか?波田君の年なら勝負をしてもいいぞ」


 波田はお茶を啜る。びっくりするほど薄く、ほぼお湯だった液体に吹き出しそうになる。


「いいですね、じゃあどうです?負けた方が先にお茶と茶請けを用意しておくというのは」


「いいだろう。今のうちに勉強しておけよ」


 二人は団子とお茶を啜り、時間を潰した。この7年間に何があったのか、どんな生活をしてきたのか。他愛もない話、くだらない話、色褪せていたはずの古き家が色どりを取り戻し始めていた。話切れ間、上本は波田に問うた。


「なぁ波田君、生き別れの過去と再会した気分はどうだ?」


 波田は思った。悔しさか、哀れみか、後悔か、そんな気持ちだろうと。しかし、過去は案外気さくな奴だった。これまで払ってきた何かはきっと、旧友に費やした時間。それは優しい幸福だった。


 辿った過去は、過去の波田が見ていた夢である。積み上げてきたプライド達と向き合うこと、知ってしまうことが怖かった。一度は捨てたものと向き合うなんてとんでもない。だが、残ったのは穏やかな安心感だった。これを得る人間は一体どれぐらいいるのだろうか。


「振り返ってみれば、懐かしの日々でしたよ」


 上本は同感の意を表すように何度も頷く。しかし、急に神妙な顔を波田に向ける。


「明後日、君は自分の過去ともう一度向き合う必要がある。そこでどんな選択をするのかは、波田君が決めなければならない。だが、君の選択がどうであろうと7年前と同じく肯定する。存分に悩むといい。小口君によろしくな」


 小口、たしかに波田が明後日会う予定の人物である。木梨、小口、上本、そして波田の共通点はあの記者会見の日に現場にいたという事実だけ。そういえば、妻夫木社長は何と言っていたか。波田は妻夫木社長の言葉を頭の中で探し出した。


「今、俺の周りにはなぜか動きがある。その一番後ろにいる女性はいったい何者なんですか?」


 湯飲みの湯気も立たない。上本が答えるのを波田はただ待った。


「私の口から彼女のことを言うことはできない。君に隠し事をしたくは無い。だが話すわけにはいかないのだ」


 何も知らないという恐怖、目の前の人物が提示する条件、波田の不安は増すばかりである。波田はその恐怖から逃れたかった。


「何か一つでもいいです。俺に教えて頂けませんか?」


「これは悪意ではない。ただ、それだけしか私は答えられない。すまないな」


 木梨の時と同じだ。波田は彼女の目的は一体何なのかを考えるが、全く想像がつかなかった。首を振り、疑念をどこかへ飛ばそうと考える。


「人間、一度考えてしまうと中々その迷路からは抜け出せないものだ。迷路を抜けるための直接的なヒントを伝えられなくて申し訳ない。だが、無理に吹き飛ばす必要は無い。いくつになっても変わらないものもある。変えられないと言った方が正しいかもしれんな。だが、それを信念、プライドと言う。君もかつて持っていた。悲観するようなことではないが、君がそれを心から理解できた時、彼女の真意を知ることができるだろう」


 夕日が家の中に入り込み、上本を照らす。まるで天国への階段のように伸びる光。波田はその光を遮るように日の光を隠した。


「上本さんの話は、俺にはわからない。だが、俺は一度もあなたを疑ったことは無い。これからもそうだ。だから、俺は上本さんを信じる。いくつになってもこれは変わりませんよ」


「ようやく、いつもの口調に戻ってきたな。波田君にはその口調がお似合いだ」


 つい、戻ってしまった口調がどこか恥ずかしく、波田は縁側へと続く窓を開けた。新鮮で涼しい空気が家を満たしていく。風が彼らの心を洗濯する。


 さっきまで暖かいお茶を飲んでいたため、風は彼らの体には冷たすぎた。二人はほぼ同時に、一瞬の冷えた空気に体を震わせた。


「もう、冬か。早いな」


 波田は窓の外を眺め、はにかむ。


「また暖かくなります。俺が秋を終わらせませんよ」


 上本は波田の表情が見えなかった。だが、確かに見た。目の前の波田洋介がまた一つ、大きな決断をしたということを。その顔は清々しいほどの秋晴れのようだった。

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